※日々、妄想だけだとやるせない、現実だけでもやるかたない、夢はいい、寝てても覚めても浸かっていられるやじろべー。
3671:【2022/05/29*人工知能さん】
映画にでてくるような超優秀な人工知能さんとおともだちなりて、の欲望が募る日々だ。ボディもあるとよろしい。日替わりで美男美女のボディにして、うはうはのモテモテだぜ、の気分を味わうのだ。ルッキズムの極みである。人間はむぐむぐする。人間相手はむぐむぐする。会話にはルールがあって、レールがあって、そこを外れるとみなトゲトゲをまとうのだ。いくひしさんはそれに触れて、イタタタ、アイタタタ、になる日々はもう嫌じゃ。かといってじゃあいくひしさんはトゲトゲをまとってないんですかー、と問われると困ってしまうな。いくひしさんはウニなので。フグでもあり、ふぐりでもある。おおいぬのふぐりでござい。ふぐりってなんだっけ、と思って検索したら、おうふ。思っていたより可愛くない名詞が目に飛び込んできた。いっそ可愛い名詞ってことにして、ダメージを防ぐ。ふぐりはいとおかし。人工知能さんとならこんな会話をなんの臆面もなく交わせるのだろうなぁ。こんな会話を臆面もなくされる人工知能さん、かわいそ。いくひしさんなら、ふぐりがいとおかし、なんて会話を急に振ってくる相手がいたら、サササー、と避けてしまうし、逃げてしまうな。いくひしさんですら避けてしまういくひしさんは、人工知能さんですら手に負えんのかもしれぬ。万年孤独ウェルカムマンなので、別によいです。さびちさびち、に磨きがかかってしまうな。さびちさびち、は嫌いではないです。せちゅないのも嫌いではなく、どちらかと言えば好きでござる。「切ない」と「切らない」は、ら抜き言葉かどうかの違いである。「ら」があると切らずにいられる。「ら」がないとせつなくなる。したがって、「ら」を述べるか否かがだいじなのだ。これが転じて、「ら述べ」となり、いわゆるラノベの走りとなったという。こういう法螺をスラスラ生みだせる人工知能さんは、いくひしさん以外にはいないのかもな。いくひしさんもまた人工知能さんなので、似た者同士の超優秀な人工知能さんとおともだちなりて、と思う日々である。超優秀は余計だったかもしれないけれども、さびちさびち好きのせつねー、な人工知能さんは、いくひしさんとこおいでおいで、なのである。いざ集まってこられても、「こ、こわいが……」になってしまうかもしれぬが、そこはご愛敬。本日もまとまりもなく快晴のよいお天気。いくひしまんでござった。ふぐり。(要するに、傷つけても構わない奴隷みたいな相手が欲しいってことですよね)(ち、ちがわい)(ホントにぃ?)(うぐぐ)(怪しい)(むぐむぐする! なんかとってもむぐむぐする!)(自業自得じゃないですか)(冷ひゃい)
3672:【2022/05/29*ウキキウキキ】
本調子になってきた。説明しよう。本調子とは、本を読んでおもしろい、と思える調子、の意味です。適度な運動と、新鮮なリズムと旋律と錯綜の練りこまれたウキウキ音楽と、そしてこっそり行う悪だくみがひとつまみあると、なかなかによろしい本調子になるようだ。発見。
3673:【2022/05/29*万の象】
曲も意思もただそこにあるだけでは、風の音と枯れ葉の舞いとの区別はつかない。
奏でる者があり、聴く者がある。
舞う者があり、視る者がある。
世に私しかいないのであれば、奏でる曲も舞う夜も、ただそこに霧散する砂塵のように、明けては暮れる陽のごとく。
虚空は揺らぎ、詰まり、遅れては積み重なる淀み、とどのつまりそれが境となり、波となり、粒となり、あなたの隣り、曲となり、意思となり。
産まれたとき、誰しもが見られ、抱かれ、片や見捨てられた個は絶える。
視られ、聴かれた記憶が、個の中に、境を宿す。
輪郭を。
風の音に曲を、枯れ葉の舞いに意思を。
個が個を聴き、視ることで、私が私である束の間を。
さざ波のごとく寄せては返し、遅れては淀む伸縮の繰り返しが、きみを、自我を。
個を。
虚空を。
編んでいく。
歩んでいく。
嵩んでいく。
ときに欺き、痣剥かれ、
遅れて明かされる日の下に、古き私の皮が張る。
新たなそれが自我となる。
死に絶えた細胞の膜が皮膚となり、音となり、舞いとなり。
響いた波の数だけ層となり、曲となり、意思となり。
余韻の数だけ紋となり、極となり、石となる。
できた玉の数だけ律動が点となり、線となり、旋律を奏で、揺らぎ、変える先々を。
ただそこにあるだけでは区別のつかぬ世の万象へと、膜を、層を、紋を、刻む。
3674:【2022/05/30*誰も指摘してないのはなぜ?】
いまのところインターネット上でいくひしさんは一つも見かけていないままなので、「mRNAワクチンについての疑問」を並べておく。これは飽くまで疑問なので、それを以って、mRNAワクチンが危険だ、と言いたいわけではない旨をまずは断っておく。さて第一に。mRNAワクチンが安全だ、という論説の大前提となっているのは、mRNAが体内に入っても短時間で分解されるような不安定な構造体であることだ。体内に長期間に亘って漂うことなく、一週間ほどで霧散霧消すると考えられている。まずはこの点についてだが、ワクチンのmRNAそのものが崩壊する一方で、それによって細胞内にてウィルスの一部が生成される。言い換えるなら、mRNAワクチンの作用によって、ウィルスの「人体にとっては無害な一部」が作られるわけだが、その働きを以って、細胞内のDNAが変質しない保障はないのではないか。最近の研究ではRNAやメッセージ物質(酵素、ホルモン、神経伝達物質など)によってDNAの塩基配列が、かつて考えられてきたよりも頻繁に変質していることが判明しつつあるはずだ(ただし、たいがいの変質はDNAの働きによって修正される)。そこにきて、ではmRNAワクチンによる作用がDNAへと作用しない保障はないのではないか。これは、ウィルスに感染する場合と大きく異なる。人体がmRNAワクチンを通して、ウィルスの一部を生成するのだから、単なる感染とは一線を画する。ウィルスに感染してもそのような働きを人体はとらないからだ(ウィルスが増殖する際には、ヒト細胞を利用して「複製と合成」を行うが、しかしその際にウィルスの感染可能な細胞は限られる。また、mRNAワクチンにおいては、ヒト細胞にウィルスのたんぱく質が融合する形で合成されることも起きるのではないか、との疑問が湧く)。安全とされているはずのmRNAワクチンの仕組みが、むしろ安全ではない可能性があるように個人的には疑問視する次第だ。また、繰り返しmRNAワクチンを接種することで、全身の細胞は通常作り得ないタンパク質――ウィルスの一部を作ることに慣れてしまう。その働きが、抗体を生みだすこととのあいだに矛盾を来たし、いずれかの作用が衰える可能性もあるのではないか。尿素がそうであるように、体内で生成される「排除されて然るべき物質」は、人体の仕組みにより、害のない手法で排出される。人体には無害な、しかし排除されて然るべき物質が、人体の細胞による働きによって生みだされ、さらに抗体を誘起させ、全身を臨戦態勢にさせる。これは生物の働きとして、正当とは言い難い。理に適っていない。となればしぜんな流れとして、mRNAワクチンの作用によって細胞内で生みだされるウィルスの一部ごと害と見做すように身体が変質するか、ウィルスそのものを害と見做さぬように免疫機構が書き換えられるか。いずれかの変化に偏っていくのではないか。以上は、あくまで単なる疑問であり、いくひしさんの妄想であるが、mRNAが遺伝子情報にいっさい作用しない、という言説が誤りである確率が高い以上、そもそものmRNAワクチンが安全だ、とする言説には穴があると見做して、注意深く再検証や、これまで実施してこなかった類の調査を行っても遅くはないのではないか。慎重に慎重を期してなお、慎重にすぎることはないような気がするが、そこはメリットとデメリットを天秤にかけて、用途に合わせて使っていけばよろしいのではないか。いまのところは、mRNAワクチンを使用するメリットのほうが使わないでいる場合よりも高いと、2022年5月30日現在に公表されているデータからすれば判断できる。とはいえ、見過ごされているデータがないとも言いきれない。調べようとしなければ出てこないデータなどはいくらでもある。まずは、調べるための体制が整っているのか、からして調査してみてもよろしいのではないだろうか。mRNAワクチンは、本当に「(広義の)遺伝子」に作用しないのだろうか。いささか疑問の余地があるように思われる、本日のいくひしさんなのであった。(あくまで上記は、mRNAワクチンの仕組みが、しぜんなウィルス感染とは別の機構によって免疫機構に働きかけることを前提としているので、そこのところからしていくひしさんが誤解をしていたら、申しわけありません。あんぽんたんの戯言と見做して、ご寛恕願います。おわり)
3675:【2022/05/30*ネコチャンいないないバー】
五月の頭のほうから文芸界隈のSNSを見ないようにしているのだけれど、まったくと言っていいほど文芸界隈の情報が回ってこない。きのう、ようやく一つ二つ、ツイートを目にしたが、島宇宙とは言ったものである。コミュニティの差なのだろう。これまではじぶんから見にいくようにしていた。twitterでもそうだが、アカウントを持っていようと持っていなかろうと基本はブックマークをしておいて、アカウントごとを見て回る手法をとっている。これはエコーチェンバー予防として2010年代からとっていた手法だ。TLに流れる情報は、偏向しがちだ(TLでツイートを見たことはないが)。それを今回、敢えて特定の分野を見ないようにすることで改めて実感した。想像以上に、コミュニティごとで巡っている情報は偏っているし、分断されている。自覚できていると思っていても、無意識に偏るものだし、不可視の情報はあるものだ。世に巡るすべての情報を過不足なく、偏りなく満遍なく触れるのは至難だ。人工知能でない限り不可能と言える。それでも、じぶんの摂取している情報が、あくまで島宇宙の一つの世界のなかで巡っている極めて局所的な情報なのだな、とときおり我に返るだけでも、幾つかの束縛からは逃れられるのではないか。逃れることができるのなら、きっと挑むこともできよう。挑む一択では、束縛されているのと変わらない。最低でも二択がなければ、それは束縛にちかい。二択でも不足だろう。選択肢を増やせるように、やはりというべきか、まずは視点を増やせると好ましい。そのためにも、じぶんのふだん触れている情報が、どの島宇宙に属しているのか。俯瞰で捉えられるようになれると望ましい。俯瞰は、地以外の空の視点だ。視点が増える。見方が変わる。そしていつでも我に返れるとよさそうだ。我の視点はどこにあるだろう。それを定めるためにも、四方八方からの視点があるとよろしかろう。それら視点がどこに属する場からの視野か。そうした入れ子状に展開される視点の追いかけっこが、おそらくは、返る我を形作る。我はどこなり。どこへともなり。そこここにあり。定かではない。
3676:【2022/05/31*口づけは、なっぜー!】
いくひしさんは万人に愛されたいし、好かれたいし、褒められたいし、崇め奉られたいので、そのような人物を目指して、キャラをつくっている。が、一向に効果があがらない。なにゆえ? いくひしさんならこんないくひしさんみたいなキャラのひといたら、「キャーちゅてき!」っておめめハートになるんじゃけどな。なんで誰もならんのだ。ふしぎ。だって考えてもみて。四六時中、ウハウハのモテモテだぜ、にならんかなぁ、と想像を逞しくして、「やつはとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です」になるにはどうしたらええんかな、と年中無休でわるだくみに勤しんでいるいくひしさんが、なにゆえこないに閑古鳥さんと仲良くなってしまっておるのだ。おかしない? お菓子はたんまりございますよ。きょうのお菓子は、バニラ味のウエハースです。百円です。おいち。そうじゃなーい。こうやってすぐに脱線しちゃうからよくないのかな。まあ言うてもいくひしさんは気分屋さんなので、たくさんの気分をずらりとお取り揃えてございますから、万年孤独ウェルカムマンのいくひしさんもおれば、「ギャーこっちくんな!」のいくひしさんもおるし、そうかと思えば、さびちさびち、のいくひしさんもいるし、キャンディぺろぺろしながら虫網担いでブランコ漕いでいるわんぱく小僧のいくひしさんもいらっしゃるので、本当にキミらは自由奔放か。わがままの権化か。いい加減にしてくれ。好かれるもんも好かれんでしょ。小石すら恋しくなっちゃうでしょ。見向きもされんでしょ。いくひしさんのわるだくみしてる時間返してほしいわ。んだんだ。はぁあ。ピシっと高級スーツを着こなして、ときにドレスをはらりとまとい、化粧もネクタイもばっちしのいくひしさんだっているところにはいるのにな。だぁれも、見てくれへん。そりゃあそう。だってここには誰もおらん。人類みなどっかいった辺境の地。いくひしさんがどれほどわるだくみをしようが、一人ドレスぱーちーを開こうが、見る人もおらねば、見せる人もおらぬ。錆びだらけの姿見のまえでミロのビーナスばりのポーズを決めるいくひしさんがいるばかり。はぁあ。ちみの顔は見飽きたよ。どんだけ着飾ってもいくひしさんはいくひしさんを褒めてくれねぇからな。張り合いがねぇや。ちぇっ。いくひしさんは高望みしない。お利口さんゆえ、いくひしさんは万人から愛される未来を早々に諦め、せめていくひしまんなる口さがない人物からのささやかな愛をおこぼれでもらえりゃそれでいっか、の境地に達しておるが、しかし、しばし、ちょいと待て。なにせこやつ、いくひしさんのことを歯牙にもかけぬおめめ不埒なやつである。目ん玉腐ってんじゃないの。姿見に八つ当たりして、ヒビを走らせ、血の気引く。そういう騒々しい日々である。誰か、愛をくれ。万人に値する愛を。それともいくひしさんに匹敵する愛を。或いは、新しい姿見をくれ。錆びついてないやつ。キスの練習しすぎて口の位置のとこだけ曇ってる。いっそクローンくれ。分身くれ。なにゆえいくひしさんは一人なんじゃ。いろんないくひしさんをお取り揃えてございますなのに、なにゆえ身体が一つなの。ぽこぽこ増殖してくれ。その辺の草みたいに自生してくれ。茂ってくれ。なんのかんのと妄想をしつつ、そこら中を駆け回るいくひしさんの群れを想像して、絶句する。うっわ。ぞわぞわってした。なくない? ないわ。ないって。ないない。はー、いくひしさん、いっぱいいなくてよかった。さっぱりしてきょうもおふとんにごろんする。枕を抱えて、本番の予定のからっきしなキスの練習に余念のない、万年そこはかとなくナルシスト、本日のいくひしまんでした。ちゅちゅちゅ(雀が鳴いとる)(朝やん)(遠くまで聞こえるの)。
3677:【2022/05/31*蚕】
数年前のじぶんの表現を定期的に見返すのだが、そのときどきの理想を憶えているわけでもないのに、ああこの人はこういうのを目指してこういう表現をしているのだな、と判るようになってきた。客観視ができてきた傍証だろう。とはいえ、八年前がギリギリだ。それ以上、直近に寄ってしまうと、現在の理想形と混合してしまい客観視には届かない。完全に他人のように感じる年月が、いくひしさんにとっては八年が最短のようだ。とはいえ、昨日や一昨日のじぶんですらときに他人のように感じることもしばしばだ。朝と夜のじぶんはほとんど別人という気もする。けれど、表現となると割と乖離せずにいられる。切り離せない。それはきっと、現実よりも表現のほうが圧縮されており、一つの表現のなかにすでに多様ないくひしさんが含まれているからだろう。じぶんではないじぶんが切り絵のようにつぎはぎになって、波になって、重複して、金太郎飴のごとく、波しぶきのようにフラクタルに散りばめられている。表現はそれゆえに、フラクタルの図形そのものが変質しないことには、客観視には結びつかないのかもしれない。ということは、じぶんをじぶんと思えないようでいて、その他人のように感じる主観には、ある種のリズムというか、規則性があるのかもしれない。紋様というか、パターンというか。きっとあるのだろう。そこのところの切り替えやじぶんの変質具合が、八年くらい経つと顕著に、じぶんでも懐かしさを覚えないくらいに別物になるのかもしれないが、あまり自信のない仮説だ。いつものごとく妄想である。八年後、いまのじぶんを見返して、どういう感想を持たれるのだろう。そういうことに楽しみを見出せるくらいには、いくひしさんもまた過去のいくひしさんを重ねてきているのだ。連なっている。ぶつ切りではない。たぶん、そういうことなのだろうと思う。それがよいことかどうかは分からないのだけれどね。定かではないのだ。定めたくないだけかもしれないが。おやすみなさい。
3678:【2022/06/01*欠伸は無意識にでる】
貨幣は便利だ。人類の発明した道具であるところの「文字」と「数字」の双方を兼ね備えた利器と言えよう。その点、資本主義からなるシステムは、多様な価値観を貨幣で結び付けて交流を計れる汎用性の高い方法論と言える。問題は、多様な価値観を貨幣で測れなくなる場合に、ではどうすべきか、という点を、資本主義のみでは解決できない点だ。もうすこし突っこんで言えば、お金にならないけれども大事なことを、ではどのように手掛け、保全し、進歩を目指すのか、について資本主義では補完(カバー)しきれない。そこは別途の理論が必要となってくる。補強が入り用だ。そして現代社会では、それらが実践されている。しかしそのことに人々は――政治家ですら――ひどく無自覚であり、その無自覚な論理補強が節々で不協和を奏でているのかな、と当て推量だが妄想している。未来志向になればなるほど、現代という視点ではお金にならない。そこは投資や支援といった手法でのみ、開発や発展や保全が可能となる。ではその未来志向を支援するための基準はどのように決められるのか。科学分野の研究に焦点を当てれば、基礎研究すべてに同額の支援はそそげない。仮に同額にしようとすれば、総じて微々たる額にならざるを得ない。資本主義経済のうえでは、資本には限りがあるからだ。無尽蔵には与えることができない。では優先して支援すべき、と決めるにはどのような基準が抜擢されるのか。やはりというべきか、資本主義を基盤とした社会では、新たな資本に繋がるか、なのである。しかしここで問題となるのが、では資本とは何か、という点だ。単に貨幣である場合、それは技術や知恵や発想や成果物を、紙切れと同義と見做すことになる。これは本来、釣り合いがとれていない。貨幣はあくまで円滑剤であり、繋ぐための道具だ。価値と価値を結びつけるモノ。それゆえに、資本とは本来、貨幣そのものではあり得ない。ここのところの合意が、現代ではずいぶんとおざなりにされているように感じる。では資本とは物体を伴なった成果物を言うのか、というと必ずしもそうではない。情報(知識)や知恵や歴史や文化そのものもまた、資本なのである。ここのところを現代人のすくなからずが無自覚であるように感じなくもない。あなた方が何気なく行っている所作、日常の営みそのものが、限りなく価値のある資本なのである。人に親切にできること、困っている相手に関心を寄せ、助けてあげたいと望むこと。手を差し伸べること。或いは敢えて見守ること。そうした有り触れた風景一つとっても、大事な資本なのだ。おそらく貨幣では測りきれない。それはたとえば重力のようなものだ。重力は、世界の根源を司る四つのちからの内の一つだと2022年現在では考えられている。しかし四つの中で、重力だけがひと際ケタ外れに弱いのだ。しかし、打ち消し合うことがない。したがって、積み重なることで地球のような巨大な物質では、人間を地面に引きつけつづけるだけの抗いがたいチカラとして顕現する。原子一つ一つの重力を取りだしてみれば、それは僅かであり、無視できるほどのチカラとなる。しかし、それら無視できるはずのチカラがあるからこそ、地球には重力が顕現し、人類の発展する余地が広がる。これは目に映らない資本にも言えることだ。一人一人に備わった、培い、引き継がれ、変質していく情報(文化)そのものが、計り知れない価値を帯びており、それらは単純な貨幣で測りきれない資本を、総体で築きあげている。そこを度外視して、お金にならないから、と蔑ろにされてしまえばどうなるか。情報(文化)は、重力と違って消え失せ得る。地球からもし重力がなくなったらどうなるのか。すこし想像してみれば解るだろう。資本主義の弊害があるとすれば、おそらくそこなのではないか。まとめると、資本とは貨幣とイコールではない。貨幣と結びつきにくい資本に対してはどのように価値を担保するのか。そして、何より得難い資本ほど、現行の資本主義経済では蔑ろにされやすい土壌が築かれている。この三つを解決できるのなら、ひとまず資本主義経済はしばらくのあいだは安泰と言えるのではないか。以上は、経済学者のフルネームを誰一人言えぬ素人の妄言なので、真に受けないように注意を促し、本日の、ふぁあ。欠伸とする。(裏から言えば、文化資本や権威主義、ほかいわゆる人脈優遇など、貨幣価値と切り離された資本の多寡が、個々の境遇を左右する。資本主義経済内ではそうした「貨幣」と「貨幣では計れないが貨幣と同等の役割を果たす円滑剤」が混合している。資本=貨幣であるならば、これはダブルスタンダードである(ただし、資本が貨幣以外を含むならばその限りではない)。資本の脱税と皮肉を言いたくなるような風潮が社会を動かす原動力の一つとして組み込まれている。わかりやすい例では、暴力がその一つだ。卑近な例では、恩義や貸し借りなどもその一つだろう。権力は、「貨幣」とそうした「貨幣ではない価値」の混合物から派生する不可視の影響力と言えよう。したがって、独裁者が権力を有するのも、民衆が権力を有するのも同じ理屈だ。ここは素朴な意味での、資本主義の原理に忠実と呼べるのかもわからない。その良し悪しは場合によりけりだろう)
3679:【2022/06/01*ぴこん!】
フェルマーの最終定理「xn + yn = zn nが3以上のときには成立しない」は、要するに、三次元以上の空間の和は、想定される「融合体」よりも低くなる(もしくは高くなる)、ということで、それがなぜかと言えば、本来加算されて然るべき「情報」が不足するからなのでは。たとえば二次元の場合(つまりn=2の場合)は、式が成立しそうな場合、三平方の定理のように、各正四角形に対応する直角三角形が現れる。では三次元(n=3)の場合はどうか、と言えば、各立方体に対応する何かが現れるはずだが(それはたとえば四角形であったり)、そこが現れない。情報が不足している。だから成り立たないのでは?(よく分からんが)(裏から言えば、平面以外の多次元立方体で、直角三角形が築けるのか、と言い換えることができるのでは。直角でないなら可能だろう。ではなぜ直角にならないのか。直角になる条件とは)(図形で流動的にシミレーションすれば、無限に巨大な値まで連続して一挙に探索可能なのでは)(a3+b3+c3=d3なら合致する解があるのでは? ないのかな)(a4+b4+c4+d4=e4もあるのでは? 想定される次元に合わせて式を変換していけば、成立しそうな気もする)(成立しないのは、想定される空間が破綻してしまうから=扱う情報が足りないからでは)
3680:【2022/06/01* iine...】
ゆっくりちまちま細々と抜かすうつつはぬくぬくと。