「凡人中の凡人ですね!」
怒りを通り越したのか、それとも納得してしまったのか、清々しくもあった。
投稿した小説のPVは伸びなくても、一次選考に通過したことはある。あらすじや、発想自体は悪くないと思っていたが、俳句を通じて知ってしまった。
私は、凡人中の凡人、ザ・凡人なのだ!
俳句は「類想」を嫌う。昔から、テンプレではない、新しいものを求めてきた。個人の感性ではない、膨大なデータに裏付けされた、ザ・凡人の称号。
そして気付かされたのは、「自分らしさ」とは何なのだろうか? 年齢を重ねるにつれ「自分らしさ」が分からない。何十年と培ってきた基本的な性格さえも、周りに合わせ、妥協点や落し所を探る。社会人としては、当たり前なのことが「自分らしさ」を見失わせている気がした。
そんな中でも、俳句の「多作多捨」と云われる言葉に惹かれた。効率重視で無駄の無い仕事とは、真逆の考え方にも聞こえる。
十七と限られた音数の中では、意図しないまぐれ当たりが発生する。多くを作れば、その分だけ可能性と高まる。
始めたばかりの頃は、想定外が面白くも楽しくもあったが、それは本来の「多作多捨」ではない。多作「放置」で、捨てるという行為をしていない。
俳句を始めてみれば一度詠んだ句が、3・4日経ってから気になることがあるのでないだろうか? 俳句のタネを作り、五七五と都合よく文字を配置し形を整える。それが結果として、全く意図していなかった句にしてしまう。
俳句の評価の一つとしては、幾つもの想像させることとある。だが、もう一度初心に戻って考えてみる。何故、俳句を場所始めたのかといえば「自分らしさ」を見つけること。
まずは最低限、何を感じて何を意図したか。幾つもの解釈の中の一つに、意図したものが含まれなければ意味がない。
だから俳句の、きっかけとなった出来事や解説を載せるようにしている。それは、あくまでも自身に対しての気付きの為。
それを繰り返す中で、人とは違う「自分らしさ」に気付くのではないだろうか?