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いくひ誌。【3451~3460】

※日々、世界は残酷だというけれど、哀しみを得ても楽しめるくらいの傷だけでいい。


3451:【2022/02/25*言い出しっぺ】
誰にも争って欲しくはないけれど、でももしどうしてもというのなら、じぶんが誰よりまえにでて闘え、と思います。とはいえ、いくひしさんは誰とも争いたくはないので、引っ込んでいます。


3452:【2022/02/25*誤解も真実のうち】
未だになんもわからん。こういうときはひとまず、じぶんにとっての最悪と最高の両方に備えておく。いくつかの可能性を重ね合わせたままにしておくのがよい。どっちに転んでもいいようにしておく。でもこういうことをしていると誤解の余地が広がるので、人が寄りつかず、孤独になる。いいこと尽くしだ。お試しあれ!(やめなさいよ)。


3453:【2022/02/25*一線がどこか解かっているのか?】
いくひしさんはあんぽんたんだし、人望ないし、クソザコだし、かわいいし、みんなに嫉妬されちゃうから引きこもっているだけだけれども、この人になら裏切られてもいいと思える人に出会えたらやっぱりうれしいと感じてしまうくらいには普通の人間です。だからこそ権威という魔物は、そういう人間の隙間に入り込んで、知らぬ間に社会を蝕んでいくのですね。友達ごっこもほどほどにしましょう。ただし、友達はたいせつに。


3454:【2022/02/25*誰がためのイタズラか】
抗いながら楽しむことを遊びという。遊びは誰からも認識可能だ。しかしイタズラは一方的なのだ。枠内にとどまるのが遊びであり、枠外からの干渉がイタズラと言える。ハラスメントも同じだ。うひひ、はつねにイタズラの側に一歩足を踏み入れている。根がハラスメント気質なんですね。すみません。


3455:【2022/02/25*こわいよ!】
宇宙の果てから、ただ一方的に見ていたい。根がストーカー気質なんですね(だからこわいって!!!)。


3456:【2022/02/25*じぶんでも危ない人だと思います】
素直になるのはむつかしい。だって素直になればなるほど、「好き好き大好き超わがはいのものになれ!!(ならないのなら滅べ!!!)」になってしまう。素直にならないほうがよい人間もいます。(根が独裁者気質なんですね)


3457:【2022/02/25*一匹の蟻】
いくひしさんは、「いいひとでありてぇーなぁ、自動的にぽんといいひとになってウハウハのモテモテだぜ!にならねーかなー」と念じつづけなければ即座に大魔王になってしまうくらいに人になりきれない「人になってみたい!」の生き物なので、ふっつーに、あなたの大嫌いな人とほぼほぼ同じだと思います。ギリギリかろうじて大魔王じゃなさそう、と演じているだけなのですね。言っても大魔王って、アリンコくらいに弱いんですけど。


3458:【2022/02/25*うひひ】
シークレットとか、外堀を埋めるとか、花を持たせてやるか、みたいなのをされるのは大嫌いなのに、するのは好きなので、やっぱり人としてよろしくないと思います。でも結構そういう人、多くないですか?


3459:【2022/02/25*反面教師】
遊びに付き合ってくれてありがとうございます、と思うことが最近あったようななかったような、これも勘違いかもしれませんが、でもいくひしさんが言うことでもないですけれども、誰かのために泥をかぶる、みたいなのは長期的に見て害だと思います。言葉を尽くして説明し、話し合いましょう。誤解は誤解を呼び、人を疑心暗鬼にさせます。


3460:【2022/02/26*がらんどうは拭えない】
たぶん私がこのことを文字にして並べるのは初めてですし、これまでじぶんの外側に吐きだしたこともなく、今後もないと思います。いつか目にした人はこれも小説なんだな、と思って読んで欲しいです。私は2011年3月11日に例の震災に遭いました。被災地です。さいわいにも海岸からは二十キロ以上離れた地点にいましたから、津波の被害を受けずに済みました。家の中は食器が割れ、家具が倒れた程度で、のちに半壊と判断されましたが、家の壁には目立った損傷はありませんでした。ヒビが割れ、瓦が落下した程度です。屋根にはビニールシートを張り、雨漏りを防ぎました。風が吹くたびにビニールシートがいまにも飛んで行ってしまいそうな音をビダビダと立てるので、地震や津波のことより、家が吹き飛ばされないのかが心配でした。風が連日強く吹いていました。停電は三日ほどつづき、断水は七日から十日くらいは続いたとおぼろげながら記憶しています。断水してもしばらくは水道が使えました。鍋や湯舟に水を貯め、生活用水に活用しました。足りない分は給水車からもらい、食料は缶詰や、非常食を食べました。近所のスーパーは購入制限を設けてずっと開いてくれていました。地震の翌日になって、ようやく津波の被害の全貌がラジオから伝わってきました。映像もありませんし、なかなか実感が湧きませんでした。正直、いまでも実感が湧きません。震災以降しばらくは、県外に足を運べば、会う人会う人に震災のことを心配されました。しかしやはり私が思っているよりも、ずっと県外の人たちのほうが深刻そうに震災の被害を捉えていました。情報が回ってこないだけで、これほどまでに認識の差が生まれるのか、と私はそれから何度も体験することになります。私はけっきょく、ボランティアには一度しか参加しませんでした。被害の大きさを知るにつれ、福島原発が破損しているといった事実を知り、外にでるのが怖くなったのです。また、最初の三日は何もできず、ベッドの上でただテキスト執筆ツールのポメラを打鍵していました。当時、私は小説をとある出版社の新人賞に応募していました。大きい賞と小さい賞があり、大きいほうはなかなか手ごたえがなかったので、小さいほうの賞に、その年の頭から投稿しつづけていたんですね。ちょうどその新人賞がはじまった年でもあり、月一かつ四万字程度の分量で投稿できたので、毎月投降していました。ひと月で結果がでるので、飽き性な私にはちょうどよかったのですね。私は人が大勢津波で亡くなっているとの報せをラジオで聞きながら、ひたすらポメラを打鍵していました。停電が復旧したそばからPCに繋いで、投稿したような記憶があります。そこら辺、いまではもうあやふやな記憶です。本当はもっと経ってから、ひと月後くらいの記憶かもしれません。ただ、私はそれからおおよそ半年以上、部屋に引きこもって、一人で物語の世界に逃げ込んでいました。いまもそうじゃないか、と言われればそうなのですが、当時はもう、あまりのじぶんの役の立たなさ、非力さ、無常さ、ともかく、じぶんのちっぽけさを嫌というほど味わったのですね。瓦礫撤去にでもボランティアをしに行けばよかったのに、それもできませんでした。ただひたすら、つぎの締め切り、新人賞、講評、それが楽しみで、物語の世界に逃げこんでいました。その新人賞では、ネット配信で審査会のようなものを生中継しており、じぶんの作品が紹介されたときは、そわそわと落ち着かず、せっかく開いた画面も直視できずに、イヤホンもつけず、ホラー映画でも観るように薄目で眺めていました。不謹慎なのですが、私にとって2011年は震災の年ではないんですね。私のつくった物語が初めて人に読まれていることを実感できた、初めましてだらけの年でした。私はいまでもじぶんが被災者だと思えません。私より悲惨でつらい思いをした方々がたくさんいらっしゃいます。いまでも苦しんでいる方だっているはずです。現に私は、津波を直接に目にしてはいませんし、亡くなった方のご遺体も目にしていません。私はいまもむかしも人との交流が希薄なので、震災によって大切なひとを亡くした方と会ったこともありません。或いは、会っていても、相手からそのような事情を聞いたことがないのです。住む場所を追われたり、家族と離れ離れになった方たちも、身近にはいません。被災地に住んでいながら私は、いわゆる東日本大震災の実情を、多くのほかの地域に暮らす方々よりも知らないのです。あとになって何度も映像で震災当時の海辺の様子を目にしました。しかしなぜか、その映像と海外で起こった災害映像との区別はつきませんでした。私に残っている2011年当時の感応は、じぶんがいかに無力でちっぽけで、取るに足りない存在だったかといった虚無感と、新人賞に投稿しているあいだの、夢見がちなふわふわ感だけなのです。話は変わりますが、いま、ロシアがウクライナに戦争を仕掛けています。軍人だけでなく、すでに民間人にも犠牲者がでています。攻め入られているウクライナ国民はむろんのこと、ロシア国民の大半は、戦争を望んでいません。私だってそうです。平和は、全世界、人類の共通にして基本理念のはずです。なのに、なぜか人が人を殺して回っている現実があります。それを一人の人間が、権力が、許しています。同じ一人の人間なのに、私にはやはり何もできず、こうしてうじうじと文字を並べているしかありません。震災時に覚えた虚無感を、ありありと思いだすのです。そうだった、この感じ。じぶんは安全地帯で命の危機を感じずに、漠然とした不安に怯えつつも雨風に凍えずに済む部屋にいて、布団にくるまり寝ることもできる。片や、寒空の下で救援を待ちながら凍え死んだ方々がいる。津波に流され、未だに誰にも見つけてもらえずに海や土の下に眠っている方々もいらっしゃるでしょう。存在を知っても、何もできない。なんでなんだろ、とたぶん私はあの日から、本当はずっと考えつづけていたのかもしれません。私はいま、戦争のことを思うと涙が止まりません。逆らえない状況下で「人を殺してこい」と命令される人たちがいて、それを拒むこともできずに、本当なら助け合えたかもしれない人々が、互いに望まぬ死を突きつけ合っています。私は震災のとき、きっと心のどこかでは諦めていたのかもしれません。自然の猛威なのだから、と。どうしようもないのだ、と。本当はどうにかしたいと思いながら、その術を私は持たなかったから。どうすれば持てるのかも分からず、持とうとすら行動もせず。いまも状況はほとんど同じです。ただ絶対的に違っていることがあります。戦争は、自然の猛威ではありません。本当なら、止めることができるはずなんです。なのに、できない現実があって、でも、どうにかできる現実だってやっぱりあって。きっといまの私が陥っているこの状況は、震災時の私とほとんど同じようなものなのかもしれません。戦地の状況すらろくにわからず、断片的に入ってくる情報だけで、徐々に被害だけが明らかになっていきます。いまはしかし映像があります。それを目にしても何も感じないくらいにぽっかりと空いた虚無を感じている方が、いまこの瞬間にも大勢いらっしゃるように思います。私にはさいわいにも震災当時、とある出版社の小さな新人賞がありました。小説が、ありました。もしいま、私にとってのそれの代わりとなるようなものがほかの方々にもあるのなら、きっと私と同じように、このさき何年にもわたって救われつづける方々がいらっしゃると思います。いまを乗り越えたあとも、身体に染みこんで拭いきれないがらんどう、虚無の重力から、いつでも逃れる術を、授けてくれるように思うのです。それはきっと、単なる虚無を、無力感を、もっと別の何かに変えていける術を、私たちに与えてくれます。与えられたそれで以って、願い一つ聞き入れてくれない無情なこの世界を、じぶんたちの手で、足で、言葉で、どうにかできる現実へと変えていけるようになるのかもしれません。それはひょっとしたら小石程度の小さな起伏かもしれませんが――しかしすくなくとも私はあれから、震災のあったあの年からずっと、拭いがたい虚無に呑みこまれずに済みました。ありがとうございます。あれから11年も経ってしまいましたが、いつかちゃんとお伝えしたかったです。


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