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勉強の弊害

研究者は勉強が好きな人たちなんだろうと思われるかもしれない。でも、勉強嫌いの研究者は案外いる。たとえば私の師匠は本を読むのが大嫌いで、大学院に入るまでほとんど本を読まないような人だった。だけど研究者としては天才としか言いようがなくて、無尽蔵にアイデアが出てくる感じだった。

逆に、すごく勉強が得意でいろんな本を読んでいるのに、論文が書けない学生というのはちらほらいる。それっぽいウンチクはたくさん知ってるのに、「だから、けっきょく君は何がしたいの?」と言われると黙り込んでしまうのだ。

小説の世界も似たようなところがある。たくさん小説を読んでるのにぜんぜん書けない人がいる一方で、ほとんど読んでないのに文学賞を取ってしまうような人がたまにいる。たくさんインプットしたらすばらしいアウトプットが生み出せるにちがいない、という幻想に人々はとりつかれがちだけど、でもそれ、幻想ですよ? ChatGPTじゃあるまいし。

人間とChatGPTの大きな違いは、身体の有無だ。私の師匠は頭ではなく身体で研究していたと思う。研究室での検討会のときはいつもひとりで延々と早口で喋り続けて、議論が堂々巡りになっても構わずにとりつかれたみたいに自説の展開をやめなかった。そうして、他の参加者が完全に飽きてしまったころにその堂々巡りが脱線して、思いつきで言った一言が、新しい研究のアイデアにつながるのだ。理屈で研究しているのではなくて、身体に何か引っかかるものがあって、その引っかかりが気持ち悪くてもぞもぞ動いているうちに、気がついたら見たことのない広場に出てしまっていたという感じだ。優秀な研究者というのはいくらでもいるけれど、その多くは、海外の最先端の研究を勉強して真似するのが得意な人たちだ。自分の身体を使って研究する人はほとんどいない。そしてそういう人でないと、本当に新しい研究なんてできないのだ。

作家の橋本治はどこかで「わたしの身体は頭がいい」という発言をしていた。私の師匠も身体の頭がよかったのだろう。それは才能というよりも、その人の生きる姿勢によって身につくものだと思う。身体を失って、ただ本を読んで勉強することの好きな人の特徴は、「わたし」がないことだ。そういう人は「○○はこう言っている」「△△アプローチではこういう風にする」という風に、いちいち何かを引用しないと物が言えない。そうして、「わたしはこうしたい!」とか「わたしはこれが好きだ!」と人前で言うのをためらってしまうのだ。それこそChatGPTだよ。ChatGPTには「これがしたい」も「これが好き」も無いのだから。

勉強は大事だけど、勉強してればいろんなことがうまくいくなんてことはないし、へたしたら自分を失ってしまう。勉強の弊害について教えてくれる大人はあまりいない。

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