• に登録
  • 創作論・評論
  • エッセイ・ノンフィクション

小説読んでない

1月から2月上旬くらいまでは、アマゾンプライムでBBCのドラマを観るのが毎日の日課だったのだけど、気づいたら飽きて、アニメばかり観ている。

リコリス・リコイル、ガッチャマン クラウズ、ガッチャマン クラウズ インサイト、水星の魔女。

どれも、常識的な世界観を大きく揺さぶってくれるような作品ばかりだ。BBCの『コール・ザ・ミッドワイフ』とか『サンディトン』とかも面白かったのだけど、あくまで「常識の範囲内でのよくできた作品」という印象で、だんだん退屈になってしまった。私は「よくできた作品」よりも「荒削りだけど常識をひっくり返してしまう作品」の方が好きなのだ。で、そういう作品は、映画やドラマよりもむしろ漫画やアニメの方が多いと思う。

ただ、もうちょっと言うと、「常識をひっくり返す」ということだけなら、フィクションに限定する必要はない。たとえば数学を勉強していて常識がひっくりかえるような体験をする、というのは普通にあると思う。前に、集合論の入門書を読んでみたことがあったけれど、思考の仕方がぶっとび過ぎててすごく面白かった。無限の中にもレベルみたいなのがあって、感覚的に雑に言うと、「普通の無限」「すごい無限」「もっとすごい無限」があって、最終的には「もう無限としか言いようのない無限」みたいなラスボスの無限がいる、という感じ。もう何言ってるかわけわかんない。でも、そのわけわかんなさにグッとくる。

小説にもそういうわけわかんないのはたくさんある。代表的なのはカフカ。ベケットとかプルーストとかもそんなとこある。詩だと吉増剛造とか藤井貞和とか、あと、谷川俊太郎も意外と狂った感じの詩をたくさん書いてる。なので、以前はそういうのばかり読んでいた。

ただ、そういうのを読んでいくと、だんだんパターンが見えてきて、読んでもあんまりわくわくしなくなっていった。パターンとして思いつくのはだいたいこんなの。

1.論理が破綻してるのだけど、それを無茶苦茶な理屈で正当化して先に進める(e.g. カフカ、小島信夫)
2.人称がめちゃくちゃで誰が誰なのかわからない(e.g. ベケット、山下澄人)
3.古典文学や故事からの引用をつぎはぎすることで、一種の「偽書」をつくる。そのことにより、「作者が自分の心情を告白する」という近代文学的な構造を脱却する (e.g. 吉増剛造、藤井貞和、入沢康夫、エリオット)
4.反物語。作者が能動性を捨て、小説の推進力にひたすら身をゆだねて、だらだらと目の前のできごとを書き連ねる (e.g. 保坂和志、ベケット)
5.書く分量の多さの異常さで、「書いても書いても書けないものがある」ということをあぶり出す (e.g. プルースト)
6.語り手が何かを隠している、ごまかしている、という印象を読者に与えることで、物語の外部を読者に予感させる。いわゆる「信頼できない語り手」 (e.g. カズオ・イシグロ)
7.詩や小説といったものの意義を疑うこと自体が作品を書く動機になっている。 (e.g. 谷川俊太郎、田中小実昌)
8.語り手の共感性が異様に高く、視点があちこちの人物に飛ぶので、まるで登場人物が全員主人公であるかのようになっている。 (e.g. ヴァージニア・ウルフ)

ようするに、「小説(詩)を疑う」というのが20世紀以降の詩や小説の原動力になってきたのだと思う。ただ、それもだいたいパターンが尽くされてしまったんじゃないかなあ、というので飽きてきたのだ。

「創作」という行為自体を疑うというのは、たぶん美術の世界の方で先に始まったんじゃないだろうか。いや、私は美術の方はほとんど知らんのだけど。セザンヌみたいに、パース狂いまくりで、塗り残しがあちこちにあるような絵画が登場した時点で、「単に良い感じのきれいな作品つくってるのって、つまんないよね」というのがあったんだと思う。で、その「つまんない!」という感情に突き動かされて、作家たちは伝統的な芸術の様式を破壊していった。で、20世紀の100年間をかけて、絵画も詩も小説も破壊され尽くしていったわけだ。

ただ、そういう破壊行為自体に対してまた「つまんない!」というのも起こりうるわけで、私は今まさに、その「つまんない!」にはまっているのだ。つまんないから小説読まないでアニメばかり観てる。

ただ、じゃあアニメがあればいいのかというと、そうでもなくて、アニメもつまんないところはたくさんある。数学でも勉強してればいいのかな。フィクションの外側の方に、もっと面白いものがたくさんある気がする。でも、小説にもやっぱりまだ何かあるんじゃないかなあ…。煮え切らない感じで、今日も小説をちまちま書いてる私だよ。

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する