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いくひ誌。【1611~1620】

※日々朽ちていく。


1611:【こんなに】
人からいっぱい好かれたーいって思って、こんなにたくさんキャラづくりしてるのに、ぜんぜん好かれないってやばくない? それともみんな照れてるだけ? 憧れのあのひとには話しかけられないキャー、みたいな。ちがう? ちがうか。調子のっちゃった? かんちがいしてんじゃねーよって思ったんでしょ。ごめんぶー。


1612:【危なげなビジネス】
(※以下、わるぐちです)。基本的にビジネスは、じぶんより能力のない相手に向けて、その能力を貸すことで対価を得るものだ。いっぽうで、相手が能力を借りたいと思うのは、その借りた能力で解決したい問題があるからだ。だから、能力を貸しても問題が解決されなかったら、本質的に、ビジネスの関係性は成立していないと呼べる。とはいえ、車を貸したのに、相手が運転免許を持っていないがために、無駄になったじゃないか、とのイチャモンが成立してしまってはビジネスにならない。だから、貸した、払った、という契約が成立した時点で、あとのことまでは保障しませんよ、と線引きする権利が、売る側にはある。その売る側の権利を拡大解釈し、相手から対価を集めるだけ集める手法が世のなかには数多くある。さいきんでは、サロンビジネスと呼ばれる手法が盛んだ(一時期流行ったセミナー系詐欺ビジネスとなにがちがうのかが解からない)。宣伝になるので話題にすらだしたくなかったが、SNS上ですでに批判的な意見が出回りはじめたので、もうだいじょうぶかな、という意味で、ここでも話題に触れることにする。一部の編集者界隈を概観していて、カルトかな? と訝しんでいたのだが、やはりというべきか、化けの皮がはがれてきたな、といった印象がある。若い子(二十代以下の世代)ほどああした、カリスマ系にハマりやすいので、つねに誰かに憧れるときは、騙されているかもしれない、との視点は手放さずにいたほうがよい。一見、ちゃんとしたおとなが主催者の腰ぎんちゃくになっていることも多く、身近に関われば関わるほど、騙されやすくなってしまう。成果もきちんとあげていたりするので、見かけのデータだけで判断はしないように心掛けたほうがよい。成果をあげているならまっとうだ、との理屈がまかりとおるなら、暴力団はまっとうな企業だということになってしまう。同様にさいきんでは、高校ビジネスも盛んになりつつあるようだ。通信制高校のシステムを利用し、ある分野に特化した高校を設立する、といった話を、ここ二年のあいだにいくつか耳にする。これは邪推であるが、いずれも背後に、同じコンサルタントの存在があるのではないか、と見立てているが、どうだろう。若い子の将来や、時間を搾取するようなやり方は感心しない。もし高等学校を標榜するなら、きちんと生徒たちのその後の進路まで責任を持ってほしいと思うのだが、三流の専門学校と同様に、自己責任の一言で済まされてしまうのではないか、と悲観してしまう。おそらく、入学式の時点で、自己責任です、みたいなことをきれいな言葉で着飾って、生徒や保護者たちのまえで堂々と謳うのではないかな、と妄想するしだいだ。あまりうがった見方はよくないのだが、教育機関の設立は、そうそう容易くあってはならない(すでにある学校をより洗練させていくほうが好ましい)と思っているので、困ったら畳めばいいや、みたいな軽い気持ちが透けてみえると、やはりというべきか、肯定的には見られない。問題があるか否かの一つの指標として、宣伝に挙げられている一流の講師陣が、果たしてあと何年一流でありつづけますか?といったことを見ておくと、危なげなビジネスか否かを見抜けるのではないか。後釜に入る講師陣の実力はどのていど保障されているのか、講師陣はそもそもそうした教育機関を利用して育ってきたのか、ほかに一流の講師候補があった場合に、自身の学校を卒業したOBやOGとどちらを優先して講師として雇うのか。あなたたちは講師としてお金を稼げるだろうが、卒業生の進路にはどのようなものがあるのか。あるなら、なぜ一流のあなたたちはそちらの職種で働こうとしないのか。こうした指標を明らかにしていないところは、やはりというべきか、危なげだな、と感じる。お金を稼ぐ、という意味では、短期的に有利なのかもしれないが、ビジネスとしては不誠実だと感じる。悪評が立った時点で生徒数は確保できなくなる。また、生徒が殺到しても、ビジネスの規模を広げるには、講師陣を確保しなければならない。しかし、その分野に特化した高校を謳っている以上、雇える一流はかぎられる。仮にムリヤリ講師陣を捻出しても、教育機関としての質は下がるだろう。繁盛しても、しなくとも、ビジネスとして発展させるのは困難だ。サロンビジネス同様、長くはもたないだろう(そして経営陣は、短期的に資本を確保するための手段として考えているはずだ。端から長くもたせる気はないのだろう。生徒一人あたま年間二百万、三年間で六百万円を出資させるとして、一学年百人、全校生徒三百人として、三年間運営するだけで、十八億円の金が学校側の手元に入る。学校施設を整えるとしても、テナントを利用すれば、二億あれば充分だ。講師と教員が全部で三十人いたとして、一人あたま年収一千万としたって、一年間で三億の出費だ。三年間でも九億。雑費に二億かけたとしても、残り五億円のお金が純利益として残る計算になる。なにより公立だけでなく、私立の学校にも行政からは補助金がでる。詳しくは知らないが、税金も、一般の企業とはまたちがったシステムが当てはまるはずだ。だいぶん、どんぶり勘定だが、ビジネスとしては割のいい手法だと判る。儲けている初期のあいだに経営権を安値で手放せば、あとはじぶんの知ったことではない、を地で描ける。経営者が変わった途端に経営が傾けば、前任は優れた経営者だったのに、と評判まであがる。いいこと尽くしだ。本当は、ただ、経営が傾くことを計算して手放していただけなのに。これらはいくひしの妄想だ。そうならないことを祈るが、やはりというべきか、現状のままでは生徒が割を食うだけではないのか、と首をかしげたくもなる。学校としてまともに機能する工夫を望むばかりだ)。


1613:【お金がなくなったら】
世界平和を実現させるためには、世のなかからお金をなくすことを目指したほうがよい、みたいな文章を読んだ。いっせいの、せいで、で世のなかからお金がなくなれば、世のなかにある貧富の差による争いや問題はなくなるのではないか、といった趣旨のことが書かれていた。やってみなければ分からないことだが、すくなくとも、現代社会でも、お金の介在しない経済は成立しているケースは珍しくない。だから、もしお金が世のなかから、いっせいの、せいで、でなくなれば、徐々に、お金の代わりとなるもので経済が再構築されるのではないか、と思えるが、さて、どうなるだろう。たとえば、現代でも、田舎の農家のあいだでは相互扶助の関係が根強いように見受けられる。とれた成果物(やさいやくだもの、はちみつや、魚、肉、乳製品、服飾や住居など)をお金を介さずに必要なひとへ分け与えている。代わりに、恩を受けた分、じぶんに余裕ができたら、困っているひとたちへと分け与える。そうした村や町のコミュニティは、けっして珍しいものではない。とはいえ、そこにはお金の代わりに、信用という、目に見えない経済の円滑剤がやり取りされている。信用を損なったり、恩を返せない相手は、村八分にされるといった問題が生じることもある(弱者には生きにくい社会と呼べる)。だからこそ、お金がなくともひとは、ひとを助けるために働いたりするのだ、との趣旨を「世界平和を実現するためにはお金をなくせばいい」と書いていたひとは述べていた。解からない理屈ではない。おそらくは、ちいさなコミュニティではそうした社会体系が築かれていくだろう。現に現代社会でも築かれている。それは農村だけではなく、会社間や部署間、家族間ですらそうした目に見えない絆や信用といったものが相互扶助の円滑剤として機能している。とはいえ、そうした目に見えない円滑剤になく、貨幣にある利点の一つに、価値が可視化されているという点が挙げられる。もっといえば、世界標準の規格を誰が見ても分かる水準で数値化されている点が、貨幣の優れている点だと呼べる。貨幣という名の汎用性の高い円滑剤が、文化や価値観などの分断した社会を結びつけているのに、目に見えないその場その場で築かれる関係性のみでそれを代替しようとすれば、社会は細かく分断していき、過去の乱世を引き合いに出すまでもなく、到る箇所に猿山じみたコミュニティが築かれる未来が予想される。ちいさなコミュニティ同士で価値を平等にやりとりするためには、統一された規格が必要だ。現状であっても貨幣が世界統一されているとは呼べないが、貨幣が世のなかから消え去れば、さらに細かくコミュニティ同士での価値観が分散し、乖離していくこととなる。コミュニティ同士の円滑剤として貨幣は必要なのだ。ただし、個々人の生活水準では、さほど必要とはならないのかもしれない。ゆえに、ここ数年、ベーシックインカム制度が一部で注目されているのだろう。ただし、ベーシックインカム制度は、適切な政府の介入がなければ、貧富の差を高める方向に働くのではないか、といま十秒くらい考えてみて、想像した。そのためにも、ベーシックインカムの財源を、富裕層から補充できれば、貧富の差が解消される方向に修正できるのではないか、とやはり十秒くらい考えて妄想するしだいだ。まとめれば、世界平和が実現するか否かにかかわらず、世のなかからお金をなくすことは、資本主義を基盤として構築されてきた現代社会では、秩序よりも混沌を引き起こすのではないか、と言えそうだ。もうすこし言えば、富裕層のみが、いっせいの、せいで、で蓄えているお金を手放せば済む話だ。わざわざ貧困層までお金の魔法を手放す必要はない。世のなかから危険をなくすために核兵器を手放そう、と国が宣言したからといって、我々個々人が刃物を手放す道理にはならない。マクロとミクロを混同して語るのは、どんな場合でも慎重になったほうがよい。ひと口にお金といっても、そこに内包される価値観や役割は多岐にわたるのだから、いちがいにすべてをなくそう、という主張は理屈としては無理が生じる。どちらかと言えば、最低限の豊かな生活の保障された社会であるならば、ある値以上にはお金持ちになれない、と規定してみるほうが、お金をなくすよりも現実的な案に思えるのだが、あなたはどう思いますか?


1614:【宣伝効果なし】
ツイッターはじめ、SNSをいろいろ利用しはじめた半年だったのですが、おとといからはじめたアマゾンキンドル電子書籍の無料キャンペーンのダウンロード数が、げんざい三日目にして、4冊です。これまでにも幾度か行ってきた無料キャンペーンですが、いまとなっては1冊もダウンロードされない作品も珍しくないです。この半年、とくに変化はありません。言ってしまえば、SNSを利用しても宣伝効果はほぼなかったという結論になります。もちろん、いくひしのSNSの利用の仕方があまり効率的ではない、というのもあるでしょう。目立ちたくないので、目立つようなやり方は避けています。バズりたくありません。ラインなどの、本当にプライベートな空間でのクチコミですこしずつ、本当に必要としている方に届けばいいなぁ、と思いながらやっています。誰もがひと目で解かるような数字としての人気はなくとも構いません。極論、いくひしが生きているあいだに読者へ届く必要もないと思っています。ただ、届いたら届いたで、うれしくは思います。つよがりに聞こえますか? まあ、つよがりでしょう。ただ、つよがるのは嫌いではありません。つよくなりたいので、つよがれるくらいがちょうどよいと思っています。つよがる必要のないような環境は、弱体化してしまうのではないか、と不安に思うほどです。工夫のしようのない環境にはいたくありません。とはいえ、工夫したいときにできない環境もノーセンキューなのであります。しょうじき、宣伝効果がないと判った時点で、SNSの利用はやめたほうが時間を無駄にせずに済むのですが、そこそこ楽しくやれているので、今年いっぱいはつづけてみようと思います。もっとほかの手法を試したりいろいろあーだこーだと試したほうがよいのでしょうけれど、しばらくはこのままの方針をつづけようと思います。ちなみにですが、無料キャンペーンで配布した作品がいくらダウンロードされようと、たくさん読まれようと、いくひしには一銭も入りません(アンミリ、つまり月額読み放題に加入されている方の場合は、読まれればいくひしにその分の収益がありますが、そもそもアンミリに入っている方なら、無料キャンペーンを利用する必要はないでしょう)。本当にタダで配っているだけなので、あいつの小説は好きだけど作者がなぁ、といくひしに得をさせたくないとお悩みの方は、ぜひぜひこの機会に入手してみてはいかがでしょう(なんて言っているけれど、読んでもらえたらそれだけでうれしい、いくひしまんでした)。


1615:【懐かしいは安心する】
今週は伊坂幸太郎さんの小説「陽気なギャングは三つ数えろ」を読んでいる。いくひしは、森博嗣さんで小説を読みはじめ、西尾維新さんで小説をつくりはじめ、伊坂幸太郎さんで、小説家になるぞ、となったので、いつ読んでも、伊坂幸太郎さんの小説は故郷みたいな懐かしさがある。懐かしい、は、言い換えたら、安心にちかい気がする。安心する。信頼できるひとの運転する自動車の後部座席で居眠りをするときみたいな安心があるし、田舎のおばぁちゃん家みたいな時間ののっぺりと伸びたのどかさがある。でもその安心がいまここにはない。だからひとはほっとするだけでなく、懐かしいと感じるのだ。物哀しさがどことなく漂う安心が、懐かしいなのかもしれない。ということは、いくひしが伊坂幸太郎さんの小説を読んで、懐かしい、と感じるのは、手放しで安心できない何かがあるからなのかもしれない。それはきっと、かつてはあって、いまはないものであり、同時に、かつてはなく、けれどいまはあるものによって失われ、或いは生じている喪失感なのかもしれない。ただあるがままに、おもしろかったー、とはなれない。ほっとするのと同時に、焦りにも似たがらんどうが、ぽっかりと胸のうちに広がる。単なるいち読者でいられたあいだには見えなかった、つむがれた文字の裏にある膨大な、知識の渦、アイディアの墓場のようなものが見え隠れする。ここまでしなければならないのか、と圧倒される。ひとつの物語を編むまでのあいだに錯綜する、無数のちいさな物語たちのその奥深さや、色調の豊かさに、ただただじぶんとの差を見せつけられる。懐かしくもほろにがい。これはきっと、敗北の味だ。歴然とした差を見せつけておきながら、伊坂幸太郎さんのつむぐ物語たちはそろいもそろってこう謳う。「勝ち負けではないよ。負けないこともだいじだけどね。それよりだいじなこともあるんだよ。なにかはよくわかんないけど」 とぼけた顔して厳しいことをおっしゃる。ひねくれ者のいくひしさんは、そんな言葉になぞまどわされんぞ、となんとか勝てる道を探すのである。「陽気なギャングは三つ数えろ」はまだ三分の一を読んだところなのに、もうすでに長編二冊を読み終えたくらいの物語の濃さを堪能している。おもしろい。商業作家はこれに勝たないとあかんのだなー。たいへんそ。他人事のように思いながら、いくひしだって負けないもんね、と固く決意をあらたにし、手にした「懐かしい」の本をだいじに枕元に置き、お布団に潜りんだままの態勢で、まずは名作をつむいだ夢でも見て英気を養おう、と企むのである。ねむねむ。つづきはまたあした。おやすみなさい。


1616:【見られていない】
以前はまいにちのように通っていた書店さんであったけど、さいきんは週にいちど行けばいいほうで、あまり寄らなくなった。なぜか。書店さんに足を踏み入れたらいくひしはまず、文庫本の新刊コーナーを覗き、つぎに新書コーナーを見て回り、漫画コーナーへと移り、BL漫画の棚を経由してから、会計があればカウンターへ行き、最後に単行本の新刊コーナーを眺めて出口へと向かう。単行本コーナーが最後なのは、買わないことが決定しているからだ。まずは買うつもりのあるものから見ていく。だから目当ての本があるときは、若干ルートは変わるものの、基本的には、文庫本→新書→漫画→会計→単行本→出口となる。で、ここ二年くらいのあいだに変わってきたなーと思うのが、文庫本(&単行本)の、こっち見てない率の高さだ。いくひしの世代の二つ上くらいをターゲットにしているとしか思えない表紙ばっかり並んでいる。いくひし世代はまず手に取らないだろうな、と思うタイトルに表紙が多くなった。いくひしより下のコたちなんか文庫本コーナーに寄りつかないんじゃないかと思えるほどだ。若いコ向けじゃなくなってきているのだ。お年を召した方しか本を買わなくなってきているのかもしれない。否、そんなことはない。なぜなら、若い子向けの文庫は、それ専用に、書店さんの奥のほう、漫画コーナーのはじに並んでいるからだ。明確に区切られている。でもいまにはじまったことではない。ライトノベルはライトノベルでまとめて陳列されているのは、何年も前からだ。しかし、その時代であっても、文庫本の新刊コーナーにはもっと、若い世代向けだとひと目で判るような、オシャレな表紙デザインの文庫本が並んでいた。いまはそれがなくなったのだ。ドラマ化されたものや、アニメ化されたものは、そういったパッケージで、やや若者向けにも見える表紙が起用されている傾向にあるけれども、メディアミックスされた小説や原作ものは、それはそれでまとめて陳列されている。二年くらい前までは大手の出版社はこぞって、若者向けを意識したパッケージで、ライトノベルではない一般書籍をだしていたのに、いまはずいぶん、ミドル(&シニア)層向けに重点を置いているなぁ、といった印象がある。よほど(若者に)売れないのだろう。だからといって、売りにださなくなるのはちがう気がする。一見しただけで、こっちを見てないなぁ、と判るようなラインナップでは、いくひしよりも本に馴染みのない層が、偶然そこを通りかかっても、本を手にとることはないだろう。機会損失とまでは言わないが、いくひしですら、文庫本の新刊コーナーはもう覗かなくてもいいかな、と思いはじめている。あなたたちに向けてはつくってないですから、と漫然と示されているようで、物寂しくなってしまう。買わないあなたたちがわるいんですよ、とまでは感じないけれども、もしそう思っている版元があるのなら、だって欲しい本がないんですもん、と言いたくなってしまうものの、もはやそう思う読者すら、いまはすっかり書店さんからは離れてしまっているのかもしれない。やはりというべきか、物寂しく感じる。それはそれとして、本屋さん、って蔑称なんですか? 書店さんよりも、本屋さんのほうがかわいくて好きなんですけど、書店さんじゃないと失礼になっちゃうのかな。本屋さんって言葉、いくひしは好きだなー。


1617:【サバ】
さいきんまんちゃんさー、若者の味方、みたいな書き方しがちだけど、あなた言うほど若くないでしょ。なに若者代表、みたいな顔してんの。読むのは本だけにしときなよ。


1618:【皮肉か?】
いくひしさんよぉ。表紙どうこう言ってるがよ、それぁ、なにかい。俺さまのつくった表紙が気に入らないってぇ、そう迂遠に言いたいのかい? 稚拙な表紙でわるかったなぁ。海外のひとでも手にとりたくなるようなデザインを、ってな無茶な注文だされたうえにタダ働きときたもんだ。や、いいけどね。それで損するのは俺じゃぁ、ねぇからよ。


1619:【えー】
マックご馳走したじゃん。てりやきばーがー。シェイクもつけたじゃん。


1620:【けっきょく】
上の世代への反発で、上下関係なんかクソ、自由に交流すりゃいいじゃん、とシェア至上主義でコミュニティを広げてきた若い世代が、やがてじぶんたちが上の世代と呼ばれるようになったときにとりはじめる姿勢が、じぶんたちのコミュニティに馴染まない者や、部外者を冷遇するような態度をとることをいさぎよしとする方向に固まりはじめて観測されるのは、皮肉と呼ぶにはできすぎている。けっきょくのところ、じぶんたちが嫌悪したやり方をじぶんたちでもやっていることに自覚的になるには、自由のつもりで、ただただ外部からの干渉を拒んで、生ぬるい環境に閉じこもっていたいとする弱い欲望を見詰めつづけることなくしては達成できないのかもしれない。弱さゆえに自由を求め、弱さゆえに変化をおそれる。五年もあれば若さをなくすには充分だ。若さに甘えてきた人生だ。これからは若さの特権を使わせる側でありたいものだ。しかしだとすると、一段下の世代へ、きみたちももう若くはないのだ、と諭す役目は誰が担うことになるのだろう? さらに下の世代から疎まれるほかに自覚する術はないのかもしれないが、少子高齢化である以上、より下の世代ほどあげる声はちいさくなる道理だ。歳の若い子ほどおとなしい子の多い印象もある。我がもの顔で下の世代をいちびるつもりなくしていちびっている比較的若い世代を見ていると、何かしなければならないのかもしれない、とひときわ歳をとったワガハイは焦燥感にも似た思いを抱くのだが、かといって歳を重ねただけのワガハイには、ワガハイよりも優れた下の世代へ何かを諭す真似などできようはずもないのである。ワガハイのような目上の者をまえにしても萎縮する必要はないのだ、と態度で示すほかに、できることはないのかもしれない。よくもわるくも対等でいたい。重ねた歳ほどには、何かが蓄積されたわけでも、磨かれたわけでもない。すり減らしつづけた人生だ。たいした者ではない。身の程を知り、ひとの邪魔にならぬように、時間の流れのはやい人々の動きに学び、育もう。上の世代のようにはなりたくない。ワガハイがそう思ってきたのと同じように、下のコたちからはワガハイがそう思われているのだろう。やはりというべきか、皮肉と呼ぶにはできすぎている。


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参照:いくひ誌。【771~780】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054884146983

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