『ツイッター、その雑念のゴミばこ』という本がある。読んだことはない。でも、タイトルはとても気にいっている。タイトルだけで私としては十分で、あとはそれが本当に書店で売られているという事実だけあれば十分だと思う。
ネット、特にSNSが人の精神的健康を害するという研究結果はときどき見かける。このあいだも、「オンラインメディアと思春期のメンタルヘルス危機」という記事があった。私は前に一瞬だけLINEをやっていたことがあるけれど、なんだか性に合わなくて、それからは「LINEをやらない人」として生きている。これからも、あのチープな薄緑色の画面を見て吐き気をもよおすことはないだろう。そんな言い方は失礼? いや、私はチープな薄緑色の悪口を言っているのであって、LINE様の悪口を言っているのではないよ。あとついでに言うと、それが失礼かどうかを先回りして心配しなければならないのが、SNSの普及による害悪のひとつだなあと私は思う。
(あとで思い返してみたら、薄緑色なのはメッセージの方で、画面は青かった)
思ったことをただつぶやく、という当初のツイッターの発想はとてもよかったと思う。で、そうやって「なう」「なう」言ってればよかったのだけど、そこに「立派な主張」や「美談」が混ざり始めたあたりから雲行きがおかしくなってしまったんじゃないだろうか。美談なんか『一杯のかけそば』で十分だよ。「本当に一杯でいいんですか?」「ええ。私はSNSには本当に嫌気が差していますから。一杯で十分なんです、かけそばなう」
この『カクヨム』というサービスも、一種のSNSだと言えなくもない。でも、それは「SNSとしても使える」ということであって、別にそういう風に使わなければならないという決まりもないのだし、「なうなう」言ってるだけでいいんじゃないかな。雑念のような文章を無心にアップロードする。読者のいないままもう第583579話までアップしてしまったぜ。でも大丈夫。それはただの「なう」だから、読まれようとどうしようと、どうでもいいことなのだ。
「雑念のゴミばこ」として使うのが一番健康的だと思う。小説って、ひとりで書いて、ひとりで読むものですからね。突き詰めればただの独り言であって、「なう」なのです。今どき、ツイッターで「なう」とつぶやいただけでヘイト扱いされるご時世だ。雑念のゴミばこはどんどん町から撤去されていく。ゴミはご家庭にお持ち帰りください。そうして、町がきれいになり、量産型映えスポットが増殖していくかわりに、ご家庭にゴミがたまっていく。そりゃ、ティーンたちも病むというものだぜ。
『カクヨム、その雑念のゴミばこ』。そんな本があったら、私はタイトルだけで満足しちゃうよ。