『東関紀行』だが、仁冶3(1242)年8月10日に、京都東山から鎌倉に出発しており、また「故武藏の前司(北條泰時)」などとあって、この年の6月15日に泰時が死去しているので、おそらく作者は泰時とともに出家した家臣の一人ではなかろうか。
泰時は鎌倉常楽寺に葬られたので、ここで泰時の菩提を弔おうと思ったか。
生まれた年は1100年くらいか。
歌はかなり達者。
「神無月の二十日あまりの頃、はからざるにとみの事ありて、都へかへるべきになりぬ。其の心の中、水莖のあとにもかきながしがたし。錦をきる境は、もとより望む處にあらねども、故鄕にかへる喜は朱買臣にあひにたる心ちす。」とあるので、故郷は京都であり、主君泰時を失っていったんは鎌倉で隠居しようと思ったが、京都に呼び戻されて六波羅探題の職に就いたということではなかったか。