もう30年も前のことだ。
ぼくは大学生の頃、ビルの床清掃のアルバイトをしていた。
主な作業は床のタイルを磨くことだっが、ビルによってはトイレ掃除がセットになっている時があった。
ぼくに限らず、アルバイターたちにはこのトイレ掃除がたまらなく嫌だった。
ある日、若菜さんという年配の男性がアルバイト先の会社にやってきた。
よくわからなかったが、たぶん日雇いだったのだろう。
歳は70歳くらいだったろうか。
若菜さんは社交的でぼくらとすぐに打ち解けた。
話も面白く仕事は真面目。
歳を取っていることを言い訳にすることなく、力仕事も進んでやってくれるから、すぐに皆から信頼されるようになった。
トイレ掃除の時になると、若菜さんはいつも言った。
「前途ある若者がよその家の便所など洗うな。全部、わしがやる」
ぼくたち大学生をトイレにすら入れずに一人でやってくれた。
ある日、そのことがあまりに申し訳なく思えて、若菜さんを手伝おうとトイレの中に恐る恐る入って行ったら、
「やめんかぁ、おまえに便器など触らせん」
そう一喝されて、トイレから追い出された。
お陰でぼくはそのアルバイトを3年やったが、一度もトイレ掃除をやらなくて済んだ。
あれから30年。
もうこの世にはおられないだろう。
男気のあるかっこいいじいさんだった。
若菜さんを一度だけ、バイト先の車で自宅に送ってあげたことがある。
四畳半の狭くて古いアパートに一人暮らしだった。
なぜ一人で暮らしているのか、若菜さんの過去のことは知らない。
家族がいたけど皆いなくなってしまったのか、最初からずっと一人だったのか・・・。
年寄りには寂しい暮らしだ。
だが仕事中にそんな寂しそうな顔を見せたことは一度もなかった。
孤独に屈することなく、己の信念のままに生きた昭和の男だ。
今も彼のことを忘れない。