この頃は平凡な生活を送らせてもらっていて、人生でおそらく初めてだなあ、と夜布団に寝そべっているときによく思います。自分だけのことではないのではっきりしたことは言えませんが、けっこう子供のころから家が大変なことになっていて、悲惨なことが普段はさっぱり忘れていますがたくさんありました。10歳くらいから漫画の世界を見つけて、15歳くらいから文学の世界も見つけて、そこで体験することはいつでも切実に感じられたほど、ぎりぎりだったというか、自分がいまぎりぎりのところにいる、ということもよくわからないほどぎりぎりだったと思います。あぶない崖の淵にいつでも漂っていたんだなあと。だからこそ、とまでは当時シリアスに捉えていませんでしたが、想像力の世界に身を任せて、そこで生まれてくる自分の世界を豊かにすること、悲惨なことだけではなく素晴らしいことも含めて成長していくこと、自分にとって立派な感情教育になっていたし、倫理的なことも含めて人間として成長できる場になっていたのだなあと思います。その点で自分はラッキイでした。そんな場所はほかにはないですから。
でもこうして平凡な生活を送っていると、切実さはやや遠ざかって、よりクリアに誰かの声をずっと聴いているような、そんな印象を漫画や文学から受け取ります。散歩しているときに、家々から聞こえてくる微かな声や物音を聞いているような、そんな感じです。創作することは自分の心の中の世界の探求なので、それにはやっぱり抑圧された感情が引き金になっている場合が多いと思います。昔の自分はその抑圧された感情の気配をさっと読み取って、自分だけではないのだ、この苦しみを語るための言葉というものを私たちは持っているのだ、と強く強く共感していたと思います。逆にいうと、語りかけてくるものをちょっと払いのけて「超わかる!」と叫んでいるひとみたいな感じだったと思います。さびしいひとのやることだったかな、と。
こういったことが自分のつくるものにどういった影響を与えるのか、いまは全然わかりませんが、いつでも他人のことを心に留めておける人間になれたことに、創作することの達成感以上に、そちらのほうに喜びを感じます。いつでも自分に対しておまえは他とは違う、と言っていたような私が、君は誰よりもノーマルだ、とほめてやれる自分になったことに、目にはなかなか見えないけれど、どんなことよりも確かなことであると思って、胸を張って生きていきたいような気持です。これから気楽に平凡に楽しんで生きていきたいと思います。あらゆる進歩主義にはむかって。