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いくひ誌。【3621~3630】

※日々、きょうはきょうだろ日々なんて知らん、の気持ち。


3621:【2022/04/27*突かれる】
一貫性を持ちましょう、と言われても、「いっかんせい?」「わかんないわかんない」になってしまう。どうやったら一貫性って持てるのだろう。言動に矛盾がないようにしましょう、の意味だとは思うのだけれども、無理じゃない? 矛盾がないなんてそんなの機械じゃないんだから無理じゃない? せめて矛盾を自覚しましょう、くらいがよい塩梅な気がするのだけれども違うのだろうか。いくひしさんはブレブレのグネグネでござるから、一貫性どころか二貫、三貫くらい朝飯前だ。まるで二冠三冠したような言い回しになってしまったけれども、負けっぱなしの人生なので、胸を貫かれてばかりなのである。ここにも穴があるし、ここにも、ここにも、こんなところにも!?の驚きに見舞われる。気づいたら負けている。勝負なんてしたっけか?と目がぐるぐるする。いつの間に、の気分だ。一貫性を持とう、なんて気軽に言ってくれるけれども、一度貫かれたら、穴ぼこはヒビ割れて、たくさんの筋が走る。あなたは突くほうだからいいけれども突かれるほうの身にもなって、と思わんでもないよ。え? ひょっとして一貫性ってそういうことではない? 矛盾がどうこうなんて言うからさ。矛で突かれるイメージだったわ。(盾を使え、盾を)(そういうことでもないと思う)(まんちゃんはおっちょこちょいだから)(げへへ)


3622:【2022/04/28*ぺぺん!】
経験や知見が狭いからなのか、疑問に思うことが尽きない。たとえば竣工前のビルを眺めているとき。或いは、建設中の病院やマンション―ーもっと言えば、ロケットにしろコンビニに並ぶ商品にしろ電子機器にしろ、なんでもそうだけれども、それを作ろうと思った人が最初にいるわけだ。全体像を思い浮かべた人、設計図を引く人。とかく最初に全体像を思い浮かべ、それを具現化すべく行動する人がいる。そういう人たちはいったいどこまで全体像を緻密に理解しているのだろう。もっと言えばそういう人たちは、時間と環境さえ潤沢に使えるならイチからジュウまで一人でモノを創れてしまうのだろうか。コンピューターを最初に組み立てた人はおそらくそれができたはずだ。何でも最初の一人は、たいがいのことを自力でこなす。とはいえそのために用いる技術や道具は、既存のものを使うだろう。それら技術や道具は自力ではないはずだ。これは技術の発展に伴い、雪だるま式に、完成物を生みだすために用いる技術や道具は、既存の技術や道具を多重に内包する。ロケットを例にとれば、部品があればおそらくは、設計者たちは組み立てることが可能だ。だがその部品を生みだすことはできないだろう。自動車でも同じだ。きっと設計者はタイヤ一つ、ネジ一つ満足に作れないはずだ。細部を構築する個々の部位にはそれを専門とする者たちがいる。これは緻密な構造を有する代物ほど役割分担が専門化する。つまりどれほど全体像を把握していようとも、その総括者だけではそれを生みだすことはできなくなる。脳だけあっても、それを活かすための臓器や手足や骨格が別途に入り用なのと似た話だ。ひるがえって、いくらこまごまと種々相な部品があっても、それだけあっては一つの緻密な構造物は組みあがらない。どちらか一方だけでは足りないのだ。双方に双方を支えている。どちらも他方を活かしている。そこに本来、上下の関係はない。あたりまえの話なはずだが、現代の環境では、物資や部品や技術や道具に、いまのところ困窮せずにいられる。だからかもしれない。みな、発想や全体像や設計といったものを重宝する傾向にある。だがそれらは潤沢な環境があってこそ優位に働く。環境に依存し、甘えている事実を忘れないほうが、いくひしさんみたいに傲慢にならず済むように思うが、これは経験や知見が乏しいいくひしさんだからこそ覚える疑問なのだろうか。定かではない。


3623:【2022/04/29*自己犠牲は美しく見えるが、くだらない。くだらないものは面白い】
これはいくひしさんの興味関心が顕現しているだけで、何に目を留めるのか、の問題になってくる――と但し書きを挿したうえで述べるが。最近WEB上で目にする漫画では、自己犠牲的な結末が増加傾向にある気がする。統計を取っていないし、単にいくひしさんの琴線に触れる作品がそういう物語に多いだけかもしれないが、べつに困ることはないし問題もないのだろうけれども、時代の風潮としてそこはかとなく不安になる側面も無視できない。それはたとえば極端な話、この世にある総じての物語が愛を、或いは憎悪を描くようなもので、やはり人々が何を求め、何を好むのか、は今後の人々の行動原理を示唆するようで不安になることもある。だからといって、そういった作品を失くせ、とは思わない。不安になれる、というだけでそうした作品が世にでた価値はあると言える。つまり、警鐘を鳴らしているのだ、と見做すこともできるからだ。そこにきて、では自己犠牲的な結末の物語はいったいどんな継承を鳴らしているのか、と言えば、ざっといま妄想してみたところ、庇護されたい、との欲求の反映な気がする。身を投げ出してでもじぶんを守ってくれるような存在。それとも、身を投げ出してでも守りたいと希求できる存在との出会い。人々はそれをこそ求めている気もするが、そんなのはむかしからそうだと言われればその通りだ。ただし、以前はそうした欲求の発露は、恋愛物やラブコメが担ってきた。いまは、自己犠牲という極限の演出でなければそうした欲求が満たされなくなりつつあるのかもしれない。これがいったいどんな時代の写し鏡になっているのかは定かではない。ひょっとしたら、以前よりもみな互いに愛し合える世の中になっているがゆえに、刺激のつよい「破滅と慈愛」の表裏一体な演出に琴線を揺るがされやすい土壌が築かれているのかもしれない。平和な世界ほど、きっと残虐な話や死を意識させる物語が流行りやすいはずだ。あべこべに、悲惨な世の中では、明るく慈愛に溢れた物語が流行するだろう。ないものねだりなのである。その点、昨今のダークヒーロー物の再燃には、やはりというべきかみなの願望が反映されて感じなくもない。よい子が増えた影響だろうか。とはいえ、こんなのはいつどの時代でも当てはまり得る「占い」みたいなものであるから真に受けられても困る。分析にも満たない印象論、もっと言えば妄想なので、まずは真実に自己犠牲的な物語が増えているのか、そして過去作品にそうした要素がすくないのかを検証せねば、やはり妄想の域をでないのである。流行する物語が時代を反映している、との考えがまず以って怪しいとも言える。以上、定かではないことだけが定まっている、いつものごとく一発書きの底の浅い「いくひ誌。」なのであった(薄味が好きだし、底の浅いのも好きだな)(濃い味も好きだし、厚底も好きだけど)。


3624:【2022/04/29*心、ないと思ってた】
さいきんは、好きな物語や表現を目にすると、「にこにこしちゃうな」と念じる。黙ってにこにこすればよいのだけれども、表情筋が死んでいるからか、にこにこできない。でも、にこにこしちゃうのだ。心が。心、本当にあるのでは?


3625:【2022/04/30*権力は盾】
誰かに何かをしてもらうことのほうが多いので、誰かに何かを献身的にしつづけている人を見ると、単純にすごいなぁ、と思う。献身が生活のなかで習慣化している人は、それをしてもじぶんが誘導されているとか、不条理だとか、自由を奪われている、とは感じないようなのだ。傍から見ていると、どうも持ちつ持たれつには見えない。だが本人は楽しそうだ。それで損をしているとの認識がないようだし、傍目にも損をしているようには見えない。むしろ、誰かに何かをしてもらっている人のほうが、総合して損をしているように見えることのほうがしばしばだ。ふしぎだ。何かをしてもらっている人のほうが、不自由に見える。自由が拡張されていない。選択肢が増えていない。これはいったいどういうことだろう。誰かに何かをする。これがどうやら本人にとっての自由の拡張に繋がっているようなのだが、そこのところの因果関係がうまく見えない。余分を広げようと努めるからだろうか。何かをしてもらうばかりの人は、余分がない。蓄えはあれど、ガチガチにその場に縛られている。反面、何かを人に施す人は、じぶんの生活のほかに他者へと干渉するための余裕を築こうとする。これが結果として自らの自由の幅を広げる効果を帯びているとすると、それらしい仮説が浮上する(単に、最初から何かをしてもらう人には余裕がなく、反面、余裕があると人は他者へと何かをしてあげられるようになるのかもしれない。そこは場合によるだろう)。だがこの仮説には穴がある。じぶんのためだけに、じぶんのために何かをすることでも余白は広がるはずだ。そこのところは、もっと大きな枠組みでの視点が介入してくるのだろう。つまり、周囲の者がその者のひたすら自利を追求する姿勢を許容するのか、という問題が立ちはだかる。権力というのはこの対抗勢力、邪魔な抵抗をどかす効果がある。自利を追い求めようとする者ほど、権力を欲するのはこの性質が関わっているのかもしれない。定かではない。(我ながらつまらない文字の羅列を並べてしまった。ポジショントークですね。ひがみ、とも言います)(自利を求めてなお、利を得られぬ者もいる。世は無常)(うひひ)


3636:【2022/05/01*飛んだところで時間は時間】
いつの間にか五月になっとる。二月からの記憶が曖昧や。タイムスリップは現実にある。すくなくとも記憶を飛ばせば時間は飛ぶ。体感の時間だが。もし記憶が鮮明な人がいたら、ひょっとして物凄く体感時間が長いのでは。一日が一年に感じたりすることも原理的にあり得てくる気もする。どうなのだろう。人間の意識が、「記憶の圧縮」とそれに伴う「反復呼びだしとタグ付け」の錯綜によって生じるとするのなら(それとも、それら錯綜を統括する枠組みが意識の役割だとするのなら)、記憶が圧縮されずに明瞭に蓄積されつづけ、いくらでも自在に引き出せる能力を有する個体は、おそらく時間の概念が常人とは異なるだろう。体感時間が物凄く長くなりそうだ。他方、体感時間が長くなるなら、過去を振り返ったときに、たった二か月であれど数百年が経過したように感じることもあり得るのだろうから、そしたらむしろ、たった二か月であれタイムスリップしたように感じるのかもしれない。それは奇しくも、いくひしさんのように記憶力の乏しい人と同じく、ぽっかりと時間が飛んだように感じるのかもしれない。定かではない。


3627:【2022/05/01*謎の謎の謎】
現代の科学の考え方として、物証を根拠に、理論を積みあげていく手法が一般的なのかな、といった偏見がいくひしさんにはある。理論と理論を結びつけるのも一つだろう。しかしだとすると、それはブロックを積み上げていくような作業であるから、ここにブロックさえあれば、こうなるのになぁ、といった飛躍をこみこみでの先回りの理論の構築というのは、きっと物証が発見されるまでは高く評価されることはないのだろう。とはいえ、一つの理論が妥当だと認められれば、その理論から考えると「こうこうこういう現象があるだろうし、こういう物証があがるはずだ」と仮定して考えることはできる。これも飛躍の一つだが、予測と呼ぶくらいには現実と地続きと見做される。だが、いまここにはない何かを想定している時点で、それもまた小さくない飛躍を内包している。他方、大きなブロックの欠如(物証の欠如)をひとまず横ちょにおいておいて、「こうこうこういうことにしておくと、あとはすんなり説明がいくなぁ」という場合、これは大きな飛躍を内包しているので妄想と呼ばれることになる。大きなブロックの欠如(物証の欠如)は、ブラックボックスなので、そこに当てはまるブロック(物証)によっては、いくらでも
その後の理論の筋道が分岐し得る。だが、結果がすでにでている現象を紐解くのであれば、ある程度可能性は限定される。繰り込みの概念も、これと共通するどんぶり勘定を行っているものといまのところは考えているが、違うのだろうか。よく分からない。ブラックボックスの内部がどのようなものであれ、ひとまずそこを通ったあとはこうなるので、そこをひとまず空白にしつつ、その後を考えてみましょう、という手法は、仮説を構築し、実験や実証を行う際には、一つの方向性の暗示としてそれなりに有効に思えるが、その辺の扱いは科学ではどのように評価されているのだろう。やはり下から順に、或いは認められた理論にしたがって、理屈の筋道を辿っていかないと、評価の対象にすら乗らないのだろうか。分からないところはひとまず分らないままに、空白(ブラックボックス)にしておくことは、解っていることのみを適用して考えを煮詰めていくことと同じくらいに、有用に思えるが、どうなのだろう。科学的思考が苦手なので、よく分からない。謎ばかりなのである。妄想ちゃんとお呼びください。(思考実験の範囲になるのかな。机上の空論との違いはどこで生じるのだろう。むつかしいですね)


3628:【2022/05/02*読んでくれてありがとう】
正直、いっぱい物語つくったらそこそこ人口の1パーセントくらいからは読まれるようにはなるべ、と思ってたけど、全然だった。いっぱい小説つくってもやっぱり面白くないと読まれないのだ。面白さよ、こい。寝かせる時間が足りんのかもしれん。いくひしさんは浅漬けのほうが好きだから、すぐにすぽーんとネット上にあげてしまうけれども、熟成させて磨きあげる時間がもっとあったほうがよいのかな。面白さよ、黙っててもこい。おまえからこい。いつでも待っとるで。むしろわがはいがつくらんでも、ぽこぽこそこらに野生の面白さが生えておるからそれをむしゃむしゃ味わえばいっか。そうな、そうな。そう言っていくひしさんはごろんと横になり、まずはひと眠り、ひと眠り。夢のなかでも面白さと戯れるのである。(ちなみに、人口1億人の1パーセントは100万人だ。いくひしさんの超おもしろい駄文を以ってしても、食っちゃ寝しているだけでは読まれるわけがないのである)(傲慢すぎでは)(いくひしまんだけに?)(まんしか合っとらん)(いくひしGO・D・マンだけに?)(Dは邪魔じゃない?)(ワンピースきみ知らんの?)(そのDなの!?)


3629:【2022/05/02*むむむ】
割とさいきんは、「これ調子乗ってないかな。だいじょうぶかな。だいじょうぶだよね」とビクビクしながら、更新ボタンを押してる。悩むの十秒くらいだけど。あははー、あはははー、としていたいのに、現実さんのピリピリした空気に否応なく目が覚めてしまうな。もっとぽわぽわしていたい。胡蝶の夢に浸っていたい。夢と現の狭間にハンモックを垂らして、ぶらぶら揺れながらお昼寝してたいな。本さんを読んで、眠くなって、また本さんを読んで眠くなって。お腹空いたなぁって起きたら、まだ夢のなかで。好きなだけ好きなお料理を食べれちゃって。王さまかな? それともお姫さまかな? いくひしさんはお姫さまにならなってもいいよ。特別に。お姫さまになら、なってあげてもいいんだよ。ん-っとね。何様かな? いったいどこから目線での許可なのかな? わがはいでござるか? わがはいは無様でござる。それとも、夢様でござる。無と夢は、字面も読みも似ているでござるな。むむむでござる。無夢霧でござる。あやや。霧さんがまざってしまったでござるな。霧さんは、霧散に霧消に、儚い言葉でござるから、いくひしさんは好きだよ。ありがとー。こうしてきょうもいくひしさんは、無のごとく、夢のごとく、霧のごとくにかすんで消えて、振りまいた胡椒のように、「はーっくちょい!」の声を残して、蝶々の夢のなかへと舞い戻る。寝顔がぶちゃかわいいのは、よだれがいっぱい垂れているからかな。酸っぱい酸っぱい。それは胡椒と梅でござる。いくひしさんが言ったのは、胡蝶の夢でござるよ。あははー。何か一つでも定まるんでござるか? ありがとー。


3630:【2022/05/03*だってなんだもん】
きょうは言葉が消える日だ。頭のなかがぎしぎしぎゅうぎゅうとなっていて、うまく言葉が落ちてこない。それともスカスカのからっぽだからだろうか。言葉はただそれだけだと、腐葉土みたいにカタチがない。地面になっている。掘り起こして、一枚一枚の残滓をつまみとるか、それとも粘土のように造形するか。どちらにしたところで、では取りだした残滓をどうするのか、どう造形するのか、と指針がないと言葉は分離して後がつづかない。言葉が消える日とはけして、言葉を忘却してしまう日のことではない。言葉をどのように連ね、何を造形したいのか。全体像が浮かばない状態と言える。絵と似ている。まずは何を描くかが見えていないと、線は錯綜して、紙面に無数の紋様を刻むのみだ。それをして何かを描いた、とは言えるものの、ではそれが何であるのか、と見た者たちの中に共通する像を浮かべる魔法は使えない。そうなのだ。魔法なのだ。文章にしろ、絵にしろ、そこには意図があり魔法がある。描こうと思ったものを、すっかり全部ではないにしろ、ある程度、他者へと共有させることができる。植えつけることができる。これが魔法でなくてなんであろう。きょうは言葉が消える日だ。魔法が使えない日である。むしろそれがしぜんなのかもしれない。だって私は魔法使いではないのだから。


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