神様、私は人に良いこといっぱいしますから
お願い事を叶えてください。 そうやって神仏に
お願いをしますよね。
でも良いこといっぱいしてるのに、悪いことが
起こると「これだけ良いことして、お願いをしてるのに
神様はちっとも助けてくれないんだ、まあどうせ
神様なんていないよ。」とか思っていませんか?
人がいいことしたら救ってあげよう、と神様の役割を
そんなところに求めてしまうと、結局神様は「人間の
パシリ」にしてしまっているということなんですよね。
本当の「ピュアな善行」なんて「自分が神様に助けて
もらえる」という神様との取り引き上のものではなくて、
「純粋な愛」から出たもののはず。でも罪深い人間が
「ピュア」なものを求めようとすると、それは「神様
の自分を委ねること、すなわち神様をひとえに
信仰すること」によってしかなし得ない。
これを信仰義認と言い、そう考えたのが16世紀の
ドイツで宗教改革を起こしたマルチン・ルターです。
これには原典があり、イエスの使徒、パウロが
書いたパウロ書簡の中の「ローマの使徒への手紙」
に出て来ます。
当時は、ドイツのカトリック協会の司教たちが、
ローマ教皇からの権威を貰いたくて、沢山寄付を
するために、免罪符ー贖宥状を売り捌いていま
した。これをルターは痛烈に批判し、最後は破門され
てまで、新しいプロテスタント運動を興すのです。
神社で販売されているお札やおみくじ、それは後に
人間が作りだしたもの。でも神社にいらっしゃる
神様の核心は、「信じること」そして神様に
全て委ねて「日々を感謝すること」ではないのか。
そのような仮説からこの小説を書いています。
この神様の核心部分を主人公は研修で聞かされる
ことになります。
お楽しみに。
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