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純文学と大衆文学の違い

頭が悪いので、この違いが未だにわからないままです。

特に自分が書いている作品は、どちらに属するのだろうと、常に頭を悩ませてます。

結局は自分では判断がつかなくて、「ヒューマンドラマ」としか称していないのですが。



拙作を読んで頂いた方にお聞きしたいのですが、「東雲そわ」が書いている作品は、どちらに属すると思いますか?

作品によって色が違うので一律で評することは難しかも知れませんので、断定できる作品についてのみでも構いません。「これは純文学!」「こっちは大衆文学!」みたいにざっくりとした印象でも構いませんので、ご教示頂けたら、とても助かります。

6件のコメント

  •  最近は境界が曖昧なようです。
     一般的に純文学は芸術性、大衆文芸はエンタメ性と言われているようです。

     また対象読者によっても違うとか。
     純文学は自己の世界の表現であり、大衆文芸は他社を喜ばせるたもの作品。

     だから純文学であっても大衆文芸のになり得るし、大衆文芸も芸術性が高ければ純文学とみなされるかもしれません。

     では、芸術性とは何か?
     知りません(笑)

     なんの役にも立てずごめんなさい(汗)
  • これ、本当にわかりませんね。
    なんなら、ライト文芸とライトノベルもよくわからないし……
    それでも、Wikiでの「純文学論争」の項目を読むと、やや興味深いことが書いてあります。曰く、「純文学はそれを称する者の特権であり、既得権益である」と。純文学を志さない素人は口を出すなという、一昔前のオタク議論に近いものがありますね。
    自分も上の方の考えに一票、カテゴリー分けすること自体あまり意味のないものなのかもしれません。ただ、「自分の作品は純文学です!」と言い切るのは、ちょっと痛い気がします。
    それでも東雲そわ様の作品をあえて分類するならば、「宵の中」が純文学的ですかね。純文学、詩に近いものではないかと勝手に考えています。
  • 昔の文豪の書く文体のみが純文学だとしたら、現代の若い女性が話すシーンとそういった文体との親和性がなさすぎて、現代ベースの純文学って書けないよなー、なんて事を思ったりします。

    東雲そわさんの、たとえばnon-sugarは、読後感とか没入感が純文学だと私は感じますが、文体はとても自然でやわらかいですから、純文学ではないという読者もいるでしょうね。

    それを思うと、作者が『これは純文学です』と言うのは難しいのかな、なんて思いますね。

    あとはそうですね。私は私の書いたモノを読み直して『純文学からは程遠いな』と思うことがしばしばなんですが、そんな目線で『これはエンタメ小説からは程遠いな』と思うものに対して『と、いうことは純文学?』と逆説的に思う事もあります。

    エンタメに重きを置いておらず、見せるのは【人】と【風景、情景】の美しさで、物語の展開よりも登場人物の心の機微で読者を引き込むのが純文学なのかな、なんて事も思います。

    どうなんでしょうね。難しい問題ですよね。
  • 難しい話ですねー。
    純文学タグをつけるときは、自分の中でテーマ性が強いときにつけてますかね。文体とかは関係なく。
    真花さんの近況に共感した覚えがあります。
    https://kakuyomu.jp/users/kawapsyc/news/16817330660192006619
  • おこがましくも、回答いたします。

    >「東雲そわ」が書いている作品は、どちらに属すると思いますか?

    純文学だと私は思います。
    これまでに何作か拝読していましたが、質問にお答えするために更に「棘」と「宵の中」に目を通させていただきました。
    (今はPVが増えているだけだと思います。ご勘弁くださいw)

    「棘」がわかりやすいかもしれません。引用させてください。

    >肉を切っていたナイフが鉄板を擦り、不快に音を鳴らす。

    主人公が不快な音を鳴らしたのは少々動揺したからであって、動揺したのにも理由があって、でもいちいち書かない。
    もし作者が自分だったとしても、多少の差異はあれ、おそらく似たような感じで1行書いていたと思います。
    少なくとも数行に渡って書くことはないかなと。
    しかし主人公が異世界ファンタジー長編「ジジイ~」のヴィルフリートだったら
    「◯◯に動揺したヴィルフリートの左手のナイフの先が、鉄板の上に乗せられている熱々の鶏肉から滑って不快な音を立てた。隣の席のクリストフは少々迷惑そうな表情を見せたが、その口から文句は出てこない」(ヴィルフリートは左利き)
    などと書いていたかなと。
    状況にもよりますが、異世界の「ジジイ~」ではなるべく場をわかりやすく書こうとしていたので。
    あと、設定の差もありますよね。
    私は、現実にはありえない登場人物の描写に深みを出すために、「ジジイ~」の設定をばっちり作ったので。
    でも純文学作品では、主人公の利き手がどちらかというのはストーリーに絡まないなら書く必要はありません。
    場の雰囲気なども、「ナイフが鉄板を擦り、不快に音を鳴らす」だけで読み取ることができます。
    行間で登場人物の心理を読む、前後の繋がりから状況を読む、という感じでしょうか。

    本当に、大衆文学と純文学の違いって難しいです。
    前に自分の近況ノートに書いたことがあるので詳細は省きますが、同じ作者でも純文学風の作品と大衆文学風の作品があります。
    谷崎潤一郎を、純文学度80%という人もいるくらい。
    その人にとっては、谷崎潤一郎の20%は大衆文学なんですね。
    そして、児童文学の中にも純文学風の作品があったりします。
    (国松俊英著の児童文学「おかしな金曜日」とか)
    例え話ばかりで恐縮ですが、もし説話集と言われる柳田国男の「遠野物語」の中の一話に肉付けをして、もしくは削ぎ落として純文学風に書いたら、それは純文学になりえるのではないでしょうか。
    もし和風ファンタジー風に書いたら、大衆文学に。
    結局、作者の意図する「◯◯風」でしかないと、私は思います。
    で、前の話に戻りますが、東雲そわ様の作品については、大衆文学風にしようという意図が、私の目には見えないということになります。

    そして、ここで更にややこしくするのが、読み手の意識です。
    三島由紀夫の「潮騒」なんか、中学生が読んだらただのエロ小説なんです。
    中学生の頃、私の友人がそう言ってたんですよね。
    なお、その友人は村上春樹の「ノルウェイの森」についても同じくエロ小説だと言っていました。
    村上春樹は純文学の代表みたいに言われてるのにw
    こんなに曖昧なら、ある程度「◯◯風」という形になっている作品についてはもう作者が決めてよくね?と思って、私は最近開き直りました。
    ちょっと前までは、これ純文学って言っていいのかなぁ……などとグズグズやってましたがw

    「純文学か大衆文学か」については、調べれば調べるほど、考えれば考えるほど、個人の感覚でいいのかなと、私は思います。
    あくまでも、私は、なので、うっすらほんのり参考にしてみてくださいませ。
    生意気なことを長く書いてしまいました。すみませんでした。
  • >皆様へ
    貴重な時間を費やしてまでお付き合い頂けたこと、心より感謝申し上げます。
    口に出してはいけない話題を持ち出してしまったかと戦々恐々としていましたが、様々な考え方を拝見した今は、皆様の意見のどれをとっても正解のような気がしています。

    まだ自分の作品に対して戸惑う部分はありますが、一つの指針のようなものはできたように思います。
    今後はそれを意識して、様々な作品に挑戦していきたいと思います。

    コメント頂いた皆様、本当にありがとうございました!
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