この世にはどうしたって才能ってものがある。
社会性を持った言い方なら個性。
生物学的には多様性。
そして、その才能が、ある序列を持った、ある集団の中で、任意の要素に対して(たとえ全てではなくとも)大なりとなるとき、“天才”なんて呼ばれる。
カクヨムでわざわざ才能の話を持ち出したのですから、もちろん小説の才能の話がしたいのです。
「努力できるのも才能」
なんて言い方しますよね。
僕は、努力できる才能は、他のいかなる場面を差し置いて、小説にこそ最も影響を持つ才能だと信じています。
スポーツ競技、格闘、囲碁将棋などの勝負事は、その時間内で完結します。実力が拮抗していれば、運であったり、ミスであったりが大きく関係してくる、と思うのです。
小説を書くことには、締め切りに追われていない限りは、時間制限はありません。「待った!」だってかけていい。これでおしまい、と決めるのは書き手次第です。
一行書くのに、一言を思いつくために、一日かけたっていい。むしろ、それほど時間をかけるだけの、精神的な体力があるのか? 努力をあなたは出来ますか? と問われるのが、執筆であったりする。
絵画などのアートだって条件は同じじゃないか、という反論があるかもしれませんね。きっとそうなのでしょう。でも、絵を描いたり、曲を作ったりしたことのない僕には、それらはどれも閃きによる輝きに見えてしまうのです。
もちろん、小説にだって閃きはあるでしょう。こんなストーリー絶対自分には思いつけない、なんだこの文章表現は、と引き込まれることもしばしば。
でも……。
うん、だめだ。下手に論証しようとするのは、もしかしたら悪い癖なのかもしれない。
それとも、論証から今逃げているのか。論証が出来ないと悟り投げ出しているだけなのか。
どちらも違うな。今、わかった。
一番書きたかったこと。
もっと悩んで、もっと苦しんでいたら、もっと自分には書けるんじゃないだろうか。僕が努力できる才能に恵まれていたら。これでいいや、って投げ出さない才能に恵まれていたら。もっと時間をかける根気があれば。
他の人の書くものと比べれば、手の届かないものに溢れている。
けれど、今めいっぱい両手を広げて、ぐるっと一周した所だけが自分の場所じゃない。
他の人の作品に手が届かないのは、当たり前でした。
だって、元から僕と他の人は地続きじゃないんだから。
僕には、僕だけが歩いて広げられる世界が与えられていて、そこをどう開拓して書くかは、僕次第なのだと思うことにした。
だから、僕は僕の作品を読んで、そこから先を伸ばすことにしよう。
このノートを書くために、明らかに努力を怠りました。でも、これは自分に宛てたものだから、僕だけが分かればいいのです。
いつか、この僕の気持ちを、みなさまにも伝わるような文章を、一所懸命に書きます。