※日々錆びついていくから磨きたくなる、沈んでいくから浮きあがりたくなる、流されるから踏ん張りたくなる、そうした振幅が人生という波を拡げていく。
871:【おはよう、いもうと】
森野萌さんのマンガ「おはよう、いばら姫6巻」を読みました。1~4巻はきょねんのうちに読んでしまっていて(5巻はことしの一月に読みました)、毎回新刊がでるたびにすぐに読んでいたのですが、今回のは最終巻ということもあり、7月(8月だったかも?)に購入してからずっと読まずに手元に置いたままでした。終わってほしくなくて、読むのに勇気がいる、そういう本がたまーに現れます。で、ようやく目を通すことができました。感想です。百点かよ~~~。もうね、百点満点です。よく言うよね、全部の要素が高得点のお利口さんの作品よりも、一点突破で何かが一つ突き抜けてる作品のほうがいいって。でもさ、でもさ、最初から最後までずーっと百点をキープするのだって、それはそれで一点突破というか、前人未到というか、なかなかできることじゃないっていうか、満点とるかー?みたいな驚きがありますよ。すごいですよ、百点満点ですよ。しかもこれ、連載作品として二つ目なんですか? デビューしてまだ二つ目の作品なんですか? とんでもない才能すぎますよ、みんな見た? 読んだ? 読んでない? 読めよ! 読んで! きれいなの。すっごいきれいなの。よく言うよね、作者の顔が見えない作品は魅力がないって。でもねでもね、「おはよう、いばら姫」はね、最初から最後まで作者の顔がぜんっぜん見えない。見えてこない。どんな人が描いてるのかまったく分からない。ううん、たぶんこんななんだろうなーってのはなんとなーくは伝わってくる、淡い幻想みたいな、こんなふわふわやさしいひとなんだろうなーってのは、なんとなーく伝わってくる。でもさ、それは飽くまで作中に出てくるキャラクターの総体であって、ぜったいに作者さん自身ではないわけ。なんだったら、それって「おはよう、いばら姫」のテーマそのものなわけ。こんだけ文字並べてみせてて今さらだけど、中身にまったく言及してないのね。そこはぜひともご自身の目で確かめてほしいわけですよ。読めばわかる、なんて感想は、感想のなかでも最弱、人体錬成並に禁術なわけなのですが、それでも人生のなかでたった一度だけ使っていいって言うなら、いくひし、「おはよう、いばら姫」にささげますわ。言ってもすでに、「プリマックス」で使っちゃってるんだけど。ご愛嬌。ルールを破ってでも褒めちぎりたい物語ってぇのがこの世にゃあるんですよ。出会っちゃうんですよ。そうそう、忘れちゃいけない、なかでもいくひしイチオシのキャラクターはなんといってもミレイさんですね。すごいことですよこれ。メインじゃないの。メインじゃないのにメインなんですよ。これは彼女の物語だと言っていいわけですよ。「おはよう、いばら姫」のいばら姫とは、誰なんだって話なんですよ。彼女なんですよ。入れ子状に物語が構成されている。いくひしが大好物なやつですよ。はひゃーってなるやつ。めちゃくちゃ中身に言及しちゃってますけど、だいじょうぶですかね。いくひしの頭はコケコッコーなのかな? 苔でもむしているのかな? 心配です。なんかいつもより熱量こめこめの感想になってしまいましたが、なんでじゃろ? 妙に心に染みこんでくるふしぎな作品です。森野萌さん。アルプス山脈の雪解け水も真っ青の澄んだ物語をつむぐすごいひとです。はーい。つづけてまいりましょう。ハルミチヒロさん著の「あに、いもうと」です。いきなり話が脱線しますけどいいですか? ほかの作品と比べてあーだこーだと書評めいたことを書く手法って、いくひしのなかでは邪道なんですよね。だってそれって比べることができた時点で、その程度の作品だって暗に言っちゃってるわけじゃないですか。どんな作者だって、心の底では、唯一無二の自分だけの作品をつくりたいって思ってるんですよ、その人が真実に表現者であるならばそこは譲れない、譲っちゃならない本能なんですよ。だからほかの作品と比べてあーだこーだってのはなるべくいくひしは言いたくない。でも言わざるを得ないときもあって、それはなんだっていうと、「ここの玉座、空いてますよ!」ってとき。「ここの王さま倒せますよ!」てとき。なんだったら「魔王を倒せるのはきみだ!」みたいなね。勇者を名指ししたいときは、いくひし、ほかの作者さんや作品と並べて、晒して、比べてやんよってな具合で、このネタわかる? わかりにくかった? ごめんね。で、くずしろさんって漫画家さん、ご存じですか? ご存じの方も、知ってる知ってるーって方も、これから知っていくよーって方も、どうでもいいよーって方も、ぜひ知っていってほしいのですが、百合界の邪道姫なわけですよ。くずしろさんは。ライトノベル界の貴公子邪道王こと西尾維新さんと対に置きたいくらいの才能の塊でして、さいきんだと「兄の嫁と暮らしています。」が百合百合~って、胸がうにうにーって裂けてしまいそうなほど発酵しちゃうんですけど、百合だけでなく、男女ものの作品も多く手掛けていらして、そっちはまだいくひし、読んでないんですけど、「鳥獏先輩なに賭ける?」や「千早さんはそのままでいい」は近日中にいくひしの手元に揃っていることでしょう。きょう書店さんで見かけたからね。で、何が言いたいんだっけ? そうそう。邪道姫のくずしろさんなんですけど、じつは西尾維新さんと同じくらい、じつは王道の物語を貫いておりまして、一見邪道なのに誰より王道っていう点で、おふたりは本当にお似合いの王と姫でごわす。そこにきて、はい。ようやく話が一周したよー、長かった? ごめんごめん。ハルミチヒロさんの「あに、いもうと」ですよ。いいですかー、ついてきてよー。短編集なんですがね、これがまた邪道でありつつ王道でして。いや、どっちかというと、邪道よりの王道って感じで、そこは王や姫ほどわかりにくくはない。あまのじゃくでない。すなお。いいこ。思わず愛でてあげたくなる思春期女子みたいな愛嬌があるんですよ。このままいくと、邪道王や邪道姫に並ぶ魔王や魔女に育ちそうな頭角が見え隠れしてる。見えない? なんか頭のうえに、ほら。ツノとか生えてそうじゃない? まったく中身に触れなくて逆に不安だよ、褒めてねーよって思われるかもしれないけれども、いいかい。中身のここがステキなんですよー、なんて具体的ないいところを挙げつらねていく時点で、ポコポコ挙げつらねることができる時点で、その魅力なんて高が知れているんですよ。なんかわかんないけど、いいの。このひとがいいの! そういう想い以上に説得力のある想いがあるのかい? せいぜい具体的に言えるのなんて、興味を持ったきっかけとか、好意が加速するきっかけになった思い出とか、その程度のことであって、羅列していくほど、そのものの魅力の本質からは遠ざかっていく。天邪鬼なんですよ、世界ってぇやつは。そこにきて、どうよ、「あに、いもうと」の素直さは。思春期女子じみたひねくれ具合こそあれど、却って解りやすくてかわいいぜ。ハルミチヒロさんもまた単行本は二冊目であるらしく、つぎの新作が待ち遠しい、2017年11月08日のいくひしまんでした。とくにオチがないのは、ご愛嬌。
872:【値段】
いくひしは商品を無料で提供することが良いことともわることとも思わない。商品を作品と言い換えても同じだ。好きにしたらいいと思う。でもならどうしていくひしは無料提供を基本念頭に置いているのか。どっちでもいいなら、まずは経済の仕組みに従えばいいんじゃないの、と思われる方もいらっしゃるかもしれない。しかし、それは誤解である。いくひしは誰より強欲であり、がめついので、じぶんの生みだすあらゆるものに、誰より高値をつけている。聞いたことはあるだろい? タダより高いものはないのだよ。いちばん高い値段をいつだっていくひしはつけている、虚構を生業とする詐欺師としてはなかなかじゃろ?
873:【よく解らないのはなぜですか?】
作品の批評で、「よくわからない、頭がわるいならわるいなりに、もっとほかにできる表現があっただろう」みたいな指摘を読むことがある(具体例は一つしか挙げられないけれど。とあるミステリィ作家のツイターなのだけれども)。自分がその作品を理解できないからといって、なぜ作品のほうを「頭がわるい」と評価できるのだろう。頭のよしあしとは常に、観測対象をどのくらいの深度で理解できるか、紐解けるか否かにあると言える。観測した結果よくわからないのならば、頭がわるいのは観測対象のほうではなく観測者なのではないですか?(ピカソの絵を見て「よく解らない」となっても、ピカソの頭がわるい、だなんて思いませんよね? 猫の行動が理解できないのは、猫の頭がわるいからですか? 粒子の挙動を予測できないのは、粒子に流れる法則がお粗末だから、なのでしょうか。たとえ観測対象がお粗末だったとしても、なぜお粗末なのか、どういう構造なのかを理解できていなければ、観測者もまた同じかそれ以下の「頭のわるさ」だと判断されても致し方ないのでは?)(ちなみにいくひしは、その批評の対象となったコンテンツを鑑賞しても、おもしろい、とはならなかったひとです)
874:【目に毒】
ツイター眺めるの控えよ。「なんだおめぇ、つぶすぞ」としか思えなくなってくる。それはべつにいいんだけれども、たぶんいくひしもそう思われちゃうんだろうなぁって想像するとピヨピヨ。
875:【棚替え】
いきつけの書店さんに寄ったら、本棚が整理されてた。きのうと置き方がちがう。せっかく見繕った「くずしろ」さんのマンガを見失った。予告してほしかった。あした本を移動しますよーって予告してほしかった! もうね、なんかすっごい見やすくなってる。うれしい。ありがとー! なんだったらさいきん、いくひしがBLよくご購入するからか、これオススメダヨーってやつが表紙見えるように置かれてて、ヨネダコウさんのもそれで手に取って、お持ちかえりしたわけなんだけど、ひょっとしてこういうのって店員さんの好みとか反映されてるんですかね。単なる「このBLがスゴい」ランキングみたいなやつを並べてるだけなんですかね。なんだっていいけど、本が探しやすくなってる。ありがてぇ。あと、気のせいかもしれないけど、レジに並ぶときに、店員さん笑ってない? 気にしすぎ? 自意識過剰? でも明らかにコレあだ名ついてるパテーンじゃない? ヤダよ。リュックサックぱんぱんヤローとかあだ名ついてたらやだよ。着替えが入ってんだよ。パンパンになっちゃうんだよ。しょうがないだろコノー。ちょっとさいきんこころが荒んでいるまんちゃんなのでした。
875:【フリ】
こんなんキャラに決まってんだろ。フリだよフリ。俺がこんなクズみてぇな性格してるわきゃねーだろ。クズじゃねぇんだよ。クソカスだよ。舐めんじゃねぇよ。舌が腐っても知らねぇぞコラ。
876:【××封波】
はーい、わかったわかった。じゃまずはこっちきてねー、はいそこそこ。ストップ。よくできましたーいいこですねー。じゃ、いまからちょこーっとだけガマンですよー? はーい。うごかないでねー。そのインスタントコーヒーの瓶、倒しちゃダメだよー? 失敗したらイタイイタイだからねー? はーい。いきますよー、ひょーい。××封波ーーー!!! はぁはぁ。やった。成功、成功。やつはもういなくなりましたよーっと。お騒がせしちゃってごめんねー。うるさかったよね。わたしもなんか、握りこぶしギューってつくっちゃったくらいだからね。たまーにね。たまーにああいうのも出てきちゃうから、こうしてインスタントコーヒーの瓶に詰めておくといいよ。やり方見てたでしょ? またいたらしてみたらいいよ。かんたん、かんたん。えーいってして、やーってするだけ。だいじょうぶだいじょうぶ。あ、コーヒー淹れるね。あは、やだなー。インスタントじゃないよ、ケーキもあるよ。食べてくでしょ? いいよ、いいよ、座ってて。できたら呼ぶから。くつろいでて。え? なに? いままで封じてきた「××」がどこにあるかって? 見たいの? ヘンなこー。いいよ、こっちきて。そ、この下。足元気をつけてね。ふー、ちょっとかび臭いね。たくさんあるでしょ。欲しいのあったら持ってっていいよ好きなやつ。いらない? コワイって、あはは。マンがイチ出てきちゃっても、だいじょうぶだよ。えーいってして、やーだからね。あ、お湯沸いてる。好きに見てて。いま持ってくるから。ん? どったの、リップなんて取りだして。なんで床に置くの? その突きだした手はなに? やだやだ、かんにーーーーん。最後に耳にしたのは、××封波と唱える彼女の声だった。
877:【ワイルドスピード】
ヴィン・ディーゼル主演の映画「ワイルドスピード・ICE BREAK」を観た。シリーズ8作目になるらしいのだけれども、いくひしは第7作目しか観たことがなく、あんまり注目している映画ではなかった。けれども今回の最新作は、三つのストーリーが同時に進行して、まったく退屈する隙を見せつけない、目の離せない作品となっている。要約すると、世界征服を企む天才プログラマと、それに脅されて利用される主人公、そしてそんな彼を「敵」として追う仲間たちの物語だ。小道具の使い方が秀逸で、すべてが三つの線を結ぶ「交差点」になっていながらに、重要な伏線にもなっている。すごいぞ。ゆいいつの欠点は、天才プログラマの詰めの甘さだ。自動車の運転システムを遠隔して操れる技術があるのに、追手である「主人公の仲間たち」の車は好きに運転させていたり、テリトリー内にある発信器に気づけなかったりと、最先端電子機器を扱う天才プログラマにしてはあまりに間抜けな隙の付け入りどころを残している。とはいえ、重箱の隅を楊枝でほじくるような指摘であることに異存はない。完璧すぎる敵は倒しようがなく、ドラマとして成立しないので致し方ないといえる。とはいえ、欠点を遥かに上回る構成の妙には、エンターテインメントの教材にしたいくらいの技術がごろごろ転がっている。お手本にしたい。すばらしい。予想外なことは何一つとして起こらなかったが、それでもこちらの期待通りに、かつ、期待以上の演出で見せつけてくれる。プロの仕事だなぁ、と口がぽかーんと開いたきり塞がらない(誇張です)。シリーズを通して観ていないと分からない箇所も若干あったような気がするけれども、知らなくともまったく問題ない、シリーズ最新作としてこれ以上ないほどの映画だったのではないかな、とたいへん満足しているいくひしなのであった。
878:【無視と黙殺】
案外に知られていないが、称賛や批判を浴びるよりも、無視されたり黙殺される表現のほうが、じつはずっと観測者の内部に染みついている。褒めたり貶したりするよりも、見て見ぬふりをすることのほうがずっと意思のちからを必要とするからだ。見ないにようにするためには、見ていること、或いはそれを見たことをつよく意識しなければならない。忘れようとすればするほどその記憶を強固なものにしていく性質が人間にはある。だがその営みそのものは意識されない。刻まれるのではなく、染みつくからだ。痛みや快感が伴わないために自力でそれに気づくのは至難となる。他者という鏡を通して、自身を省みるほかない。他人が「それ」を称賛したり批判しはじめたりすることで、ようやく自身に染みついている「それ」に気づくことができる。もしあなたが何かしらの表現を発信し、それが確かに誰かの目に留まっているにも拘わらず、なんの反響もないのだとしたら、そこで歩みを止めてはならない。称賛や批判がすぐに返ってくるようなものに、時代の壁を乗り越えられるだけの強度はない。無視されるようなものを、黙殺されても歩みを止めないだけの理想を、描き、追い求めよう。知らぬ間に握らされていた「他者の理想」を手放すことは、無視とはまた別物である。
879:【873の補足】
創作物や表現を感受した結果に、「よく解らない」「つまらない」「お粗末だ」と言う分にはなんの問題もないし、それは個人の自由だと思う。ただし、「よく解らなかった」と言いながら、「これは頭がわるい、頭がわるいならわるいならでどうたらこうたら」と文句を垂れるのは、それこそお粗末だろう、と言いたいのだ。とくにそれを発信したのが、プロとして活躍している、いわゆる業界人だと、失望する。おまえのつくっている創作物はさぞかし頭がいいんだろうな、と言いたくなる。直接言わないいくひしは偉いと思う(べつに偉くはない)。(※褒め言葉としての「頭がわるい」というのもあるので、一概には言えないが、明らかに褒め言葉ではなかったので、腹が立ちました、という愚痴でした。かってに覗いて、かってに立腹してたら世話ないね。いーだ)
880:【未知との遭遇】
未知や理解不能なものと遭遇したとき、どのような感情を抱いてもそれは当人の自由である。ただし、「つまらない」「解らない」と思うのは自分だが、「頭がわるい」「稚拙」「くだらない」のはいくらそう思ったのが自分であっても、相手へのレッテル貼り(偏見)になる(むろん、思うだけなら偏見を抱くのも自由だが)。未知や理解不能なものに遭遇したときに、自分より相手のほうがレベルが下だと判断する。劣等だと比較する。これはあらゆる差別の根幹をなしている。知性を尊び、理性の高尚さを謳う者が、知性や理性に反する言動をとることがある。目にするたびに、自己矛盾に気づいてほしい、と願いたくなる。もっとも、いくひしはべつに知性や理性を重んじたり敬ったりしていないので、いくらでも知性や理性ある事物をばかにするけどね。だってばかでいられるほうがむつかしいんだよ。ばかなのにときどき賢くなったりするから、こんなふうに不愉快な文章を並べちゃうのだ。はんせい、はんせい。もっとおろかで、ばかになろーっと。(※いくひしのつむいだ物語を読んで、「なんじゃこりゃ意味分からん」ってなっても、それはいくひしが頭わるくて、拙くて、ごめんなさいなだけだから、誰がなんと言ったってあなたが頭わるくて、拙くて、ごめんなさいなんてことにはならないから、そこだけは誤解しちゃダメだよ。やくそくだよ)
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参照:いくひ誌。【771~780】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054884146983