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皆さん、ありがとうございます。

 こんばんは、あじさいです。

 前回の近況ノートでは、7月半ば以降に頂いた応援コメントに返信できていないということで謝罪と報告をさせていただきましたが、おかげさまで、本日9月30日に返信を書き終えることができました。
(正確には筆者が見たときには消されていて最後まで返信を書けなかったものが1件あるのですが、その方は前回の近況ノートにもコメントをくださり、筆者の事情を理解したとおっしゃってくださったので、返信不要とのお気遣いと受け取らせていただきました。)
 皆さんのおかげです。ありがとうございます。

 絶不調だった8月に比べ、9月に入ってから調子は徐々に回復しつつありますが、エッセイを頻繁に更新できていたときほど調子が安定している感じはしないので、今後しばらくは読むことに専念したいと考えています。
 比較的調子が良いときであれば、皆さんの作品に応援コメントを送らせていただくこともあると思います。
 筆者はこんなことをしでかしたので、返信をくださいとは口が裂けても言えませんが、ご不快でなければ、消す前にご一読いただけると幸いです。

6件のコメント

  • お久しぶりです。姫川です。

    前回の近況ノートを読んで心配に思いながらも、返信コメントについての内容でしたのでコメントは控えておりました。とにかく、だいぶ体調の方も良くなられたようで、安心しております。

    しばらく読みに専念されるとのことですが、いつか完全回復された暁には、またキレッキレのあじさい節のきいたエッセイが読めるのを楽しみにしております。

    それでは、失礼いたしました。
  • 姫川さん

     ご無沙汰しております。

     エッセイを楽しみにしてくださっているとのことで、ありがとうございます。
     書き手として、これ以上ないくらい励みになります。
     読むことに専念とは言いましたが、諸々の余裕がでてくれば、エッセイや小説の構想を練ったり、文学理論や小説の書き方について勉強したりしていきたいと思っています。

     今後ともよろしくお願い致します。
  • こんばんは、あじさいさん。

    少しずつでも回復に向かっているようで安心しました。
    応援へのご返信から、復調しつつあるのが窺えますね。とはいえ、くれぐれも無理はなさらないように。

    わたしは「たとえ相手から応援されなくても、自身は応援し続けられるかどうか」で交流をもちたいと考えています。更新の間隔がどれほどあいても、作家さんと作品への興味は薄れません。
    あじさいさんが、再び自然に『書きたい』と心が動いたとき、わたしはそれを読みにいきますね。

    お返事にあった『今後も』はとてもうれしく思いました。
    ありがとうございます。
    (*´︶`*)♡
  • このはりとさん

     こちらこそ、ありがとうございます。

     返信を送らせていただいた翌朝(つまり今朝)になって、「この期に及んで自分はなんて厚かましいお願いをしたんだ」と自己嫌悪に陥っていたので、そうおっしゃっていただけて救われた思いがします。
     「小説家になろう」には指定したユーザーをブロックする(主に誹謗中傷や迷惑行為をしてくる相手との通信を断絶する)機能があり、確認はしていませんがカクヨムにもそういう機能があった場合に、このはりとさんにそれを使われたら自分はもう立ち直れないという恐怖心から、ついあのような物言いをしてしまいました。
     本当にすみません。
     筆者としては、今後も拙作や近況ノートにコメントを送っていただきたいと申し上げるつもりではなく(もちろん、今回のようにコメントを頂けるならそれはとても嬉しいですが)、筆者がこのはりとさんの作品を読み、時には応援させていただくことをお許しいただきたいというお願いのつもりでした。
     言葉足らずだったことを抜きにしてもなお厚かましいお願いだったにもかかわらず、今回もあたたかいコメントを頂けて、とても嬉しいです。

     今後ともよろしくお願い致します。
  • 佐崎さん

     ありがとうございます。
     佐崎さんが謝ることではありません、というか、この件はむしろ筆者が先に謝っていない現状の方がおかしいと言うべきことです。
     佐崎さんに直接届く形で謝罪しなかったばかりか、今回の近況ノート本文でさえ謝罪をせず、すみません。

     実のところ、書くべき返信を書けずにいた筆者が一歩踏み出し、9月中に返信を書き終えることができたきっかけは、佐崎さんに応援コメントが消していただいた事実に気付いたことでした。
     そういう事情もあって、謝罪もろくにしないまま、感謝を伝えて満足していました(感謝を伝えると言っても、自分で読み返してみても伝わりにくい、というのがお恥ずかしい限りですが)。
     本当に申し訳ありません。

     せっかく佐崎さんが貴重な時間を割いて筆者のエッセイを読み、その上でさらに多く時間と労力を費やして応援コメントをくださったのに、それを無下にしてしまった訳なので、それに気付いたときは、きっとこれはお気遣いによるものだろうとは思いつつ、こんな事態を招いた自分の現状をなるべく早く変えなければと思いました。
     そして、ちょうど9月から10月に変わる節目が迫っていたことも手伝って、書くべき返信を書き終えることができました。
     佐崎さんのお気遣いのおかげで奮起することができました、ありがとうございます。

     実は、佐崎さんにはカクヨム上のデータとしての応援コメントは消していただきましたが、最初に書いていただいたときに通知としてEメールに届いた文面は今も残っているので、本気で返信を書こう思えば「返信」を書くことができました。
     ですが、筆者の情けないところで、エッセイを書いたときと同じ熱量で文学理論や日本の国語教育の問題点を論じる(そのための知識を復習したり必要な情報を調べたりする)ための気力がまだ戻っていないという事情や、なるべく早く(特に前回の近況ノートを書いたのと同じ9月中に)全ての返信を書き終えたことにしておきたかったという思いがあり、今回の近況ノートでは、「書くべき返信を書き終えた」ということにさせていただきました。


     ここまで来たらお察しだと思いますが、佐崎さんから頂いた応援コメントについて、この場を借りて、お粗末ながら「返信」をさせていただきます。
     いわゆる深夜テンションで、言葉足らずだったり、勢いに任せて失礼なことを書いてしまっていたりするかもしれません。
     この期に及んで厚かましいお願いではありますが、もし妙な表現があったとしても、筆者の側には悪意も敵意もないということでご容赦いただけると幸いです。
     おそらく、こういう機会を設けていただけなければ、仮に応援コメントを残していただけていたとしても、少なくとも9月中には返信を書けずにいたと思います。
     その意味でも、ありがとうございます。

     佐崎さんがどういう経緯で国文科に進学され、そこで何を得られたか(あるいは失われたか)は筆者の立場からは推し量ることもできませんが、とは言え、一般論を言えば、学びとは本人の思わぬところで役に立つことがあるものだと思います。
     多くの人は日常生活の中で新聞や本を読むとき、何が主語で何が述語かということをいちいち拾い上げないと思いますし、使われている表現や言い回しに注意して書き手の思惑を類推することもさほど多くないと思います。ですが、それでも、大学生や社会人になってから、小学生や中学生の頃とは違った物の見方ができているとすれば、それは(何となくだとしても)そういった微妙な意味とその違いを察しているからだと思いますし、それは長年に渡って国語教育を受けてきたおかげだと(少なくともそういう側面も理由として考えられると)思います。
     筆者も文系なので高校で受けた化学や生物の授業が直接生活や仕事に役立っていると感じる機会はめったにありませんが、たとえば水素水やその他のダイエット商品の広告を見たときに、「何をバカなことを言ってるんだ」と(何となくでも)思えるのは、そういった理系科目を習ってきたおかげかもしれません。
     その他、その科目や学問を学ぶ中で論理的な思考を身に着けたり、そのときには分からないながらも数年(あるいは数十年)経ってから腑に落ちるような知見を得たりすることもあるかもしれません。
     筆者自身は政治学、特に政治哲学を学びたくて一浪してその大学に進学した身なので、本音を申しますと、大学で「その分野を持たない学生」や「やる気のない学生」と話をせざるを得ないときは、その度にフラストレーションを溜めていました(今となって思うと極めて独善的で傲慢で、失礼な話ですが)。ですが、彼ら(正確には彼ら彼女らなのですが、簡略化のため「彼ら」とします)は大学の講義やゼミを最大限には享受しなかっただけで、彼らも彼らなりに、講義やゼミだけでなくサークルやアルバイト先などで、何かしらのものを得ていたのかもしれない、と大学4年になった頃から思うになりました。それは学問的な知見や思考回路かもしれませんし、社会経験や、他に代えがたい友人かもしれません。今も昔も筆者は彼らの人生にあまり興味が湧かないのが実情ですが、彼らが大学で過ごした日々が無駄だったとは誰にも(彼ら自身にさえ)言えない、ということはなるべく忘れないようにしようと心がけています。
     蛇足ですが、学びに対する彼らのスタンスを見る中で筆者も新しい発見をしましたし、自分の研究報告が批判を受けた後に彼らがゼミの先生に褒められるのを見たときは、それが社交辞令と頭では分かっていても、負けん気を起こして妙にやる気になっていました。

     一般論と筆者の個人的経験の話が長くなりましたが、筆者にとって重要なことは、佐崎さんがカクヨムで活動していらっしゃり、自ら魅力的な作品を投稿しながら、時として筆者のような者にも応援コメントをくださっているという事実です。
     そこに国文科で学ばれた経験が活かされているのか筆者には判断できませんが、筆者は、今までに読ませていただいた佐崎さんの作品のことを面白いと思いましたし、応援コメントに返信を頂いたときや、佐崎さんの方から応援コメントを頂いたとき、人間という存在に対する誠意をもって作品を書き、意見を述べてくださる方だと思いました。何を置いても、佐崎さんはそういう方であるというのが、筆者の認識です。

     さて、続きまして、作者が作品に込めたメッセージを考えさせる授業に反感を持っていた話への「返信」を書かせていただきたいと思います。
     実を言うと、今の時点で筆者はちょっと冷静になり始めており、「自分、何やってるんだろう」と感じつつありますが、突っ走らせてください(佐崎さんがこれを読まれる頃には夜が明けていると思うと恥ずかしいですが、「こういうときは冷静になったら負け」ということで、行きます)。

     作者の意図を扱う問題提起や設問に対しては、筆者も「そんなに知りたいなら作者が生きている内に聴いておけば良かったのに」という考えでした。特に高校生の頃は、「作者にどういう事情があろうが、出来上がった作品を読者がどう受け取るかが全てなんじゃないか」くらいに思っていました。
     今になって思えば、この受け取り方は少々表面的すぎたような気もします。問われていた「作者の意図」というのは要するに「文章の奥の意味」ということであり、それを読み取る努力は、日常会話で行間を読むための訓練だったのかとも思います。日常生活でも、相手の経歴や直面している状況を考慮に入れた方が、個々の発言の意味を理解しやすいということはあるはずです。また、作品のメッセージをより厳密なものとして受け取ろうと思うなら、作品が書かれた時代背景や作者の当時の事情を知っておくに越したことはないでしょう。
     もちろん、佐崎さんがおっしゃるように、そのために作者の私生活を根掘り葉掘り詮索するのはどうなんだという気もします。作者も、生前ひた隠しにしていた私生活の事情を死後何十年も経って読者に知られる事態は想定していなかったでしょうから、そういった事情を知らない読者にも興味深く読んでもらうつもりで作品を書いていたはずです。そう考えると、作者の私生活や趣味嗜好について、学者が仲間内で密かに語るならまだしも、学校教育の場で教師が中高生に暴露するのは、故人の尊厳を著しく毀損する罪深い行為なのかもしれません(物事の善し悪しが必ずしも多数決だけで判断されないと考えるなら、慣習的に何となく容認されてきたからといって今後も許され続けるべきという話にはならないはずなので、この点は真剣に議論されて良いことだと思います)。

     最後になりましたが、頂いていた応援コメントでは、筆者のエッセイについても期待を寄せてくださり、本当にありがとうございます。
     これだけのことをおっしゃっていただいておきながら返信しなかったばかりか、事情を連絡することさえなかった自分が、実に情けなく思えてきます。
     既に消していただいた応援コメントでも、前回、そして今回の近況ノートへのコメントでも、あたたかいエールを送っていただきましたので、今度こそお気遣いを無駄にしないように努力してまいりたいと思います。

     今回の返信も含めて、至らないところは多いと思いますが、今後ともよろしくお願い致します。
  • 佐崎さん

     ありがとうございます。
     昨晩書いたものを読み返してみると、我ながらよくもまあ、こんな勢い任せの文章を、短くまとめる努力もせず、ろくにチェックもしないまま(そのせいで誤字脱字を残したまま)送りつけたものだと思いますが、佐崎さんにそうおっしゃっていただけて、いくらか気が楽になりました。
     こんな僕ですが、これからもよろしくお願いします。
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