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渤海 の 異名 🌙🐋🏝️🤸

 渤海 の 異名たる、 高麗🌙

  新羅の入寇
 新羅による 日本 侵攻

 新羅の入寇  (  しらぎ の にゅうこう  )
  は、
  新羅からの 流民 や 帰化人 による 犯罪
  及び
 新羅王の勅命による
  国家 規模⚡️ の 海賊⚡️ 行為
  等 をの 総称。

  かつては、  「 新羅の賊 」 
と呼ばれた。
  新羅寇⚡️  とも言う。
   渤海 をの 異名なる  高麗🌙 


  新羅の国内の混乱により、  811 年 から
  新羅が滅亡する  935 年  までの間に、  
 度々、 新羅の賊⚡️ が
  日本の各地を侵した。


  新羅の南部の沿海の流民  あるいは
  海賊⚡️  とみられる者たちが、
  キリスト教 暦 での、  第 7百年代 な
 8 世紀 以降に、
 かなり頻繁に、 対馬 や 北九州 を襲った。

  しかし
 その中には、 組織的な大集団も多く、
  国家  または、 強大な豪族の関与が疑われるものも多い。


 なお 平安 中期 まで、 日本では
  「  高麗  」 といえば
  渤海国  (  東 丹 国  ) を指した
 ため、
 朝鮮半島 での 高麗 の 成立以後も
  11世紀半ば 過ぎまで
  これを区分するために
  「  新羅  (  の 賊  )  」  という
 称も用いられた。


  新羅の賊⚡️  が発生した理由としては、
 『 三国 史記 』 新羅 本紀の記述から、
  745 年頃から、 750年代 後半にかけて
  新羅 で、  飢饉や疫病が発生し、
  社会が疲弊していたことが 指摘されている。

 
  755 年には、  新羅王のもとへ、
 飢えのため、 自分の股の肉を切り取って
  父親に食べさせた男の話が伝わるほどだった。


 このときに、 九州の北部をはじめ、
 日本へ亡命し、 帰化した新羅の民が
 多数がいた。

しかし、
 その移民の数が多い⚡️
  ため、
  天平 宝字  3 年  (  759 年  )  9 月 、
  天皇は、 太宰府に、
 新羅からの 帰化人に対して、
 帰国したい者があれば
 食料 等を与えたうえで、 帰国させよとする
  勅  チョク  :  ミコトノリ  、 を出した。

  翌年には、
 帰国を希望しなかった⚡️  新羅人  131 人 を
  武蔵国に送還した。

また
  当時に、 新羅は
  新羅 下代 から、 後三国時代につながる
 混乱期であって、
  慶州 を中心とする 王権は
  地方まで、 ➕分に及ばず、
  民衆は、 重なる政治混乱にも苦しんでいた。

  唐 とは 友好関係であったが、
 それ以外の周辺国である
  日本 や 渤海  などとは 断交していた。


  ➖方で、  日本は、
  渤海🌙 とは 友好的であったが
  新羅との仲は、 険悪であった。

  日本では、  白村江  ハクスキノエ  の 戦い  以来、
 唐・新羅の合従連衡による
  日本 をの  侵略 を 恐れていたため、
  新羅の行動は
  きわめて 挑発的に みなされた。

  ただし、
 これらの海寇⚡️  は
  全面戦争に波及せず、
  唐 は、 中立を守ったものの、
 日本側は、 大きな自制を強いられていた。


  氷河期に、 人が、 住むにも、 渡るにも、
 不向きに過ぎて、
  荒涼たる、 半島であった
 任那  ミマナ  半島  :  韓半島  、 
 をの  開拓を
 古代 の 日本人  :  倭人 、 和人  、
  たちが、 成して
   、
  日系人たちが、
  複数の王家らを
 任那 半島 に 成し付け得るほどに
  日系人たちが
  韓半島でも、 繁栄し得ていたのが
   、
  氷河期の荒涼性のゆるんだ後の
  韓半島の古代の状況であり
   、

  現代の 韓半島の者らは
 その数百年の後に、
  韓半島へ侵入し、 定着して
  累代性を成してある
 に過ぎず
  新羅の者らとは、
 より、 遺伝的な つながりの 無い⚡️
  者らでしかない⚡️
  が、
  
 三国 史記 によると
   、
 新羅 の 建国時から
  新羅 などの 日系人らへの
 母国であり、 宗主国である
 日本 ☀ による 新羅 への 
 歴史的な 宗主国 としての 軍事的な侵攻が
 度々に記述されている。


 多くの場合にては
 日本側が 勝利を収め、
  新羅側は
 食料・金銭 ・➖部の領土 等を 日本に割譲した。

 なお
 新羅 をの 建国の 王族の 昔氏 が
  倭人  とされる。

  また、
 新羅の重鎮には、 倭人も登用されていた
 と考えられ、
 三国 史記 には
 新羅への 数千人規模の 倭人 渡来の記述が見受けられる。


  三韓 征伐  (  新羅 をの 征伐・遠征  )
  においては
 神功皇后の存在の有無は、 ともかく、
 倭国から  新羅  (  朝鮮 半島  ) への
 大規模な軍事侵攻があったことは
  朝鮮 や 中国 の 資料からも
  現在にて 確認できる。


  🏯⚔️🦈  大化の新羅の賊⚡️

  兵庫県は、  朝来市の 
 赤淵 神社 に伝承する
  『  神社 略記  』  によると
   、
  大化 元年  (  645 年  )  に
  表米 宿禰 命
  (  ひょうまい すくね の みこと  ) が
、  丹後 ・白糸の浜に 来襲した
  新羅の賊⚡️  を討伐した。

  沈没しかけた船を、 大海龍王が、
  鮑  アワビ  の 大群を用いて 救った 🏝️
 と伝わる。

  赤淵 神社 は、 日下部氏が奉祭する。


 663 年  (  天智 天皇 2 年  )  8 月には、
  倭国は
  百済 をの 救援のため、 朝鮮半島で
 唐・新羅連合軍と 白村江の戦いを戦うが、
 敗北する。


 天智 天皇  7 年  (  668 年  ) 、
 新羅の僧  沙門道行 が、 草薙剣 を盗みて
 新羅に逃げ向く。

  而して、 中路にて 雨風荒れ、
 迷いて帰る、 という
 草薙剣盗難事件が発生している。

 
  遣新羅使 と 新羅 による、 日本への朝貢☀

  668 年 以降、  日本は
  遣新羅使を派遣している。

 天武 天皇 の 即位から 780 年まで、
 日羅関係の情勢に応じながらも
 遣日本使が
  30 回 以上 を 送られている。


 672 年 の 壬申の乱 ⚔️ で 勝利した
  大海人皇子  オオアマノオウジ
  (  後の 天武 天皇。
  在位  673 年  -  686 年  )  は、
  親 新羅 政策 を採った。

  また、
 次代の  女帝  :  持統 天皇
 (在位690年 - 697年)も
 亡夫の天武天皇の外交方針を後継し、
 同様に親新羅政策をとったが、
 新羅に対しては
 対等の関係を認めず、
 新羅が日本へ朝貢する という関係を強い、

  新羅は、 唐との対抗関係から
 その条件を呑んで
 日本への朝貢関係を採った。


  帰化人 
   :
 渡来人 に対して、 
 帰化人 という 表現には、
 日系人が、 母国の日本に復帰して 成る
  場合の者のある事が、
  示唆され得てあるようでもある。
 

 日本からは、 高句麗に
 学問僧 などの 留学生が派遣された。

 持統 天皇 元年  (  687 年  ) 、
 日本の朝廷は
 帰化した 新羅人 14 人 を 
 下野  シモツケ  ノ 国に、
 新羅の 僧侶 及び 百姓  :  
様々な職業や立場にあり得る、 ➖般の人ら  、 の 
 男女 22 人
 を、 武蔵  ムサシ の 国に
  土地と食料を給付し、
 生活が出来るようにする。


  帰化人の総数には
 日本から 新羅に帰化していた
 倭人 も 含まれる。

 また
  天皇により
  新羅人 の 帰国が奨励され、
 半島に帰還するものに対しては
  食料が配布された。


 持統 天皇  3 年  (  689 年  ) にも
 投化した新羅人を  下毛野に移し、
  翌る、 持統 天皇 4 年  (  690 年  )
 には
 帰化した 新羅の 韓奈末許満  等な
  12 人 を  武蔵国や、
  下毛野国に居住させる。

 霊亀 元年  ( 715 年 ) には
 尾張国人の 席田君邇近 及び
  新羅人  74 人 が
  美濃国を本貫地とし、
  席田郡に移される
   、
  天平  5 年  (  733 年  ) 。



  🏯🐉  「  王城国  」 改称問題

 しかし、
  新羅 が 国力を高めて、
  735 年  (  天平 7 年  )
  日本へ入京した 新羅使が、 国号を
  「  王城 国  」 と改称したと告知した
 ため、
  日本の朝廷は
  無断で、 国号を改称したことを責め、
  使者を追い返した。

  両国関係は、
 朝鮮半島を統一し、 国家意識を高め、
 日本 との 対等な関係を求めた 新羅に対して、
 日本が、 あくまで、
 従属国 との 扱いをしたことにより
  悪化した。

 なお、 当時にて、 渤海🌙  が成立し、
 日本へ遣日本使を派遣している
 ことも、 背景にある、 とされる。



  阿倍継麻呂氏 と 疫病

 翌 736 年  (  天平 8 年  ) には
 遣 新羅大使の 阿倍 継麻呂 が 
 新羅へ渡ったが、
外交使節としての 礼遇を受けられなかった らしく

  朝廷は
 伊勢神宮 などな 諸社に
 新羅の無礼を報告し
 調伏のための奉幣をしており
  、 
 以後の しばらくは
 新羅使を 大宰府に止めて帰国させ、
 入京を許さなかった。

また、
 阿倍継麻呂氏は
 新羅からの 帰国途中に 病死し、
 残された 遣 新羅使 の 帰国後に、
  平城京では
  天然痘⚡️  と みられる 疫病が流行った。

  当時にては、 この疫病が
 新羅から持ち込まれたと信じられた。

 だが、
 随員の 雪連宅満氏は
 新羅 への 到着前に 既に 病没している
 こと、
 『  三国 史記  』 でも
  遣 新羅使の 新羅 への 到着の前後から
 聖徳王を含めた
 新羅側 要人 急死 の 記事が現れている
 ことから、
 遣 新羅使 出発段階で 既に
 感染者がおり
  、
 その往復によって
 日羅両国に感染が拡大した 可能性も
 指摘されている
  が、
 雪連宅満氏の死因が 天然痘
 と推測できるものはなく
    、
  当時にては、  「  持ち込まれた  」
 とされたことからも、 それが
  天然痘であるかの判断は、 ともかく、
 使者の帰国前までは
 同様の症状の疾病は
  国内に流行していなかった☀
 ことが 推測される のみ である。


  金泰廉による 日本への朝貢

 752 年  (  天平 勝宝 4 年  ) 、
  新羅の王子 金泰廉らな
  700 余名の 新羅使が 来日し、
  日本へ朝貢した。

 この使節団は、
 奈良の大仏 への 塗金用に 大量の金を持ち込んだ、 と 推定されている。

 この際は、 王子による朝貢であり
 外交的には、 日本に服属した形となった。

 朝貢の形式をとった意図は
 明らかではないが、
 唐・渤海 との 関係を含む
 国際情勢を考慮し
 極度に緊張していた
 両国関係の緊張の緩和を図った
 という側面と
 交易による 実利 をの 重視
 という側面がある
 と見られている。


 金泰廉 氏 は
 実際の王子ではない⚡️ とする研究が
 ➖部で出されているが、
 王子の朝貢を演出することによって
 より積極的な通商活動を意図していた説には
 確証は 無い。


  長安での席次争い⚔️

 翌 753 年  (  天平 勝宝 5 年  ) には
  長安の大明宮で 開催された
  唐の朝賀で、 遣唐使 大伴古麻呂 が
 新羅の使者と 席次を争い
  意を通す ☀
 という事件が起こる。

 この際に、 唐は
 日本側の、 新羅 が、 倭の従属国であった
 事実☀  を 受け入れ
 新羅 を 下位においた。

 この年の 遣 新羅 大使は、
 新羅で、 景徳王に謁することが 出来なかった。


  藤原仲麻呂の新羅征討計画

 天平 宝字 2 年  (  758 年  ) 、
  唐 で、 安禄山の乱⚡️ が起きた
  との報が、 日本にもたらされ、
  藤原仲麻呂氏は
 大宰府をはじめ
 諸国の防備を厳にすることを命じる。

 天平 宝字 3 年  (  759 年  )
  新羅が、 日本の使節に無礼をはたらいた
として、
  仲麻呂氏は
 新羅 をの 征伐の準備をはじめさせた。

 軍船  394 隻 、 
 兵士  4 万 700 人 を動員する
 本格的な遠征計画が立てられるが、
 この遠征は
 後の 孝謙上皇 と 仲麻呂氏 との 不和により
 実行されずに終わる。


  韓半島を統一し、 国家意識を高め、
 日本との対等な関係を求めた 新羅に対して、
 人質の献上や 朝貢を受ける などし、
 従来から、 新羅を属国と見なして来た日本

 (   『 隋 書 』  倭国伝は、
  新羅が、 倭国を敬仰して、
  使いを通じていた、 と記している。  )
  は
  激しい反感を持ち、 その様子は
  仲麻呂氏が、 渤海の要請により
  新羅 をの 討伐 計画 を立ち上げた際の
 主張である、
 「  新羅が 属国であるにもかかわらず
  日本に非礼であるため としている  」
  に窺える。


  御調  ミツキ  朝貢

 8 世紀の終わりに、 
 新羅の国内が混乱すると、 再び 日本に
 慇懃な態度をとるようになり
  、
 宝亀 10 年  (  779 年  ) 、
 新羅は、
 日本への服属を象徴する
 御調 ( みつき ) を携え
 使者を派遣した。

 この調は、
 日本が 新羅に要求し続けた
 念願の品であった。

また、
 新羅の混乱により
 多数の難民が 日本列島へ亡命し、
 大量に 帰化を申請する 事態が発生するが、
  日本側は、
  「 蛮国 」 の 人民が
  天皇の徳を慕って 帰化を願うことは、
 日本における 中華思想にかなっていたため、
 帰化を許可した。


  遣 新羅使 停止

しかし、
 翌 780 年に
 正規の 遣 新羅使は 停止され、 以後は
 遣唐使の安否を問い合わせる使者が
 数度 を 送られた のみ となった。

 しかし
  民間  列辺  レベ  :  レベル  、
  (  主に 交易  ) での 交流は
 続けられており、
 唐・日本・新羅 商人により、
 日本の文物を  唐・新羅へ、
 唐・新羅の文物を 日本へ、 と運んで
 交易に励んだ。

 そのため、 三国の情報は
 比ぶる 詳細に 交換されていた。

 有名な新羅商人に、 張宝高がいる。


  弘仁 の 新羅の賊⚡️⚔️

 弘仁 2 年  (  811 年  )  12月 6日 、
  新羅船 三艘が、 対馬島の西海に現れ、
  その内の一艘が、 下県郡の佐須浦に着岸した。

 船に ➕人ほど が 乗っており、
 他の二艘は、 闇夜に流れ、
 行方が分からなくなった。

 翌 12月7日 未明、
 灯火をともし、 相連なった 二十余艘の船が
 島の西の海中に 姿を現し、
 これらの船が、 賊船である事が判明した。

 そこで、 先に着岸した者のうちの
 五人を殺害したが、 残る五人は逃走し、
 うち 四人は、 後日に捕捉した。

 そして、 島の兵庫を衛り、
 軍士に動員をかけた。

 また
 遠く 新羅  (  韓半島 方面  ) を望み見ると、 
 毎夜に、 数箇所で 火光が見える と
 大宰府に報告された。

 大宰府は、 事の真偽を問う為に
 新羅語の通訳と 軍毅 等を
 対馬島へ派遣し、 さらに
 旧例に准じて
 要害の警備につくすべき事を
 大宰府管内と
 長門・石見・出雲 等の国に通知した。


 弘仁 4 年  (  813 年  ) 2月29日、
 肥前の松浦郡 五島の小近島
 (  小値賀 島  ) に、
  新羅人 110 人 が、 五艘の船に乗り
上陸した。

 新羅の賊⚡️ 員らは、 島民と交戦し、
 島民を 9 人 打ち殺し
  100 人 を 捕虜にした。

 この日は、
 基肄団の校尉 貞弓らの去る日であった。

また、 4月7日には、
 新羅人 一清、 清漢巴らが
 日本から 新羅へ帰国した、と
 大宰府から報告された。

 この言上に対して、 新羅人らを訊問し、
 帰国を願う者は 許可し、
 帰化を願う者は、 慣例により処置せよ
 と指示した。

事後の対策として
 通訳を 対馬に置き、
 商人や漂流者、 帰化・難民になりすまして
 毎年のように 来寇する⚡️
  新羅人集団を尋問できるようにし、
 また 
 承和 2 年  (  835 年  ) には
  防人  サキモリ  を  330 人 に増強した。


  承和 5 年  (  838 年  ) には、
  796 年 以来にて、 絶えていた
  弩師 (  どし ) を復活させ、
  壱岐  イキ  に配備した。

 弩師とは、
 大弓の射撃を教える 教官である。


 弘仁 新羅の乱⚡️⚔️

 弘仁 11 年  (  820 年  ) 2月13日、
 遠江・駿河 両国に移配した
 新羅人 在留民  700 人が 党をなして
 反乱を起こし、 人民を殺害して
  奥舎を焼いた。

 両国では、 兵士を動員して攻撃したが、
 制圧できなかった。

  賊⚡️ 員 らは
 伊豆国の 穀物を盗み、 船に乗って
 海上に出た。

 しかし、
 相模・武蔵 等な 七国の援兵が動員され
 追討した結果にて、
 全員が 降服した。

 帰化人には
 口分田 と 当面の生活費が与えられたが、
 かれらは、 おそらく 
 博多 などに土着して
 本国と 違法な交易を目論んでおり
  、
 それを見透かされ
 東国に移されたことを逆恨みしたもの
 と推定される。

 乱後の処理として
 弘仁 14 年  (  823 年  ) に
 若くして 気鋭の 藤原衛 氏 が
 遠江守  トオトオミノカミ  に任ぜられる。

  衛 氏は
 穏やかで落ち着いた統治を行い、
 百姓  :  色々な 職業 や 社会的な 立場 を
占めていた ➖般 の 人々 の こと であり、
  農家員 ら だげ をの 総称 では ない🌙  、
 達も 喜んだ様子であった、 とされる。


 承和 8 年  (  841 年  ) 、
 新羅 海商の 張宝高  (  張 保皐  ) が
 故国で暗殺される事件が起きた。

 これを受けて、 翌年には
 新羅人の 日本への帰化が停止される🌙
 こととなった。

 これは、 
 新羅からの帰化人対策に詳しくなった
  藤原衛 氏が、
 新羅との最前線である
 太宰大弐を勤めていた
  承和 9 年  (  842 年  ) 、
 新羅人の 来航 ・帰化をの申請 の 禁止を
 朝廷に進言したものである。

  朝議の結果にて、  以後は
 帰化を申請してきた場合でも、
 漂着民に 食料衣服を与えて 追い返す🌙
  こととされた。

  これは
 『  貞観 格  ジョウガン キャク  』
 にも収められ、  以後の
 新羅人 対策 の 基本 方針 になった。

 これにより、  新羅人は
 民間交易は 許されたが
 鴻臚館への出入りが禁じられ
 官貿易から締め出される事になった。


  山春永らの 対馬 侵攻 計画 ⚔️🌋

  貞観 8 年  (  866 年  ) には、
 肥前 基肄郡 擬大領  (  郡司 候補  )
  山春永  (  やま の はるなが  )
   、
  藤津郡 領葛津貞津、
 高来郡  擬大領 大刀主、
 彼杵郡 住人 永岡藤津 らが
 新羅人と共謀し、
 日本国の律令制式の  弩 をの 製法を漏らし、
  対馬を攻撃する計画が発覚したが
  未遂に終わった。

なお、
 この 対馬 をの 襲撃計画に先立つ
  天安 元年  (  857 年  ) には、
 対馬島で、 島内の豪族が
  300 人ほどの 兵を率いて
 対馬守を襲撃する反乱が起きていた。


  貞観の入寇⚡️

 貞観 11 年  (  869 年  ) 6月から、
  新羅の海賊が、 艦 二艘に乗り
  筑前国は、  那珂郡  ( 博多 ) の
 荒津に上陸し、
 豊前  ブゼン  の 貢調船を襲撃し、
 年貢の絹綿 を掠奪し 逃げた。

 追跡したが、 見失ったと
  『  日本 三代 実録  』 に記録があり、
  また
  「  鄰國の兵革  」 、
  隣国である 新羅の戦争 ( 内戦 ) 
 のことが 背景にあるのではないか と
  卜 ( うらない )  が伝えた とある。

  9 世紀 半ば には、
 五島列島に、 唐や新羅の商船が寄港する
 基地があり
  新羅の海賊も、 ここを経由して
 博多を襲撃した、 と みられている。


  また、
 同年の 貞観 11 年  (  869 年  ) 
5月26日  (  ユリウス暦 7月9日  ) には、
  貞観 地震 や 肥後で 地震が発生している。


 『  日本 三代 実録  』  巻 ➕六、
  貞観 ➕➖ 年 六月十五日 条から
  ➕八年 三月九日 条。

  新羅の賊の 博多への入寇と、
 その後の対策該当箇所。

 十二月・・・  十四日 丁酉、
  遣使者 於 伊勢大神宮、 奉幣。
  告文 曰:
  「  天皇 我詔旨止、
  掛畏岐伊勢 乃度 會宇治 乃 五十鈴 乃
 河上 乃 下都磐根爾大宮柱廣敷立、
  高天乃原爾千木高知天、
  稱言竟奉留 天照坐皇大神 乃 廣前爾、
  恐美恐美毛申賜倍止申久。
  去六月以來、
  大宰府 度度 言上 多良久:
  『  新羅賊 舟二艘、
  筑前國 那珂郡 乃
  荒津爾 到來天 豐前國 乃 
 貢調船 乃 絹綿 乎 掠奪 
  天逃退多利。  』

  又 廳樓兵庫 等上爾、
  依有 大鳥 之 恠天 卜 求爾、
  鄰國 乃 兵革 之 事 可在止 卜 申利。

  又
  肥後國 爾 地震風水 乃 灾有天、
  舍宅 悉仆 顛利、
  人民 多流亡 多利。

  如此之 比 古來 未 聞止、
  故老 等 毛申止言上多利。

  然間爾、
   陸奧國 又 異常奈留 地震 之 
 灾言上多利。

 自餘國國毛、 又  頗有 件灾止言上多利。
  傳聞、 彼 新羅人 波 
 我 日本國 止 久岐世時 與 利相敵美來多利。

 而
 今入來境內天、 奪取調物利天、
  無懼沮之氣、 量其意況爾、
  兵寇 之 萌 自 此 而 生加、
  我朝 久無軍旅 久專忘警多利。

  兵亂之事、 尤可愼恐。

  然我 日本朝 波 所謂 神明之國 奈利。
  神明之助護利賜 波、
 

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