書けないのです。
この半月ほど。連休も重なりつつ、またはしばしばサボりつつファンタジーに挑戦してたのですが、書けないのです。
現在の本文は2000文字程度です。
なぜ書けないのか言うと単純に難しいのです。
難しいということは、クッソ難しいのです。
クッソ難しいということは、ドチャくそ難しいのです。
ドチャくそ難しいということは、どちゃくそムチャ難しいのです。
何がそんなにもどちゃクソむちゃ難しいのかというと、やって良いことが多すぎるのです。
ファンタジー、特にハイファンタジーはもちろん現実ではありません。
大抵の小説というのは現実ではないのですが、ハイファンタジーは現実でなくて良い要素が多すぎるのです。
例えば、月が空に浮かんでいます。
ラブの話ならばあの月には手が届かないけれども、君の瞳に映る月を抱きしめる事ができます。
SFならば、かつての魔物の住処だった太平洋が機械の羽で一またぎできるように、ライカの尊い犠牲で月までの橋を掛けることができます。
ローファンタジーであっても、地球の裏で月が昇っているがために、狼男は空を眺めて待ち望む事ができるのです。
これらはすべて、月が遥か遠くから、地球に向かって落ち続けているために実現できることでしょう。
ところが、ハイファンタジーではそうは行きません。
もちろん落ち続ける月であっても良いのですが、無色の蛇が天の星たちを支えていても良いですし、膜に描かれた天空を太陽と月が競争していても構いません。
いっそのこと、夜に覆われ月が永遠に沈まない世界であっても良いのです。
どのような月を選ぶかによっては、ハイファンタジーの世界に星が降ることも太陽が昇らないこともできます。
このような部分は枝葉末節でありますから、なんとなく月を浮かべておいても、浮かべなくても良いのです。
しかし、そこを作者の意思で選ばなければ、ハイファンタジーである必要はないのです。
とはいえ、太陽と星、月と大地、海と空、人と獣、森と荒野、その他ありとあらゆる全てを選び続けることは現実的ではありません。
物語のウリになる部分の周囲以外は現実からそのまま引っ張って来ても良いと思われます。
電子の静止質量が1.3倍になったからと言って、物質の密度以外の部分が直ちに困ることは、そう多くはないからです(もちろん宇宙の創生が困るのですが、ハイファンタジーについては神様に苦労してもらう事ができます)。
しかし、この手段を取ってもなお、ハイファンタジーには自由にできることが多すぎるのです。
そもそも、何かを選ぶことには責任が伴います。
なんとなく浮かべた月にも、月が何者であろうが物語に大して関わらないという責任が伴います。
手癖で書いた月が、百万年の周期で大地をえぐる創造主の消しゴムであってはいけないのです。
これが他のジャンルならば、一言こう言えば良いのです。
「夜に空を眺めてみなさい」
ファンタジーは難しいのです。
これらの問題を簡単に解決する処方はいくつかあります。
例えば、型紙を使うことができます。
あるいは、責任を放棄することもできます。
他にもあるかもしれませんが、今思いついた処方はこの2つでした。
型紙を使う方法は極めて簡単です。
すでに出来上がった世界達の中から、自分の書きたい要素が差し込める物を探して、パタンナーに徹すればよいのです。
先達のデザイナーには頭が上がりません。
責任を放棄することも極めて簡単です。
「俺の宇宙では音が鳴る」と言えば良いのです。
物語を見せたいのであって、世界を観光させたいわけではないのです。
しかし、上の処方はプロ(あるいは職業)作家のための処方です。
つまり、物語を人のために、限られたリソースで書くための処方です。
一方の私は趣味で書いている人間です。
私が書きたいと思った出来事を、私が作りたいと思った世界で、私が見せたいと思った状態で書く人間です。
この手の人間は自分で選ぶことから逃げることはできません。
型紙を使うにしろ、責任を取らないにしろ、それを選ぶ理由を自分で決めなくてはいけません。
しかも、選ぶ選択肢の中には「月が沈まない」ような現実離れした選択すらあるのです。
苦労してサラダバーからボウル一杯のグリーンサラダを作ったとして、そこからの作業も楽ではありません。
ハイファンタジーは必ず現実離れしていますから、それを表現するためには頼れるものが殆どありません。
先達の知恵、類型の啓示、些事の秘匿。
これらを駆使しても、フォークを投げ落として大地に跳ねさせるほどには、ハイファンタジーを簡単には書けないのです。
このようなことは本当に重箱の隅に溜まったものですから、些事として隠してしまえば簡単でしょう。
しかし、重ねて言いますが、私は趣味で書いているのです。
簡単さを追い求めるならば、文書に起こさず頭の中だけで満足することが最も簡単なのです。
それ以上を求めるならば、私は私自身が書いた作品に責任を持たなくてはいけません。
そして、ハイファンタジーを選ぶ以上は、現実であるようなこと以外の全てを決めなくてはならないのです。
何よりも難しいことは、この現実以外の全てに対する責任と共に、他のジャンルとも共通の困難が襲い来ることです。
ミステリーであっても、現代ドラマであっても、ローファンタジーであっても、キャラクターと出来事に対する選択は変わらず存在します。
さらに、選んだ材料をどのように調理して表現するかの技巧も振るわなければなりません。
例えるならば、ハイファンタジーに手を出すことは一汁三菜をたまに作っていた人間が、フレンチのフルコースに手を出すようなものです。
しかも、この人間は偏屈なので、冷凍フレンチセットを使わずに料理を始めています。
本当に、ハイファンタジーは難しいのです。
なので、ハイファンタジーは裏でちまちま進めることにして、エッセイを書き上げることにしました。
私は側溝のドブネズミです。
ネタは今のところ「読書感想文」か「無駄知識」のどちらかにしようと思っています。多分両方書くと思います。
どうしても疲れた場合は、お仕着せのファンタジーで短編を書くかもしれません。
その場合、奴はカボチャ頭なのだなと笑ってやってください。
このようなことは自分で決めれば人に見せる必要はないと言われれば、それは全くその通りです。
しかし、私は未練がましい人間ですので、今日このように決めたとしても、明日には翻意しているかもしれないのです。
私は明日の私の背中に川を引く必要があったのです。
唯一の救いは、私が零細作家であることでしょう。
私の愚かな告白は、それほど多くの方々の目には止まらないであろうからです。
それにしても、ものを書くこと自体、そもそも難しいことなのでした。