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久々に小説を書きました。

久々に小説を書きました。本当に久々。しばらく書けずにいたので、出来はさておき、書けたことが嬉しいです。この調子でコンスタントに書いていきたいものです。長距離走で、巨大な小説を書くことはできないかわりに、せめて短距離走を繰り返したいと思います。

「葬列」という題です。愛について真面目に書いたつもりです。はじめて「純文学」とタグ付けしました。それくらいには、真摯に書いたつもりです。
真実を語るための言葉を紡げる人が羨ましい。僕は嘘しか書けません。真実から目を逸らすための麻薬としての嘘ばかりです。しかし、それでも、取るに足らぬ嘘ではなく、美しい嘘をつきたいものです。美しい嘘とは、つまるところ、真実の祈りではないでしょうか。
虎の威を借りるわけではありませんが、小林秀雄の言葉を私はここで思い出してみます。
――現代の芸術は真を求めるなかで美を葬った。美こそ、真実の母であるのに。
たしか、そのようなことを言っていました。私はこれを、「美は真実を懐胎する」ではなく「美とは、この世にたった一つの、まことなる母である」と読みます。

私は祈りました。よければ御一読ください。

3件のコメント

  • 嘘とは何なのでしょうか。例えば写実絵画は本当で、抽象画は嘘なのでしょうか。
    ノンフィクションは本当で、フィクションは嘘なのでしょうか。
    フィクションであってもそこで話す言葉や世界、行動はどこか真実の部品を集めて出来ているような気がします。
    となると、結局は真実ではないのでしょうか。

    谷林様の言うここでの嘘とは違ったジャンルかもしれませんが、嘘にも捉え方によって色々あるのかもしれません。

    だらだらとすみませんでした。
    谷林様の作品は、おそらくノンフィクションでは無いのだろうと思うのですが、その中にも人間の奥深い所に埋もれている感情だったり、深層心理の中で思い描く世界が舞台となっているため、どうしても嘘という感じがしないのです。
    そこが毎回読ませていただいて驚いている点です。
    これからも是非書き続けてください。
  • 興味深いコメントありがとうございます。木沢様の書かれた問題について、私なりに少し考えてみようと思います。

    嘘とは何か。
    むろん、抽象画にも、フィクションにも、真実は宿ると私も思います。逆に、嘘でしかない写実、嘘でしかないノンフィクションというのもあるでしょう。

    私が、表現において、何を真実として何を嘘とするか。
    明確に言葉にするのは難しいです。しかしどうにか言語化を試みるなら、真実とは、この生の理由を突き付ける表現です。その威力を持ち合わせぬものは、嘘です。たとえどれだけ現実を抱き込んでいたとしても。
    私は、真実と現実は似て非なるものだと考えています。たとえば素直に書かれた「だけ」の日記は、私には一つの嘘に見えます。そこに描かれるのは事実の列挙ですが、しかし生活には、当然のことながら事実だけでなく様々なものが入り込んでいる。目に見えぬそれを仮に魂と呼ぶなら、その日記は「魂を省略した現実」という嘘です。
    現実とは、我々の知覚する範囲であって、真実は、その世界の深部を孕んでいる。たとえば、さみしさを「寂しい」と書くだけでは現実を描き切れていないという意味で嘘であり、「二十億光年の孤独」と書いてはじめて真実です。文学であり、芸術です。私はそう感じます。

    とまあ、脈絡はないですが、答えになっているでしょうか。
    ちなみに私は、自分を嘘つきだと思っています。そして、嘘を並べ立てることで「真実の苦悩」に「真実の救済」が与えられるとも思っています。娼婦の偽りの愛の囁きに、倦んだ神経が癒されるということもありますでしょう。嘘は現実を忘れさせるやさしさを持っているのではないでしょうか。その時、嘘は、真のやさしさです。
    あたたかい言葉をありがとうございました。今後も破れかぶれに書いていくつもりですので、続けてお読みいただければうれしいです。

  • ありがとうございます。なるほど、と思わず唸ってしまいました。真実と現実。この表現はしっくりきました。谷林様は自分を嘘つきとおっしゃいますが、それは相手を苦しめたり、貶めようとする一般的なイメージとは違い、その嘘の中に、いや嘘の中にこそある真実を見つけ出す、そのような印象を受けました。

    応援しておりますので、これからも書き続けてください。
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