——そなた、遅かったではないか
金色の瞳が白銀と共に風に踊る。
その整った顔に微笑を浮かべると、頬を膨らませた。
その懐かしい立ち姿に、言葉が出なかった。
脳内でプツリと集中力が途絶えてしまった様に何も考えられない。
ただ目の前にいる存在を夢でも見ているように見つめ続けていた。
「どうしたのだ?」
「…クリス?」
ようやく出てきた乾いた声に彼女は首を僅かに傾る。
「なんだ?」
そんな当たり前の言葉にさえ答える事ができなかった。
ただ、
「…そなた、何があったのだ?」
涙が頬を伝い、静かに顎からこぼれ落ちる。
堰を切ったように湧き上がる何かを抑え込むことはできなかった。
目の前の君が驚いている姿が歪んでいく。
「……」
私の髪を撫でた懐かしい温もりが更に心を搔き乱す。
「いえ、悪い夢を見ていたようです」
手のひらで情けない顔を隠しながら、何とか言葉を絞り出す。
「…そうか」
見せた事のない心の弱さ。
クリスはただ心配するように視線を向けている。
「…遅かったとはなんですか?」
深呼吸と共に涙を止め、どうにか笑みを浮かべて尋ねた。
「そなたの記憶力には呆れるな。学院に通いたいと言っていたであろう」
「…学院?」
「そなたに合わせて、こんな昼間にしたのだぞ?」
本当に覚えていないのか?とクリスは困ったように眉尻を下げる。
私はその懐かしいやり取りに過去の記憶が急速に巻き戻るのを感じていた。
「…新しい本が読みたい」
「まさか忘れていたわけではあるまいな?」
呆れるように溜息をつくと、先導するように彼女は歩き出す。
「そんな事もありましたね…」
クリスに並んで私も歩みを進める。
懐かしい街並みを横目で見ながら、彼女の横顔を瞳に焼き付けていた。
私達に追従する者はいない。
行き交う人々は女王陛下の見慣れた奇行に反応する事もなく通り過ぎる。
全てが懐かしい光景だ。
そして、失われた光景だ。
失くしてしまった過去なのだ。
それがなぜ…。
「私の顔に何かついているのか?」
「いえ…」
だが、それを確かめる事を躊躇う。
だから、曖昧な返事をしてその光景を目に焼き付けていた。
「…今日のそなたは本当に何かおかしいな」
「…夢を見ていたんですよ」
「悪い夢か?」
「ええ、まだ夢の中じゃないかと思う程度にはね」
本当に今何を見ているのかすら理解できない。
ただ彼女の吐息がその温もりが現実だと告げているだけだ。
「そなたの言う事は相変わらず難しいな」
「今回は私にも理解できないですからね」
そんな事を話しながら学院の正門まで辿り着く。
「学院長殿があちらで待っているはずだ」
「学院生ではなく特例で自由な出入りの許可を貰うのですよね?」
「ああ、そなたの希望通りであろう?」
これも過去のやり取りのままだ。
よく見知った学院内に入ると、学院長室のある三階に足を運ぶ。
「これは女王陛下。ようこそお見えくださいました」
そして、部屋を訪ねれば若いハーフエルフの男が出迎えた。
もっとも外見で年齢を判断ができないという種族特性のせいなのだが。
「急な申し出ですまない。この者がどうしても学院の書物を読みたいと聞かぬのだ」
「陛下の推薦とあれば無下に扱うわけにもいきませんから」
学院長と名乗った彼は微笑みながら私を値踏みするように見てくる。
「宜しくお願いします」
以前と同じように一礼をした。
「ええ、これを胸につけておいて下さい」
魔石が埋め込まれたバッジを受け取る。
これは魔道具だったな。
「それがあれば自由に出入りできますよ」
「学院長、そなたに感謝を」
「いえいえ、陛下にお越し頂ければ予算の話も早くなりますから」
「そうであったな」
クリスは頬笑みで頷き返す。
「政治の話になるが、そなたも聞いていくか?」
「陛下、宜しいのですか?」
「ああ、この者は私の知恵なのだ」
「…ほう」
学院長が私の顔色を伺うように視線を向けるが、
「…ただの道化師ですよ」
陛下の冗談ですと言うように笑ってみせた。
「そのようですね。陛下があなたを見る時だけ違いますから」
「それは興味深い話題であるな。どう違うと言うのだ?」
意地の悪い笑みを浮かべた学院長にクリスはクスクスと笑って楽しそうだ。
「私は席を外しますね」
政治の話が始まっているのだ。
これ以上ここにいても、またカカシの役目になるだけだろう。
廊下に出ると扉を閉める。
「…ふぅ」
息を吐く。
糸が切れたかのように呆然と立ち尽くした。
「わかってるんだけどな」
もう随分と昔のことだ。
長い時を経て彼女は立派な女王になった。
傍に仕えながらその姿を見守っていたのだ。
その先がどうなるかを知っている。
…わかってるんだけどな。
それでも、歩き出す。
この先に違う未来があるのではないかと微かな期待を抱いて。