時はアリス達が魔大陸に辿り着く半月前まで遡る。
「すまん!!」
アルマ王国の貴族が駐在する要塞都市エルハームの宿舎。
魔大陸の入口とも言えるその場所で、シャロンの兄バロックは深々と頭を下げていた。
「大将ぉ、やめて下さいよ」
少女に見間違える程美しい少年は困ったように剣の柄を撫でた。
「阿保ぅが…」
バロックの弟のレインは煙草に火を点けながら窓の向こうを眺める。
それというのも魔大陸に着いて早々に東の樹海への進軍を告げられたからだ。
進軍と言えば聞こえが良いが、荷物持ちの兵士を含めて10名程しかいない。
そして、実際に戦えるのは彼ら3名のみだ。
「予想できた事だ…俺達は疎まれすぎてる」
ノース男爵家。
かつて王国の北部を支配していたノース侯爵家から男爵家へと堕ちた家柄。
その領土はいくつかの伯爵家へと分割されたが、未だにこの地をまとめる侯爵家が現れていない。
それは遠い昔の王家の意向だったかもしれないが、今では小さな火種に成りつつあった。
「どこかの貴族が担ぎ出す前に消えてもらおうという魂胆さ」
レインが皮肉げに口元を歪めた。
「俺はそんな事ッ!」
「ああ、あんたはそれで良い」
レインは紫煙を吐きながら目を細める。
「どうするんですか?」
ソラはどうでも良さそうに問いかける。
彼にとって答えは単純だからだ。
バロックの行く手を阻む者を斬る。
それが魔物でも人でも大した違いはないのだ。
「行くさ。先に陣取ればデカい顔ができる」
レインは紫煙を燻らせると静かに続ける。
「この命令も伯爵様の独断だろう?俺達が辿り着くとは思ってないのさ」
「なら、決まりですね」
「おまえ達…」
「これはチャンスだ。あんたは堂々と進めば良い」
「…ああ」
バロックは強く頷く。
「意志の剣、試し斬りが楽しみですねぇ」
ソラは赤黒い長剣を指でなぞる。
「余計な難題を増やされる前に出るぞ」
こうして三人は兵士を集めると僅かな手勢で要塞都市を発ち東の樹海へと旅立つ。
隣接された名もなき街を抜け、丘の上に立つと遠く見える景色を眺めた。
「凄まじいな」
「神々の境界線と呼ばれてるらしい」
「あはは、ワクワクしますね」
山々の遥かなたに聳え立つ漆黒の絶壁。
その異様な景色に兵士達も息を呑み言葉が出ないようだった。
そして、眼下に広がるスラム街の大通りを抜ければ人の営みとは全く異なる景色が広がる。
「…こんな所まで来ちゃいましたね」
魔物の群れの気配を誰よりも早く察知したソラは遠い昔を思い出していた。
彼の生まれは交易都市ガレオンのスラム街だった。
遠い昔に兵士街と呼ばれた巨大な住宅街の奥地はやがて手入れされる事もなく迷宮のようなスラム街へと変貌を遂げていた。
幼い彼は誰の助けもなく己の出自すら知る事もなくその日を生きていた。
…親がいないなんて当たり前だったからなぁ。
——おい、これ食うか?
そんな日常に光が差し込んだのは9歳の頃だ。
飢えている彼に差し伸べられた手は大きく優しかったのを覚えている。
——今日から俺がおまえらの大将だ!
スラム街の孤児を集めて日の当たる場所に連れ出した男は小さな男爵家の嫡男だった。
その男は日々を生きる事に精一杯な孤児達に仕事を探してきた。
——頼む!こいつを雇ってくれ!
小さいとは言えその地を治める男爵家。
そして、ソラには天賦の才があった。
…はは、大将に拾ってもらわなかったら死んでたよなぁ。
あの時、差し出された手。
初めて人の暖かさに触れたのだ。
「…大将、魔物の群れですよ」
「おう!」
あの時の男が今もソラに笑いかけている。
…だから、
「はははッ」
邪魔するやつは…死んじゃいな。
ソラは単騎で魔物の群れへと駆け出した。