月明かりが照らす国民街の一角。
路上では吟遊詩人が楽器を奏で、それに合わせて踊り子が舞っている。
人々は酒を酌み交わしながら一夜限りの夢のような時間を謳歌していた。
そんな喧騒の中に白い煉瓦造りの酒場が目に入る。
「…獣人の宴ね」
店に掲げられた看板を見上げ、扉に手をかけた。
僅かに開いた扉からカランコロンと来客を告げる音色が響く。
カウンターでグラスを磨いていた少女が驚いたように目を見開くが、すぐさま歓迎するように微笑んだ。
その特徴的な耳は獣人である事を示している。
茶色がかった髪は切り揃えられてはいたが、僅かに段を作って跳ねているのが特徴的だ。
「…よう」
数多くの言葉が浮かんでいた。
無数の会話の切り口が浮かんでいた。
だが、その姿を見た瞬間に全てが頭から抜け落ちた。
だから、いつも交わしていた挨拶だけがこぼれ落ちたのだ。
「…珍しいですね、何ヶ月ぶりなのですか?」
一番奥の指定席に座る私にルルが葡萄酒を差し出す。
そして、小さく微笑んだ。
「…さあな」
グラスの中で溶け始めた氷を眺めながら返すと、口を付けた。
「…あなた誰なのです?」
冷たい言葉にグラスを持つ手が止まる。
「…なんの冗談だ?」
顔を上げれば、ルルが怪しむようにこちらを覗いていた。
「名無しさんは昨日も店に来ました」
「…そうか」
こいつは昔から勘が良かったんだよな。
俺が誰か…か。
「でも、今のあなたはルルの知ってる名無しさんじゃないのです」
「…そうか」
二百年経っているんだよ…。
そりゃ、変わるだろ…。
「今の俺はどう違うんだ?」
「…名無しさんはそんな悲しそうな顔はしないのです。いつもバカみたいに自信に溢れてるのです」
「はは、馬鹿みたいか」
その言葉を聞いて自然と肩の力が抜けた。
「なあ、ルル。二百年後の未来から来たって言ったら信じるか?」
「…バカなんですか?」
「だよな…」
俺だってあり得ないとは思うさ。
でもな、ルル。
おまえは俺が違うって言ったんだよ。
「やっぱり名無しさんなのです」
「なんだよ、そりゃ」
そう言って微笑むルルの表情を見て笑みが溢れる。
「二百年後の名無しさんは何をしてるんです?」
「信じてないんだろ?」
「酔っぱらいの話を聞くのが酒場なのです」
そう言うとルルはグラスに酒を注ぎ始める。
「飲んだら仕事にならないだろ」
こいつは酔いやすいうえに酒癖が悪いのだ。
「今日はもう閉店にするから良いのです」
酒を一口飲むと彼女は店外に出て、閉店の看板に反転させて戻ってきた。
それを見てため息を吐く。
「魔大陸を冒険していたよ。竜種なんていう化け物とも戦ったんだぜ」
「魔大陸?ああ、くーちゃんの故郷ですね」
「あいつは先に旅立ったけどな…」
「一緒じゃないんですね」
「……」
答えられないでいる俺を見透かすように彼女は微笑む。
「ルルも一緒じゃないんですね…」
「ああ、一緒に行きたかったな」
「嫌なのです」
頬杖をつきこちらへ笑みを向ける。
少し頬が朱に染まっているのは酔いが回っているのだろう。
「名無しさんが化け物なんて言うなら、ルルは簡単に死んじゃいます」
「…守るさ」
顔を歪めたのが楽しいのか、ルルの頬はますます紅潮してゆく。
「そんな事言うなんて…やっぱり変です」
「…そうだな」
沈黙を誤魔化すように二人のグラスに酒が注がれる。
「ルルのお店はどうなってましたか?」
「はは、庶民お断りの高級店で繁盛してたよ」
「うーん、ルルのイメージと違うのです」
グラスを口に運ぶルルを見て、同じように口へ運ぶ。
「ルルは死んじゃったのですねぇ」
「……」
悲しんだ様子でもなく、ただ淡々と事実を確認するように彼女は口にする。
「名無しさんは一人ぼっちですかぁ」
「もう酔ってるだろ…」
彼女は俺の頭を雑に撫でる。
「…やめろって」
だが、その手が止まる事はない。
「ルルはここにいますよぉ」
…やめろって。
弱い心が頬を濡らした。