雨音が、冷たい牢の壁を伝って響いていた。
クロは学習室の片隅に座り、本のページをめくる。紙の感触は粗末で、インクの匂いが鼻をついた。それでも、彼にとって文字はこの世界を理解する手がかりだった。
「クロくん、夕飯の時間だよ」
ドアの隙間から、青い髪の少女――リーナが顔を覗かせる。
「ああ。すぐ行く」
本を閉じると、かすかに溜め息がこぼれた。リーナの明るい声が、静かな世界に小さな風を吹き込んでくれる。それが、どれほど救いになっているか――彼女は気づいていないだろう。
食堂では、奴隷たちが木製のテーブルに無言で向かい合っていた。クロもその一角に腰を下ろす。出されたのは、薄いスープと硬いパンだけ。けれど、誰も文句は言わなかった。言うだけ無駄だと、皆が知っているから。
「……味、落ちたな」
誰かがぽつりと呟く。
「それでも飯が出るだけマシさ」
金髪の少年――レオンが、口角を少しだけ上げて返した。年のわりに達観した目。けれどその奥に、熱があった。
「今夜だ」
彼がクロにだけ聞こえるように、低く囁いた。
クロはスプーンを止め、ゆっくりと顔を上げる。
「……本気なのか?」
「当然だ。今逃げなきゃ、一生ここで腐る」
レオンの声には揺らぎがなかった。その覚悟に、クロは息を呑む。
彼は考える。逃げることの意味を。自由とは何かを。
リーナの笑顔が脳裏に浮かぶ。あの無垢な笑顔を、檻の中に閉じ込めたくない。けれど、自分は――どうだ?
「……手伝う。ただし、俺の判断で動く」
「構わない。仲間は多い方がいい」
ふたりの間に、言葉以上の了解が交わされる。
その夜、クロは枕元に置かれた小さな包みを開いた。中には、針のような鉄の細工と、紙くずのような地図。
“奴隷紋”――それは、奴隷の身体に刻まれる魔術的な拘束印。逃げれば反応し、捕らえられれば罰せられる。
だがレオンは言った。紋を“偽装”する術があると。わずかな時間だけでも、監視の目をごまかす方法が。
本当にそんなことが可能なのか? クロの中で、半信半疑のまま疑念が渦を巻く。
それでも、心の奥で何かがささやいていた。
このままじゃ、終われない。
そして、夜は静かに更けていく。