Q. あなたは今、“ことば” で表現したいテーマがあります。どうしてもそれを伝えたいです。そして、紡ぐ言葉は、自分のオリジナルな言葉でありたい、とも思っています。どのように言葉を編めば良いでしょうか?
A. 一心不乱に打ち込む。迷わず、書きだしたら手を止めず、己の内から湧き上がる気持ちに従って、言葉を繋げていく。これぞ、作り物でない、作為的でない、真実の言葉だ。
みなさんはこの{Q&A}をご覧になってどのように思われましたか?
こんな風に書けることってあったりしません? するすると言葉が繋がって、千文字くらいなら手を止めずに書けた、とか千は無理でも三百くらいなら、とか。
僕はこんな経験を、まあまあします。そして、読み返すまでも無く、それらの文は極めて駄文です。
理由は単純明快。それら、止めどなく溢れてきた言葉は、僕の言葉では無かったし、僕の思いも代弁してくれていない。
どこかで吸収した文字列であったり、一度使用した文字列の刷り直しでしかなかったりした。
ケータイの予測変換のように書かれただけでした。
勢いで、頭を使わずに、悩まず、こねくり回す労を怠った言葉は、作為にまみれたものでした。
僕は考えるとき、それは日本語で論理が展開され、処理され、消化されます。
ですが、思いは、感動は、祈りは、言葉で起こるものではありません。
景色だって、言葉で眼前に置かれていません。
人の表情も、体のアクションだって、どれも言葉じゃない。
言葉は万物を表すことが出来るかもしれませんが、万物が言葉ではない。
むしろ、この世のほとんどは言葉以外のなにか。
言葉ではないものを、言葉という平面記号に置き換えるのですから、悩むに決まっています。
苦しいに決まっています。
困難に決まっているのです。
僕は天才じゃない。だから、するすると紡ぐ言葉が、真実を形容してはくれない。それらはいつも借り物の言葉だった。
でも、真実を書きたい。無作為の思いを漂然と書けないなら、僕は作為を施さなければ。
作為的に、無作為の思いを書き記す。
これが出来たとき、僕は書くのをやめるかもしれない。それとも、もっと書くことが好きになるのだろうか。