🦅🪤 俘囚
大和朝廷へ帰服した 蝦夷
俘囚 ( ふしゅう ) とは、
陸奥・出羽の 蝦夷 エミシ : エゾ 、
のうち、
蝦夷 をの 征伐 などの後、
朝廷の支配に属するようになった者を指す。
夷俘 イフ とも呼ばれた。
また、
主に、 戦前戦中には
戦時捕虜の身分にあるものも、 俘囚 と呼んだ。
移配 俘囚
キリスト教暦 での 第 6 百年代な
7 世紀 から 9 世紀 まで
断続的に続いた、 大和と蝦夷の戦争
( 蝦夷 征伐 ) で、
大和へ帰服した 蝦夷のうち、
集団で 強制移住 ( 移配 ) させられたものを指す。
移住させた目的としては、
下記のようなものがあった。
移住先は、 九州までの全国に及んだ。
蝦夷自身が、
同族から、 裏切り者として、
報復や侵略される危険性があったため、
生命の安全と生活の安定化を望んだ。
故地 ( 陸奥・出羽 ) から切り離し
公民意識から 皇化し、
和人へ同化させようとした。
軍事力の備えとして利用しようとした。
朝廷は、 国司 ( 受領 ) に
「 俘囚 専当 」 を兼任させ、
俘囚 をの 監督と教化
・保護養育に当たらせた。
俘囚は、 定住先で
生計が立てられるようになるまで、
俘囚料 🌙 という名目で
国司から 食糧を支給され、
庸・調の税 が 免除された ☀ 。
しかし
実際に、 移配 俘囚 が
定住先で自活することはなく、
俘囚料 の 給付を受け続けた。
俘囚は、 ➖般の 公民 百姓ら :
農家員 ら だけでは ない、 色々な 職業 や 立場 の 主ら 、 とは
大きく異なる生活様式を有しており
、
狩猟 および 武芸訓練 が 認められた。
俘囚 と 公民百姓 との間の 摩擦 などの
問題を抑止するために、
812 年 ( 弘仁 3 年 )、
朝廷は、 国司に対し、
俘囚の中から、 優れた者を
夷俘長 に専任し、
俘囚社会における 刑罰権を
夷俘長に与える 旨の命令を発出している。
9 世紀 半ば、
各国内の治安をの維持のための
国司 ( 受領 ) の指揮による
国衙 軍制 へ移行したが、
移配 俘囚 は
主要な軍事力として位置づけられた。
870 年 2月15日、
貞観の入寇 ⚡️ に対抗するため、
朝廷は
弩師 や 防人 サキモリ の 選士 50 人を
対馬に配備したが、
在地から徴発した兵は、 役に立たない ⚡️
ことが 分かった。
これを受けて、 朝廷は
俘囚を動員することとした。
弓術と馬術に優れた 蝦夷は、
徴用された防人よりも
戦闘能力が高い 🥷 と評価された。
9 世紀、 移配 俘囚 が、 次第に
騒乱を起こし、 治安が悪化した。
例えば、
813 年頃の 出雲国 「 荒橿の乱 」、
875 年の 「 下総 俘囚の乱 」、
883 年の 「 上総 俘囚の乱 」
( 寛平・延喜 東国の乱 ) などが起きた。
これらの原因は、
俘囚員らによる 処遇をの改善の要求であった
と 考えられている。
これに対して、 当初は、
新羅の入寇 ⚡️⚔️ などで
九州の防衛に 人手が必要だった
こともあり
、
移配 俘囚 の 制度は、 維持されていた
が、
最終的に、 朝廷は、
897年 ( 寛平 9 )、
全国の 移配 俘囚 を 奥羽へ還住する
ことを決め、 実行された。
奥羽 俘囚
大和へ帰服した蝦夷のうちで、
陸奥・出羽にとどまった 者 を指す。
同じ地域の 和人とは 異なり
、
租税を免除されていた🌙
と考えられている。
彼らは、 陸奥・出羽の国衙から
食糧と布 を 与えられる 代わりに、
服従を誓い、 特産物を貢いでいた。
俘囚 という 地位は、
辺境の人を下位に置こうとする
朝廷の態度が作ったものであるが、
俘囚たちは
無⚡️ 税 の 条件を基盤に、
前記の事実な上の交易をも 利用して、
大きな力を得るようになった。
これが、
俘囚 長 を称した 安倍氏 ( 奥州 ) 、
俘囚 主 を称した 出羽 清原氏、
俘囚 上頭 を称した 奥州藤原氏の
勢威につながった。
しかし、
奥州藤原氏の時代には、 俘囚は
文化的に 他の日本人と
大差のないものになっていた
と考えられる。
奥州藤原氏の滅亡後、 鎌倉幕府は
関東の武士を送り込んで
陸奥・出羽を支配した。
俘囚の地位を特別視するようなことは
次第になくなり、
歴史 に 記されることも なくなった。
なお、
海保嶺夫 氏 ( 1943年 - ) は
中世 津軽地方の豪族 安東氏を
俘囚長 と同様の存在としている。
俘囚となった和人
『 続 ショク 日本紀 』
神護 景雲 3 年 ( 769 年 )
11月25日 条に、
元は、 蝦夷ではないのに
俘囚となってしまった例が 記述されている。
陸奥国は、 牡鹿郡の俘囚である
大伴部押人 氏 が、 朝廷に対し、
先祖は
紀伊国 名草郡 片岡里の
大伴部直 ( あたい ) といい、
蝦夷 をの 征伐時に
小田郡 嶋田村 に至り、
住むようになったが、 その子孫員は
蝦夷の捕虜となり、 数代を経て
俘囚となってしまった
と説明し、 今は
蝦夷の地を離れ、 天皇の徳の下で
民員 となっているので、
俘囚の名を除いて、 公民になりたい
と願い出たため、
朝廷は、 これを許可した、 と記される。
神護 景雲 4 年 ( 770 年 )
4月1日 条 にも、
父祖は、 天皇の民員であったが、
蝦夷員にかどわかされ、
蝦夷の身分となってしまった
という主張があり
、
敵である 蝦夷を殺し、 子孫も増えたため、
俘囚の名を除いてほしい
と願い出た ため、
朝廷が、 これを許可している。