あの綿布団が真っ白でふかふかなダブルサイズになって戻って来たのは、十月最後の金曜だった。
さすがに法衣で布団に入るわけにはいかないのか、布団を傍らに尚隠は白衣姿で向き合う。寝るには不釣り合いな数珠を膝で握り締め、まっすぐに私を見つめた。
「下手に怖がらせたくないから先に言っとくけど、見えるように出てくるぞ。毎晩、枕元に座って唸ってるんだ。怨念に飲まれて、自分が人だったことも忘れてる。どうにかして思い出させてやらないと、上げてやれない」
「そこを、あの子達が助けてくれるのかな」
かもな、と返して尚隠は布団をめくる。
今は通い婚のような付き合い方をしているから、尚隠がうちに泊まる日はそれなりにある。でも逆は、離婚して以来初めてだ。無事に弔えて入籍できれば、またこれが日常になるのだろう。無事に、弔えれば。
文乃、と呼ぶ声に落ちていた視線を上げる。
「大丈夫だ。お前は死なせないし、俺も死なない」
言い聞かせるように響く声に頷いて、軽く温かい布団に入る。尚隠は照明を常夜灯に切り替えたあと、数珠を握り締めて続いた。
「出たら勝手に目が覚める。それまで寝てたらいい、疲れてるんだろ」
「寝れるわけがない」
霊が出ると知りながら眠れるほど、逞しくはない。そうか、と笑う声に寝返りを打つ。応えて向き合った尚隠と、とりとめのない話をして待つことにした。
やがて話題がいもほり遠足に移った時、総毛立つような感覚に襲われる。尚隠はすぐに私を引き寄せて抱き締め、読経を始めた。
聞き慣れた声と数珠を繰る音に紛れて、確かに唸るような声が届く。女性とは思えない太い唸り声は、どこか苦しげにも聞こえた。高祖父の代からなら、もう百年は経っている。恨み続けてこれからも殺せば、本当に楽になれるのか。
腕の中から少し顔を仰がせ、枕元で暗いものを炎のように揺らめかせる何かを見る。僅かに正座する着物の膝と、そこへ刺すように爪を立てる女性の手が見えて、ぞくりとした。まるで何かに、じっと耐えているような。
「本当に、あなたの浪費が理由で捨てられたんですか?」
尋ねた私に唸り声が一層強まり、膝を握る手が筋張る。
「無理だ、まだ声が届く状態じゃない」
ほんでも、と小さく言い返した瞬間、何かに頭を掴まれたのが分かった。こめかみや頭に突き刺さっていくのは、爪か。
「文乃!」
尚隠は悲痛な声を挙げて読経を止めるが、少しずつ奥へと沈んでいく痛みは止まらない。放せ、と叩きつけられた数珠に彼女の手が緩んだ時、足元の方で子供の声がした。
「あやのちゃん、だいじょうぶだよ」
聞こえた声にどうにか視線をやると、粗末な着物を着た子供が「三人」立っていた。違和感に気づいた瞬間、ふっと手が私の頭を手放す。
「あ、ああ……き、よ……きよ、し……」
唸り声は呻き声に代わりながら、誰かの名前を呼ぶ。
まさか。
尚隠に支えられつつ体を起こし、並んだ子供達を改めてちゃんと見る。三人とも幼いが、真ん中で折り紙を手に立っていた子は二、三歳か。一際幼く見えた。
「ずっとないてたから、あやのちゃんにおしえてもらったおりがみあげた」
「それで、つれてこれたの」
「きよ、し……清!」
風が立って、黒い影が子供達目掛けて動く。でも真ん中の子を抱き上げる時には、きちんと着物姿の女性に戻っていた。尋ねなくても、間違いないだろう。
名前を呼びながら啜り泣く女性と嬉しそうな笑顔を浮かべる清は、親子だ。
「おかあさんをまってたけど、いつまでもこないから」
一番年長に見えるのが、兄弟の兄だろう。
「ありがとう、連れて来てくれて」
礼を言った私に、兄弟は誇らしげな表情で笑った。
「……ありがとう、坊や達」
やがて泣きの残る声で、女性も体を起こして兄弟に礼を言う。清を大事そうに抱いたまま、こちらを向いた。
「あなたがお妾さんをしていたのは、私の高祖父です。彼はあなたが亡くなった時、あなたの浪費癖が原因で捨てたと一族には説明を。本当は、どうだったんですか?」
尋ねた私に、女性は清を傍に置いて慎ましく頭を下げる。
「申し訳ございません、お嬢様。私《わたくし》が浪費をしていたのは、確かでございます」
詫びで切り出したあと頭を上げ、私を見つめた。年は私と変わらない頃か、物憂げな表情が美しい、儚げな女性だった。
「ただ、決して私自身が着飾るためではございません。生まれついて胸を患っていたこの子を、どうしても治してやりたくて」
口にされた親心に納得して、清を見る。母親の首に掻いついて笑顔を見せる、愛らしい子供だ。私でもかわいいと思うのだから、母親なら尚更だろう。
「事業が順調な頃は旦那様も、いくらでも使えと仰ってくださいました。おかげで私は清と東京に住み、高名なお医者様のところで治療を受けさせてやれました。でも、事業が苦しくなってからは」
私を見つめていた視線が、ふと落ちる。予想できる結末が苦しくて、隣にあった尚隠の手を握った。握り返された手に少し落ち着いた胸で、次を待つ。
「私は、必死で働きました。父親に見捨てられたこの子を、どうにか助けてやりたかったのです。でも旦那様のお金で受けられていたような治療はもう、受けさせてやれませんでした。少しずつ質が落ちていくほどに、清も目に見えて窶れていって……やがて、どんな治療も受けさせられぬようになった頃、死にました。二歳でした」
短い行年に、思い当たる。父と祖父が結婚二年で死んだのは、それを思い知らせるためだったのか。
「今となってみれば、為す術なく我が子を見送るしかない親が多くいる中で、二年も共に過ごせたことは幸せでございました。でも当時の私はとてもそのようには思えず、怒りと呪いの中で自ら命を絶ちました。このような死に方をすれば清に会えぬと、気づけぬままに」
訥々と話す細い声に、尚隠が頷く。
「悟った頃には、もう自分ではどうにもできないようになってたんだな」
「そのとおりでございます。子が親を喪う痛みを知れど、もう、どうにも。本当に、お嬢様には申し訳ないことをいたしました」
再び深々と頭を下げる女性に、兄弟が一歩進み出る。
「ふたりは、ぼくたちがつれていくから」
「かんのんさまが、いいっておっしゃった」
「……よろしいのですか」
女性は驚いたように頭を上げて兄弟達に尋ねたあと、私を見た。確かに、この中で一番被害を受けているのは私だ。
「観音様が許していらっしゃるのに、私が反対する理由はありません。この人が殺されていたら、とてもそんなことは言えませんが……あとは、尚隠に任せます」
一足早く場を離脱して、台所へ向かう。ざわめく胸を落ち着かせるように、冷えた水を呷った。
私は、彼女が殺した祖父の顔も父の顔も知らない。母が死ぬ原因を作ったのは彼女だが、彼女が殺したわけではない。
――お母さんは、あなたがいてくれたらそれでいいの。
それは、彼女だって同じだったはずだ。分かっている。でも。
止め処なく溢れる涙に洟を啜り上げた時、背後でかさりと音がした。
振り向くと、逃げるように廊下を駆けていく小さな背が見える。……清か。苦笑しつつ滑らせた視線が、テーブルに置かれた折り紙を拾う。手に取ると、赤いロケットだった。
――ずっとないてたから、あやのちゃんにおしえてもらったおりがみあげた。
ああ、そうか。私が、泣いていたから。
「ありがとう」
小さく礼を言い、廊下の奥を見る。折り紙を置いて、そっと手を合わせた。
探した姿は予想どおり台所にあって、夕飯の支度に取り掛かっていた。
「ただいま」
「おかえり。無事済んだか」
尚隠は手を洗う私を一瞥して、フライパンを揺する。茄子の味噌炒めか、ふわりと香ばしい味噌の香りが立った。
「うん。今年もいい発表会だったわ。みんな一生懸命、楽器叩いてた」
思い出すと潤みそうになる目頭を押さえ、必要な皿を把握するため鍋の蓋を開ける。煮込まれた冬大根と手羽元も甘辛い、食欲をそそる匂いだ。あとは味噌汁と、漬物くらいか。
「最後、教室に帰ってから子供達に『がんばりメダル』を配ったの。余分に二個作ったんも、ちゃんとなくなってた」
「あの子達もがんばってくれたから、ちょうどいいな」
笑った尚隠に頷いて同意し、食器棚へ向かう。
あれから約一ヶ月ほど経ったが、彼女が私達の元に姿を現すことはない。ただあの兄弟は、今もたまに園の活動に参加しているらしい。満たされるまで、楽しんでいけばいい。
「子供は、幸せな方がいいからね」
「大人もな」
続いた声に、汁椀へ伸ばす指が止まる。
「ほんと、そうだね」
再び嵌まった左手の指輪に笑んで、今度はちゃんと掴んだ。