先週江戸川乱歩賞に応募してからこっち、何もしていない。
何をしていいのかわからないし、やることが見つからない。
本も読めない、映画もアニメも観る気にならない、
ただ毎日ボーッと時間を潰している。
暇だ。あまりにも暇だ。
とにかく暇で暇で仕方ないので、以前冒頭だけ書いてほったらかしにしていた
巨大ロボット物の続きを書いている。
しかし、書きたいシーンも目指すべき結末も何もないまま書いているので、
物語が一向に進まない。
物語と言ったってまだ冒頭、風呂敷を広げさえすればいいだけなのだが、
これがどうにも広がらないのだ。
頭の中に何も湧いてこない。ビックリするくらい何も出てこない。
何とか脳を刺激しようと四苦八苦しているものの、
まるで効果が見られない。
何ともかんとも。
やっぱり明日への希望というか、明るい未来を目指す心がないと
創作は難しいのかも知れない。
いや、絶望が目の前にぶら下がっているいまだからこそ
書ける物語だってあるだろうとは思うけど、
そんなモノを書きたいという気にはなかなかならない。
読者を絶望にたたき込むようなシチュエーションは、
書いている側が精神的に健康で耐久力がある状態だから書けるのではないか。
書いている側が先に絶望するようでは、結末までたどり着けないしな。
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る
と石川啄木は「一握の砂」で詠んだが、
これはおそらく絶望の中で生み出された歌ではなかろう。
啄木の人生は客観的に見れば悲劇的なのだが、
果たして本人にその意識があったかどうか。
「不幸ってこんな感じですよね?」
みたいな作為をどこかに感じるのである。
いや、別に不幸自慢がしたい訳ではない。
どちらかと言えば「不幸表現者」としての石川啄木すげえ、という話である。
正岡子規の
柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺
の情景描写力すげえ、と同列の話だ。
石川啄木と言えば
東海の 小島の磯の 白妙に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
も有名だが、こちらも不幸表現と言える。
これを魂の叫びではなく、作為で生み出せた天才が
啄木だったように思えてならない。
もちろん、本当のところは知らん。
ただ人間は本当に自分が不幸だと思い、諦めてしまったら
頭を創作に振り向けることなどできないと思うのだ。
脳という器官はそこまで便利な代物ではない。
それをここのところ痛感している。
はあ、もう少し時間がかかるかもなあ。
何にせよ、こうなってしまっては
好むと好まざるとに関わらず頑張るしかないのである。
どうにかしよう。
しかし今月の電気代が高い。高すぎる。マジにキツい。
これも何とかしないとなあ。