Aged Beat Change~老人は時を刻む~
のプロット代わりに作った下書きです😺
お爺ちゃんの一人称視点から見た、現在から過去である2020年に向かい、なんやかんやするまでの流れをタラタラ書き綴った内容です(ΦωΦ)
8000字くらいだと思いますので、お暇でしたらご高覧ください🌀🌀🌀
※なお、プロットとしてなので完成品と比較した際、設定が大きく異なっているかと思います😉
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時間とは、人が独自に生みだした虚構だと証明された。
それと同時に歴史は宇宙が繰り返し見続ける“夢”であると――。
夢には順序がない。データ保存した記録のように物語は並列し、無限に存在する。
そしてそこに時間という概念を当て嵌めれば、“未来・現在・過去”――それらは全て同じ時のなかを流れていることになる。
その仕組みを解明した人類は、やがて遺伝子データを用いることで本人の歴史を遡る――つまり過去をやり直す手段を手にしたのだ。
「ねぇ、お爺ちゃん聞いてるの?」
耳元で延々とちんぷんかんぷんな話が聞こえる。
「ハァア?もうメシの時間かぇ?」
ワシはそう訊き返した。
「もうっ、違うよお爺ちゃん!過去だよ!か、こ!やり直せるんだよ、人生を!」
「あぁ~、香奈子《かなこ》。香奈子はえぇ女じゃったよ、うんうん。特に胸がなぁ、堪らんでなぁ……」
「お婆ちゃんの話じゃないってば……はぁ……」
顔に貼り付く生ぬるい風。
肌寒かった頭皮があったまるわい。ホッホッホッ。
前に廻ってしゃがみ込む誰かの姿がぼんやりと映る。
「やり残した事があるんでしょ?ずっと昔に」
「やり残した、こと……」
はて?
何だったかの……思い出せんわい。
日がな一日、呆然と死を待つだけのこの身、とうの昔に頭はガタが来とるでな。
「……メシを食っとらんなぁ、そういえば」
メシの事を考えていると、また生ぬるい風が頭部の毛穴を刺激した。
「2020年、夏っ。東京オリンピック!……けっしょーせんっ!」
苛立ち気味のその言葉に。
「…………ぁああ」
突如、ワシの視界は揺れた。
目頭が熱くなり、胸打つ衝動が全身を駆け巡っていく。
連なって脳が逆再生を始める。
沸き立つ熱気。
高鳴る鼓動。
交わした約束。
――それは眠りから覚めた一つの記憶。
胴着を身に纏ったワシは立ち塞がる強敵と対峙していた。
優勝、ただそれだけを胸に。
崩れぬ信念を武器に、ワシは一戦一戦を突き進んでいく。
そして決勝――。
はっ、としてワシは意識を引き戻す。
「マコ……」
眼の前にはマコがいた。今度ははっきりと可愛い孫娘の顔をこの眼に収める。
「そう、マコだよ。お爺ちゃん、自分のこと分かる?」
その問いにワシはうんうんと頷く。
「龍崎昇《りゅうざきのぼる》、元空手日本代表選手。東京オリンピックでは準優勝するも、直後に交通事故に遭って脊椎を損傷し選手生命を絶たれる」
若い頃に読んだ記事の文面そのままに。
「今じゃ車椅子生活を余儀なくされた余命幾ばくもない、ただの負け犬じゃがな。ハハ――はッ!?ゴホッ!ゴホッ!」
自嘲気味に笑うも咽せて台無しになった。
久方ぶりにまともに喋った気もする。つい調子に乗りすぎたようだわい。
「ふふん♪だけどね、お爺ちゃん。その苦い思い出とも、ついにさよならできるんだよ!」
勢いよく立ち上がり、バッと両腕を広げて破顔するマコ。
「……そうか、ついにワシにも迎えが……」
ようやっとこの惨めな人生ともおさらばか。向こうに行ったら、また香奈子の胸でも揉むとするか――。
「ちっがぁぁぁぁあうっ!」
マコが頭を抱えて天に叫んだ。
ダンッダンッ、と地団駄まで踏む。
……びっくりするからやめてくれんか?ホント、マジで。
急に大声出されたらそのまま飛んでしまうぞ、ワシ。
そもそもさっき立ち上がったのだって結構ヤバかったんだからの?紙おむつしてなきゃアウトじゃったぞ?
「そうじゃないんだよ、お爺ちゃん!やり直すの!過去に戻って新しい時を刻むんだよ!」
そう言ってマコはもう一度先ほどの説明をしてくれた。
「…………ハァ?」
やはり、ちんぷんかんぷんじゃった。
「と・に・か・くっ!これ付けて、ほら!」
マコが手のひらの物をワシの顔まで持ってくる。
鼻栓じゃった。
「ワシ、口呼吸は苦手でな」
「つべこべ言うなっ!うりゃっ!」
「ヒィッ!?マコ強要はよくないぞぃっ!?」
「これもお爺ちゃんの為よ!」
「い、痛っ!痛い!そんなに強く押さえんでくれ!」
「こらっ、暴れるな!」
「誰かー!?孫が乱暴を働きますですじゃ!助けてーっ!サナさーん!介護士さーん!」
「サナって誰!?てか介護士とかいつの時代の話よ!」
そんな抵抗も虚しく、ワシは強引にも鼻栓を装着させられた。
「い、息が……苦しい……できることなら、楽な最期が……良かっ、た……うっ」
「バカやってないでおとなしくしててっ。でないと《《時空酔い》》するよ」
せっかく長い痴呆《ボケ》から帰ってきたワシの渾身の演技だというのに。
「遺伝子データの方は既にデバイスに取り込んであるから」
「それはつまりワシの身体の奥から奥まで覗かれたわけか!なんと破廉恥な!」
「…………」
いやん♡いやん♡と身悶えするワシを無視してマコは宙空のモニターを操作していく。
「……よし、出来た。それじゃあ行ってらっしゃい、お爺ちゃん」
満面の笑み。
「へ?」
「よいしょ♪」の掛け声と共にマコは車椅子を力いっぱい押した。
ワシを乗せて前へ前へと進んでいく車椅子。
そして眼前には厚い部屋の壁が。
「マ、マコぉぉぉぉおお!?」
じたばた藻掻くがどうしようもなかった。
ぶつかるっ!?
そう覚悟した時だった。
ポンッと小気味よい音が鳴ると同時に、ワシは車椅子共々に壁をすり抜け、暗闇へと放り出された――。
ごま粒ほどの小さな光が散りばめられているだけで他には何もない。
重力すらなく、どこが上でどこが下なのか。先はどこまで続いているのか見当も付かず――ワシはその空間でただゆっくりと回転しながら、身を任せるようにして漂っていた。
「お爺ちゃん」
「マコ!?」
どこからともなくマコの声が幾重にもなって聞こえてきた。
「マコ、こりゃいったい……」
「大丈夫だよ、お爺ちゃん。何も心配ないから」
混乱するワシを諭すようにマコが言う。
「まずは眼を閉じて大きく息を吸ってみて。それから、やり直したいと思う日のことを頭のなかで強く念じるの」
「マコよ、何を言って――」
「お爺ちゃん」
優しい孫の声。
「私を信じて」
「…………」
何にせよ、他にどうしようもなかった。
ワシは言われた通りに瞼を閉じた。不得手な口呼吸であらん限りの酸素を肺に溜め込み、そして念じるのだった。
あの苦々しい夏の日を――。
ガタンッ!
その音に驚き眼を開く。
いつしか重力が戻ったようだった。
つまり。
「ゔぃゔぃゔぃゔぃゔぃゔぃ――」
ワシは高速で頭から落下していた。
強烈な風圧にワシの唇は捲《めく》れ上がり歯が剥き出しになる(現代医療のおかげで歯は全部本物なのじゃ!)。
風を切ってマコの声が耳に届く。
「今、時間を遡行《そこう》しているの。もう少しの辛抱だから我慢して」
孫はワシを屠る気なのではなかろうか。
そんな感じに恐怖心を飛び越し諦観していると。
ストン、と突然に落下が止んだ。
ゆっくりと宙で反転し、怪我もなく車椅子を下にして正常な着地を決めた。
とはいえ景色は先と変わらず、暗い夜のようなまま。異なる事と言えば、身体の重みを感じるくらいか……。
いや、そうじゃなかった。
「身体が、軽い……」
まともに身を起こすこともできないでいた自然の拘束具といっても差し支えなかった老体――同じものとは思えないほどに、身軽さがワシを支えていた。
窮屈とはほど遠く、手が握れる。もちろん開くことも。腕の曲げ伸ばしもできるし、床ずればかり起こしていた尻は簡単に持ち上がった。
「おおっ!なんじゃこれは!身体が嘘みたいに自由だ。脚だって、ほら」
子どもみたいにパタパタさせてみる。
「なんだか頭の方もスッキリしてるぞ。足し算も引き算もなんて事ない!まるで若返ったみたいじゃ」
「その通りだよ、お爺ちゃん」
「おお、マコ!」
頭上からマコの声が響く。
「お爺ちゃんは今、二十代の頃の自分を取り戻したんだよ。さあ、その冴えた頭でもう一度やり直そう。2020年、夏のオリンピックを――」
その言葉が言い終わらぬうちに、眼の前からは眩しい光が射し込んできた。
何ものも勝ることのできない、強い耀き。
巨大な扉が口を開けるように光が無数の筋となって伸びてくる。
「うわっ!?」
ワシは驚き声を上げた。
光がすぐ横を走り抜けたのだ。
一閃――そんな言葉がしっくりくる、刃《やいば》のような鋭さ。
光は次第に勢いを増していく。周りの暗闇を躊躇なく塗りつぶしていき――やがてワシをも激しく照りつけた。
眩しさに耐えかねて顔の前に手をかざす。
為す術もなく眼を瞑るワシを光はそのまま呑み込んでいった。
「…………」
不思議な気分だった。
恐いと感じた光の刺々しさとは裏腹に、身体のどこにも痛みはない。
あるのは撫でるような優しいぬくもり。身体の内側から湧き上がる闘志。
やがて小さな音が聞こえてきた。
耳を澄ませる……スピーカーで絞《しぼ》っていたかのように、徐々に音は大きく高鳴りをみせていく。
耳元で響いていただけのざわめきは頭に伝わり、全身を震えさせるまでに至った。
それは声援だった。
十や百じゃない。もっと大勢の、千切れんばかりの激励。興奮冷めやらぬ高揚感と懐かしさすら覚える臭気がワシを包み込んでいる。
恐る恐る瞼を開く。
胸を突き動かす光景がそこには広がっていた。
万人で埋まった、見上げるほどの高さの会場席。
板張りの床に敷かれた赤と青のマット。
頭上に掲げられた日の丸。
そして五つの輪が連結したオリンピック旗。
見紛うはずがない。
世界中の選手たちが集い、競い合ったあの場所――。
日本武道館。
半世紀もの時を経て、再び武道の聖地として人々の心を動かした2020年の東京。
建物内部をいくつもの照明が照らしだす。
モニターを始めとする機材の数々、横断幕が視界に映える。
むせ返るほどの熱気と轟く声援が代表選手たちの士気を鼓舞していた。
「これはいったい……っ!?」
自分の発した声にワシは眼を丸くする。
ザラザラの嗄《しわが》れた声じゃない。太く力強い、若さの象徴。
反射的に喉に手を当て、ひどく立派な喉仏の存在を感じ取り――はっとする。
喉から手を離し、ゆっくりとそれを見る。
たくましい腕だった。
芯が入ったように頑健で厚みがある。血色も良く、静かな熱を帯びているようで。
慌てて足許を見やる。
声が出なかった。
ワシは自らの脚で地を踏みしめていたのだ。
車椅子に頼らずに。
二本の脚で。
交通事故で負った怪我の痕跡はどこにもなかった。
胴着姿のワシ。
「本当に……」
本当に戻ってきたのだ、過去に。
『……ちゃん……お爺ちゃん……』
マコの声がする。
周囲の喧騒に呑まれない、穏やかで確かな声音。
『お爺ちゃん。私の声、聞こえる?気分はどう?どこも痛いところはないよね?』
頭のなかで反響するようにその声は伝わってきた。
ようやく要領が掴めてきた気がする。
ワシは今、過去にいる。理由や方法は結局さっぱりなわけじゃが、とにかくマコの言葉を借りれば過去をやり直す、その機会を得たのだ。
マコはこの場所にはいない。おそらく老いぼれのワシがいる傍で話し掛けでもしているのだろうよ。
「む。大丈夫、問題ないわい」
『はぁ、良かった……』
孫娘の安堵の溜息。
『この【|Re:《レシーブ》】って機械、発売されたばっかでレビューがまだ全然なかったから不安だったんだよね。それに値段も|ブチ高《高額》だから、代わりに格安の海外産のを買ったし。あっ、あとトリセツにね、“乳児または小さいお子様に妊婦、高齢者、持病をお持ちの方などのご使用はお控えください”って書いてあったなぁ……ま、結果オーライってやつだよね♪』
まったくもって問題だらけだった。
『じゃあ改めて説明するよ』
身体を解すために地下通路を通って中道場棟へと向かうなかで、マコが言う。
『もう分かってるだろうけど、そこは2020年の日本武道館だよ。今は東京オリンピックの真っ只中で日付は、えーっと……』
「八月六日、そうじゃな?」
『うん、そうだね。この日から三日間かけて空手競技、全八種目が実施される。今日行われるのは内三種目で、お爺ちゃんが出場する【-67kg級】も含まれてる』
そうじゃ。
ワシはその階級で世界選抜された九人の選手たちと上位を争ったのだ。
『お爺ちゃんはその日、手に汗握る激戦を繰り広げた……私は知らないけど。甲乙付け難い力のぶつかり合いを経て決勝まで勝ち進んだものの、惜しくも優勝を逃した』
7-7の同点だった。
じゃが、先取《先制点》を奪われたワシはルール上、敗北を喫した……。
その結果にワシはもどかしさでいっぱいになった。
引けを取らない勝負で、互いに全力を出し合った。だからこそ判定に持ち込まれた事が悔しかったのだ。
まだやれる、試合は終わってない、そんな想いを残したままワシの東京オリンピックは幕を閉じた。
ワシは歩みを止める。
自然と拳に力が入っていた。
確かに勝敗は決まった。じゃがワシの心はそれを素直に受け入れられなかった。それは相手も同じだったろう。表彰式で見せた奴の眼がそれを物語っていた。
『これからお爺ちゃんはもう一度そこで勝負をする。そして今度こそ優勝を掴み取るの』
老いてもなお、拭いきれずにいた悔恨の念。それに決着を付ける機会が訪れたのだ。
嬉しくないはずがない。
とはいえ一抹の不安もあった。
「じゃが、そんな事して本当にええのか?要は歴史の改変、じゃろ……?」
過去が変われば未来も変わる。この時代にはその手の作品が山ほどあり、若かりしワシもいくつか眼を通していた。それらを見る限り、改変は多くの場合が危険と隣り合わせで、思いもよらぬ未来に繋がってたりもしていた。
些細な行動の変化にすら重大な時の分岐点が潜んでいるやもしれんのじゃ。ひょっとすればマコが存在しない未来だって――。
孫娘を失ってでも成し遂げたい事などありゃせん。そうまでして未練がましく過去にしがみつきたくはない。
しかしそんなワシの心配に対して、マコはなんてことないといった様子で話を続ける。
『平気だよ。たとえ優勝したからといって、お爺ちゃんの知る未来そのものが変わるわけじゃない。なぜなら歴史は宇宙が絶えず見ている夢だから。お爺ちゃんの頭のなかにある記憶は宇宙が夢想した可能性の一つでしかないんだよ』
ちょっと何言ってるか分かんない。
「マコよ、ジジイにも理解できる説明をしてくれんか」
マコは小さく唸ってから、『例えば』と切り出した。
『お爺ちゃんはご飯を食べてます。それはもう牛になっちゃうくらいたくさんに。お腹いっぱいもう動けない……そんなところで眼が覚めました。さっきまでの光景はただの夢で、夢から覚めたお爺ちゃんはメシはまだかと文句を言います。なぜか、理由は簡単だよね?現実のお爺ちゃんはまだ何も口にしてないから。どれだけご飯を食べたところでそれは夢の出来事でしかなく、実際にお腹が満たされるわけじゃない。だけど夢のなかでは確かにお爺ちゃんはご飯を食べていた。それは見方を変えれば二人のお爺ちゃんが同時に存在していたということになるの』
一拍の間を置いて、マコは続ける。
『普段はお互いに干渉することのできない二人だけど、夢を見る間だけは相手の行動を覗き見たり共有することができる。今のお爺ちゃんは機械を通してそれを体感しているの。つまりそこはお爺ちゃんの知っている過去と似て非なる夢のなか。夢で起きたことが現実でも起こるなんてこと、普通はないよね?だからお爺ちゃんが歩んできた未来が変わることはありえないんだよ』
「平行世界《パラレルワールド》というやつか……?」
『というよりは疑似体験《シミュレーション》だね。パラレルも時間同様に存在しないものだから。結果を導き出すまでの過程、その道筋を様々な手順で実施していく感じかな』
算数のようなものじゃろうか。
3+7=10
6+4=10
こんな風に答えが同じでもそこに至るまでの計算式が異なるものは数多くある。その数字に過去やワシを代数として置き換えて過程を確かめていく――。
存在するとかしないとか、正直ワシにはさっぱりじゃが。
『これからお爺ちゃんが行うのは、歴史に綴られながらも人ひとりの力では決して触れることのできなかった可能性の世界、記憶のページを辿るということ。謂わば絵本のなかを冒険をするものだよ』
無い知恵を捻《ひね》るワシに、また妙な例えをしてくるマコ。
ますます訳が分からんわい。
「何さっきからボソボソ言ってるの?」
ふいに後ろから声を掛けられ、身体がびくりと跳ねた。
振り返るとサンライズレッドのスポーツウェアに身を包んだ女性が立っていた。ショートボブでわずかに丸みを帯びた顔。気の強そうな眉を寄せて、ワシの顔を覗き込んでくる。
「昇くん、もしかして緊張してる……?ダメよ、もうすぐ予選が始まるんだから」
息を呑む。
「かな、こ……」
周りの雑踏に掻き消される声でワシは呟いた。
眼の前にいたのは今は亡き香奈子だった。肌つやも良く活き活きとした姿でワシを見つめている。
彼女自身も形《かた》の代表選手として注目されていた。だが残念ながら選考には落ちてしまい、期間中は他の選手たちのサポートに徹していた。
夢じゃなかろうか。
いや、夢だったか。
それでもワシは確かめずにはいられなかった。
「そんな調子じゃ実力なんて発揮できないわよ。肩の力を抜きなさい、それから――」
むにっ。
「…………」
香奈子は言葉を切って黙り込む。
控えめながらも、着衣越しからはっきりと分かる柔らかさ。
むにっ。むにっ。むにっ。
手のひらに吸い付くような弾力。
甘く蕩けるような痺れ。
情を掻き立てる心地の良さ。
懐かしき青春がそこにはあった。
「おおっ、この感触はまさしく香奈子のもの!まさかこうして揉める日が再び来ると――ぶぁふぇひっ!?」
無様な悲鳴に通路を渡っていた選手たちは何事かとワシたちに振り返る。
胸元に視線を落としていたワシの左頬に、香奈子の渾身の拳が食い込んだ。
腰の捻りと共に放たれた見事なストレート。
「な、なにするのよ急にっ!?」
両腕で隠すように胸を覆い、顔を真っ赤しながら彼女が叫んだ。
だがそれは羞恥によるものではない。
大きな瞳は涙を溜めるわけでなく、怒りに燃えていた。弱さなど微塵も感じさせない無礼者に対する激しい嫌悪。
『コラーっ!!』
直後にマコの叱責が飛んでくる。
『お婆ちゃんと付き合うのはオリンピックのあとでしょ。今はただの選手同士なんだから、馴れ馴れしいスキンシップはしちゃダメ!ていうか、そもそも人前で堂々と胸触るなっ!このエロジジイ!』
「す、すまん。つい反射的に、出来心で……」
「出来心……?」
「あーいや、そうでなくて――」
痛みを堪えながらワシはへこへこと頭を下げる。
「あまりにも揉み甲斐のある胸だったもんじゃから。かな――でなくて、江田《こうだ》さん。悪気なんてなかったんです仕方なかったんです、すみませんすみません……」
『お婆ちゃん、もう行っちゃったよ』
「へ?」
マコの言うとおり香奈子は既にいなかった。慌てて振り返ると、ぷりぷりしながら早足で去って行くのが遠くに見えた。
◆ ◆ ◆
連絡通路を抜けると、さっそく道場でウォーミングアップを開始した。
香奈子には申し訳ない事をしてしまったが、今はそこに気を取られている場合ではない。
気持ちを切り替えなくてはならん。優勝を掴むためにワシはここにいるのじゃ。
『女心が分かってない』だの『野蛮人』だのと小言を口にするマコを無視しつつ、帯を締め直して深呼吸する。深く息を吐き出し心を静めてから、ワシは一礼して道場へと脚を踏み入れた。
しかしそんなワシの闘志はすぐに打ち砕かれてしまった。
最初は微かに違和感を覚えつつも特に気にするほどではなかった。じゃが柔軟運動を済ませ、サポート選手との練習組手を始めたところで、ワシは愕然とする。
「動かん……」
身体が思うように動かなかった。
イメージは湧く。相手の前拳を払いながら滑るように踏み込み、相手の懐へと正確な突きを決め、残心をとる――無駄のない洗練された動き。
しかし頭のなかでは完璧に描けている一挙動も、いざ前に出ようとすると足腰に力が入らなかった。瞬発力はなく、突いた拳にはキレがまったくない。
まるで自分の身体ではないかのように、自由がきかなかった。
『お爺ちゃんは今、意識だけが過去を遡ってきた状態なの』
眼を丸くするワシにマコが説明する。
『そこにいる過去のお爺ちゃん――若お爺ちゃんは簡単に言えば分身《アバター》。お爺ちゃんは意識だけが別の身体に入り込んだ幽霊《プレイヤー》みたいなものなの。肉体と精神が違うんだから感覚のズレがあるのは当然でしょ』
「なら、ワシはこんなコンディションで試合に挑まなきゃならんのか……」
さすがにそれは無謀だった。
こんなハエの止まるような突き、容易に受け流されてカウンターを喰らうだけだ。
『そこは安心して。時間さえ経てば自然に身体は馴染むはずだから』
「それはどのくらいじゃ?」
『えっと……個人差があるらしいけど、大体は数時間くらい。稀に半日かかる場合もあるって』
「それじゃいかん!」
「おい、大丈夫か?」
サポート選手が心配そうに訊ねてきた。端から見ればただの独り言に過ぎんのじゃ、仕方ない。
ワシは何でもないと誤魔化してから休憩と呈して道場の隅に移動した。
「もうじき予選が始まるんじゃぞ?」
小声でマコに話し掛ける。
「予選とはいえ、相手は世界リーグのトップたち。試合までに身体が言うことを聞かなければ、勝つなど到底不可能じゃ」
『それなら良い方法があるよ』
マコがそう口にしたあと、頭のなかで短い機械音が聞こえてきた。音と音の間隔は狭く不規則で……どうやら向こうで入力操作でも行っているらしい。
『身体を自由に動かせない原因は、肉体と精神が巧く噛み合っていないから。だったらその二つを潤滑する仲介役を使えばいい……できたっ』
「うおっ!?な、なんじゃこれは!」
いきなりワシの視界に空中ディスプレイが現れた。
いや、そうではない。網膜を介さず、直接脳内に映像が展開されたのだ。途切れることのない映像にワシは身じろぎ頭《かぶり》を