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のこされたこどもたち(標準語版)1

『のこされたこどもたち』の標準語版をこちらに掲載します。
(一度に全部載せられなかったので分けました)
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 聞こえた溜め息に、作務着の肩を揉む手を止める。
「ごめん、痛かった?」
「え? ああ……すまん、気持ちいいよ。これからのことを考えてたら、知らないうちに出てた」
 肩越しに振り向いた尚隠《なおやす》は、苦笑で詫びたあと前を向く。安堵して再び分厚い肩を揉み始めるが、違う不安が湧いていた。
「やっぱり、やっていけそうにないの?」
 元妻として台所事情を控えめに尋ねると、尚隠は揺れるように頷く。古びた蛍光灯を浴びて、仄暗い影が日に焼けた畳を滑った。古いだけが取り柄の屋敷に今住むのは私一人、介護度が上がってしまった祖母は先月から施設のお世話になっている。
「代替わりを重ねて、連絡の取れる檀家は昔の三分の一でな。今は墓じまいブームでかつてない好景気に見舞われてるけど、全部が永代供養と離断の金だ。続くもんじゃないし、続いたら続いたでそれも困る。まあ放置されてる墓を見ると、墓じまいでもいいからとは思ってしまうけどな」
 綺麗に剃り上げた頭を俯かせて、寂しげに零した。
 先代住職の急逝を期に仕事を辞め、正式に寺を継いだのは今年の五月。寺は鳥取城下で栄えた武家町の一角にあり、かつては多くの檀家を抱えていたらしい。しかし関西を始めとした都会への若者流出が止まらぬ時代に突入してからは、着々と檀家を減らし続けて今に至っている。
「なんか、いい方法があればいいんだけどな」
 収入自体は既に無住となった同門の寺を掛け持ちしているから、そこまで少なくはないだろう。でも自分の寺が廃寺となれば、元も子もない。何かいい手が。
「……そうだ、あの布団を公開したらいいんじゃない? あの話にある寺はうちなんですって」
 思いついた私に尚隠は、ああ、と頭をもたげた。
 鳥取を舞台にした話の中で、寺と関わりがあるのは小泉八雲の『鳥取の蒲団のはなし』だ。
 昔、ある男が古道具屋で道具を揃え、鳥取のどこかに小さな宿屋を開いた。
 ただ最初の客も次の客も、一旦床に就いたあとに同じ理由で飛び出してしまう。布団の中から、幼い兄弟が「寒くはないか」とお互いを労りあう声がすると言うのだ。
 不思議に思った主人は、その布団を自分の部屋へ持ち帰って床に就く。そして彼らが正しかったことを知り早速、布団の出処を探し始める。その結果、ある家主が八つと六つの兄弟から買い取ったものだと分かった。
 兄弟は両親を相次いで喪って以来、家財を売りながら生計を立てていた。その最後に残ったのが、件の布団だった。彼らは布団の下でお互いを労りながら大雪の寒さを凌いでいたが、家賃代わりにと大家に剥ぎ取られ、家を追い出されてしまった。
 しかし家を失った二人には行くあてもない。兄弟の亡骸はしばらく後に家の裏で見つけられ、観音堂の墓場で眠りに就いた。
 話を聞いた主人は、その布団を観音堂の僧侶に寄進して弔いを上げた。それから布団はもう、声を聞かせることはなくなった……と、簡単にまとめればこんな話だ。
 この寺に出てくる寺は尚隠のところで、兄弟は今も墓地の小さな地蔵の下に、布団は観音堂の長持の中で眠っている。尤もそれを知っているのは、代々の住職と限られた人間だけだ。私は子供の頃、こっそり尚隠に教えてもらった。
――あやの、『とっとりのふとんのはなし』てしってるか? ここに、そのふとんがあるんだ。
 あれは私が八歳の冬、母を喪い何をやっても泣き止まなかった日のことだった。泣くのをやめて洟を啜り上げた私の手を握り、尚隠は観音堂へ向かった。
 尚隠と私は寺の息子と檀家の娘の関係だが、私がよく寺に預けられていた事情もあって、赤ちゃんの頃から一緒にいた。私に父がいなかったように、尚隠には母がいなかった。私達は、自然とお互いを補い合うように育った。「呪われた家の娘」の噂は既に定着してしまっていたが、尚隠は私を厭うことなく育って三年前、二十六歳の時にプロポーズをした。
――愛があればどうにかなるだろ。
 まあ、ならなかったのだが。
 それはともかく、二人して滑り込んだ観音堂の奥にその長持は確かにあった。ただ鍵が掛かっていて、結局観音像に手を合わせただけで帰ったのを覚えている。
「檀家さんを増やすにしても思い出してもらうにしても、まずは寺の存在をアピールしないと」
「そうは言っても、いくら成仏してるって言っても子供のもんだからな。布団を公開したら『墓はどこですか』てなるだろうし、騒がしいことはしたくない」
「だけど、子供よ? ひっそり眠り続けるより、似た年頃の子供に気づいてもらえる方が嬉しいかもしれない。私達が長持見に行ったりお地蔵さんに手を合わせたりしても、遠ざけるような感じはなかったんでしょ」
「まあ、そうだけど」
 尚隠は霊の姿を見ることはできないが、存在を感じ取ることはできる。でもその力で檀家を増やすのは、もっと気が進まないだろう。
「俺は子供のことは門外漢だから、文乃《あやの》の方が正しいのかもしれない。ただ『寺のために』ってのは、やっぱり無理だわ」
「分かった、ごめんな」
 大抵のことを許容する尚隠が拒むのは、本当にだめな時だ。そこを押し切ろうとするほど、付き合いも恩も浅くない。
「すまんな、案出してくれたのに」
 肩を揉む手を、分厚い手が握り締める。中秋を過ぎて冷え始めた夜に、熱が沁みていく。
「気にしないで。尚隠のいやなことして檀家集めても仕方ない」
 私は誰より、その手の優しさを知っている。もうどんなものにも、傷つけさせない。
 尚隠はくるりと向かい合うようにして座り直し、抱きついた。
「今日、泊まってもいいか」
 腹の辺りでくぐもる声に、いいよ、と返して頭を撫でる。長く吐かれた息が、布越しにじわりと肌を温めた。

「はーい。じゃあタンバリンのみんなは、ここに並びましょう」
 声を掛けて掲げたタンバリンを鳴らすと、ホール中に散らばっていた子供達がタンバリンを振りながら駆け寄ってくる。
 十二月の学習発表会で予定されている年少組の出し物は合奏とダンス、合奏の責任者は私だ。これから約二ヶ月でこのひよこ達に演奏を覚えさせ、舞台に上げなければならない。
「十六、十七……十八、十九?」
 予定より二人多いメンバーに、思わず手元の名簿を確認する。名簿では確かに十七人だ。
「じゃあ、お名前を呼びまーす。呼ばれたらお返事して、タンバリンを持ち上げて振ってね」
 はーい、と明るく答える子供達の名前を、今度は一人ずつ呼びながら確かめていく。確かに、十七人のはず。でも数えるとやっぱり十九……まさか。思い当たった可能性はひとまず胸に秘め、今はすべきことに取り掛かった。

 お迎え組の園児達を送り出して職員室へ戻ると、三時を過ぎていた。保育時間は済んだとはいえ、これからまだすることは山のようにある。
 『ほんとだ そっちに行ってる』
 昼休憩に送っておいたメッセージの返信は、予想どおりのものだった。多分、私達が話題にしたからだろう。
 『久し振りに話題になれて 嬉しかったのかもな』
 続いて届いた一通に同意を返し、熱いコーヒーを一口飲む。本棚から取り出したファイルを開き、いもほり遠足の指導案作成に取り掛かった。
 私の方に来て活動に参加したところを見ると、やはり子供達と関わるのが好きなのだろう。彼らが成仏しているのはもちろん、初めからいやな存在でないのは分かっている。子供の頃はいつも、風化して小さくなった地蔵の前で手を合わせていた。遊びに来たのなら楽しんでいけばいいが、私にまとわりつく呪いが悪さをしないか、そこだけは心配だ。
――お前と結婚したら死ぬって、親が言ってた。
 久しぶりに思い出した誰かの嘲りに、ふと手が止まる。一息ついて、再び『ねらい』の欄にペンを走らせていく。『友達と助け合いながら作業することで、思いやりの心を育てる』。いつもと似たような言葉を連ねながら、いつものように優しい心が育つように祈った。

 祖母によると呪いが始まったのは高祖父の代、大正後期のことらしい。
 江戸時代には織物問屋だった我が家は、明治に入って本格的に繊維業へ手を出した。うまく時流に乗って一族は繁栄し、高祖父の代では大屋敷を何軒も建て妾を囲うほどの分限者となっていたらしい。しかし第一次世界大戦後の恐慌を受けて経営が傾き、事業が立ち行かなくなってしまった。高祖父は事業を縮小し奢侈な生活を改める中で、芸者で浪費癖のあった妾も捨てた。妾はその心変わりを恨み「お前の血を引く娘は亭主を殺す」と呪いを吐いて首を吊った、というのがあらましだ。
 高祖父は娘を持っていなかったが、曽祖父の代で祖母が生まれた。祖母は二十歳で結婚した二年後に二十四歳の夫を心不全で亡くし、産まれたばかりの母を連れて出戻った。母は二十八歳で結婚した二年後に三十四歳の父をこれも心不全で亡くし、一歳の私を連れて出戻った。そして私も。
 住職の喘息悪化と尚隠の説得を受けて躊躇いながら入籍した二年後、住職の喘息が小康状態を続ける一方で尚隠は前触れもなく突然倒れた。即死だったこれまでと違い生き延びたのは、僧侶だからだろう。私が結婚の条件として準備した離婚届を市役所へ提出した頃、尚隠は病院のベッドで意識を取り戻していた。
 祖母と母に降り掛かった呪いを祓うために、曽祖父は菩提寺である尚隠の寺を始めとして著名な僧侶や霊能者と名のつく者を訪ねて歩いたらしい。でも彼らにできたのは、妾が掛けた呪いだと解明するところまで。あとは皆、血を引いた子孫が粛々と弔い続けるしかないと言った。その見解は、尚隠も同じだった。
――恨みが深すぎて、その先に踏み込めない。弔いを続けて恨みが少し弱まったら、経も言葉も届くだろうけど。
 でもそれがいつになるのかは、誰にも分からないのだ。直系は私で最後だし、このまま私が一人で死ねば祓わなくても呪いは終わる。それでもう、いいのではないだろうか。

「よし、こんなもんかな」
 今日の持ち帰り仕事になった音源チェックを一通り終え、外したヘッドフォンを古びた座卓に置く。明日は保育が済んだらピアノの練習をして、先生達からの意見を元に合奏の構成を練り直して……頭の中で膨らんだ予定に、眉間を揉む。
 脳裏に母の姿がちらついた時、誰かがパーカーの袖を引いた。驚いてそちらを向くが、目に映るのはいつもの居間だ。古びた茶箪笥の背後に、日に焼けた襖が半開きになっている。向こうには、真っ暗な仏間。ぞわりと粟立つ肌に身を引いた時、ちがうよ、と男の子の声がした。
「だいじょうぶだよ、あやのちゃん」
「でも、なおやすくんは、だいじょうぶじゃない」
 誰もいない空間から聞こえた声に、肩で大きく息をする。思い当たるのは、「彼ら」だ。震えそうな指先を握り締め、恐怖の名残を収める。
「尚隠は、どうして大丈夫じゃないの?」
「ぼくたちのふとんを、きれいにして」
「ふたりでつかって」
 兄弟は私の問いには答えず、あの布団に注文を出したあと沈黙した。
 ……消えた?
 しばらくしてようやく気づいた状況に長い息を吐き、乾いた喉に冷めたコーヒーを流し込む。胸が日常を取り戻したところで、携帯を掴んだ。
 三回鳴らして繋がった尚隠に今起きたことを伝えると、そうか、と少し抑えた声で受け入れる。
「大丈夫じゃないのって、どうしてなの?」
 尋ねた私に、尚隠は沈黙を選ぶ。問い質すように呼ぶと、溜め息が応えた。
「結婚してた時の呪いが、まだ残ってるんだ。俺は、仕留め損ねた旦那だからな」
 明かされた事実に、視線が揺れる。離婚すれば、許されるのではなかったのか。私は、まだ傷つけるのか。
 座卓の上に並べた資料が、視界で滲む。
「ごめん、また私の」
「違う、文乃のせいじゃない。俺だ。分かってても、それでも」
 久しぶりに聞く熱っぽい声に目を閉じると、涙が頬を伝う。
 でもやっぱり、尚隠だけのせいではない。私も、傍にいたかったのだ。住職になれば当然、檀家に妻帯を求められる。その隣に、自分以外の女性が座るのを見たくなかった。
「あの子達が、俺達を助けようとしてくれてるのかもしれない。布団を綺麗にしろって言うなら、そうしよう。明日の晩、寺に来れるか」
「うん。園から直接行くよ。じゃあ、おやすみ」
 洟を啜って頷き、通話を終える。携帯を置いて残る涙を拭ったあと、思い出して仏間へ向かう。照明を点ければすぐに、かつての繁栄を伝える黒檀の仰々しい仏壇が見える。その上に並ぶ遺影の中で、知っているのは母だけだ。
 呪いが父を殺したことで、母は父の実家から死ぬまで責められ続けた。少しでも償いたいと身を粉にして働き続けた結果、脳出血を起こし三十七歳で死んだ。多分、今なら過労死だと言われるだろう。
――お母さんは、あなたがいてくれたらそれでいいの。
 大事そうに私を抱き締めてくれる手を、忘れたことはない。優しい人だった。
 合わせていた手を下ろし、一番端に並ぶ高祖父の遺影を眺める。どうして、呪われるような捨て方をしたのか。
 昔は気にしなかったが、この年になればいろいろと察せることもある。普通なら、自分を酷い目に遭わせた高祖父を呪い殺すのが妥当だろう。でも妾は、高祖父本人ではなくこれから生まれるであろう子孫の娘達を呪った。本人を殺す呪いでは生温いと思われたのかもしれない。
 私は祖母に、祖母はおそらく曽祖父に聞いた話しか知らない。周囲も「捨てた妾の呪い」と蔑んだが、具体的にどう捨てたのかまでは知らなかった。
 一方的な話では事実と呼べないのは、毎日のように経験している。「あのこがたたいた」と言っても、先に抓っていることはいくらでもある。
「何をしたのか知らないけど、死んでから悔いたって遅いんだよ。『次』はもう、間違えないでね」
 輪廻転生があるのなら、高祖父もまたこの世に降りてくるのだろう。母も。
 次は幸せであることを願い、腰を上げた。

 翌日仕事を終わらせて寺へ向かうと、尚隠は法衣を着て観音堂で私を待っていた。長持を開ける前に、経を上げるらしい。尚隠の背後に座り、久しぶりの袈裟姿を眺める。響き始めた読経の太い声に、手を合わせた。
 読経を終えたあと、子供の頃のように二人で堅牢な長持へ向かう。
「じゃあ、開けるぞ」
 尚隠は法衣の袖を払い、懐から簡素な真鍮の鍵を取り出す。年代物の錠は、しばらく格闘したあとにようやく外れた。
 固唾を呑んで見守る私の前で、尚隠は長持を開けていく。小泉八雲は十九世紀後半の人物だから、おそらく二百年以上は昔の布団だろう。きれいにするといっても、どれだけ形が残っているものか。
 文乃、と信じられないような表情で振り向いた尚隠に、傍へ行って私も覗き込む。そこにあったのは、確かにくすんで薄っぺらく潰れてはいるが、打ち直しに出せば十分に使えそうな布団だった。とてもそんな昔のものとは思えない。これくらいなら、うちの家の押し入れを探せばいくらでも出てくるだろう。
「観音さんの力だろうな」
「すごいね。ずっと守ってくださってたんだ」
 尚隠は頷いて布団を取り出し、早速広げる。
「綿布団だな。ふとん屋に持ち込めば、綿足して打ち直してくれる」
「ただ、『二人で使って』って言ってたんだよね」
 思い出して、携帯を取り出す。読書アプリで『鳥取の蒲団のはなし』を開き、最後の方にヒントを確認した。
「神様が二人に真っ白な布団を掛けたことになってる」
「シングル一枚、もしくは半分にして二枚作れ、って感じじゃなさそうだな」
 尚隠は長い息を吐いて頷いたあと、隣の私を見下ろす。蝋燭のぼんやりとした灯りに、昔と変わらない穏やかな笑みが浮かんだ。
「もう一回、嫁に来てくれるか」
「来るよ、何回でも。ほかのとこになんて行けるわけない」
 快諾した私に、尚隠は安堵したように笑う。いつからなんて覚えていないが、気づいた時には好きだった。今更、ほかの方など向けない。
「次の一回で終わるといいな」
「ほんとにね」
 答えて笑い、法衣の肩に凭れる。ふわりと立ち上る馴染んだ香りを深くまで吸い込み、長い息を吐いた。

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