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完全性の追求と、それにまつわる危機意識(その3)

前回の続きですが、メチャクチャヘビーです。
最後にまとめを書いてますが、3つに別れた文章の内容は、検証部分を抜いて主張だけにすると、拍子抜けするほど簡単な内容です。


カンペは、感傷主義に対抗するために、読者である子どもが、本来の幸福を追求できるようにするという目的を、自らの児童・青少年文学に課した。
この目的を果たすために、彼がまず問題とするのは、子ども自身が感傷と本来の感受性との区別を認識し、感傷を否定できる能力をもたねばならない、ということだった。

カンペが、児童・青少年文学の理想像を「真の善と、善と思い込まれたものとを、本当の姿で克明に描きだして互いに対比させるようなものとして掲げるとき、そこには、このような、感傷に対抗すべき感受性への意識が明確に表れている。

この対比を可能とするために、カンペは、感受性のよりどころとなる具体的な経験、日常生活において子どもが模倣可能な経験についての多様な言及を、彼の『若きロビンソン』において展開することになったのである。

しかし、カンペは、この経験と感覚の対象を、感受性のみに限定することはなかった。
彼は、児童・青少年文学に、さらに、「実際の活動へと駆り立てるあらゆる精神的・身体的諸力を用い訓練するための隠された刺激が潜んでいるようなもの」という要求を課しているのである。

カンペは、感傷を批判する一方で、感受性のみが著しく強化された人間が陥る不幸についても、「きつく張られた感受性が、たるんだ理性のかたわらでは、そしてまったく同じく弛んだ身体のなかでは、あわれになるにちがいない」と警告を与えている。彼にとり、人間の諸力はいずれも、「完全性の追求」のために神から人間に与えられたものであり、感受性の
みが突出することは、人間の幸福を疎外する原因と考えられた。

この、諸力がかえって人間を不幸にするという逆説に対し、カンペは「完全性の追求」の前提として「諸力の均衡」を措定する。

そしてこの「諸力の均衡」を包括する場として、人間の内面を「心(Seele)」という一つの総体として示し、心理学(Seelenlehre)を教育論のなかに重点化させていくのである。


ココまでの主張をまとめると、感傷主義は行きすぎだけど、『親が死んだ君の悲しみは、自分が経験してないからそれは偽である』といったように、理性的に見てもおかしい事、他人の心を想像できないほど、偏狭な教育をうけてしまったら、それはそれでその人間は不幸になる。という主張になる。
理性と感情のバランスは、心(Seele)の中で総体としており、それは(完全なる)神が(不完全で完全を目指す)人間に与えたものであり、不幸になる状態は間違っている。ということだ。
今の時代の我々からすると、神が論理思考の証拠に近い部分に存在することに違和感を感じるかも知れないが、啓蒙主義は神の存在を論理的に現実で折り合いがつくように説明するものであり、決して人が神より上だとか、神は存在しない、間違っている、といった主張はしていない。『自分たちを不幸にするような神への盲信はやめよう』という観点として理解した方が、この時代の主張や事件を理解しやすい。


このような「心」への注目は、カンペのみならず汎愛派における一つの傾向としてあらわれており、例えばロヒョウは心理学を学校教材の一つに数え、ザルツマンはその初等教本の中で、心的諸力の説明を試みている。

また、カンペ自身も、1770年代中期の諸論文に見られるように、すでに心的諸力への深い関心をもっていたことは明らかである。

しかし、感傷主義に対する批判を貫徹するために「心」そのものを問題としてとりあげなければならないとする危機意識が、すでに幸福論において垣間みえた教育的な意図を、「心」という対象へと収束させたとき、カンペは、この独自の危機意識に裏づけられつつ、子どもに対する心的構造の教育を模索することになるのである。

カンペが1780年に執筆した『子どものための小心理学』は、まさにこの模索の具体化であり、その中心には、子どもの「心」に対する強力な問題意識が存在していた。
「子どものための」心理学は、「人間のための心理学とは、まったく別のもの」であり、「理性の探究者あるいは哲学者のための心理学とは、はるかに異なる」ものだったからである。

大人のための心理学ないしは理性の心理学においては、感覚能力と認識能力とは、すでに存在するものとして論じられ、完結した理性的人間におけるその性質ないし関係の究明が焦点とされていた。

しかし「子どものための」心理学においては、完結した理性的人間という枠組みを保留することによって、認識能力の存在基盤そのものが根本的問題として提起される。

カンペは、道徳的な「完全性」による批判対象を認識するために、まさに神与のものとして人間に感覚が与えられたとした。

すなわち、経験によって獲得される感覚のみによっては、道徳的判断を行なう能力は形成されえないとするのである。

それゆえ、この現世の感覚から不完全性を認識するための判断基準が、すでに存在していなければならない。

これについて、カンペは、感覚によっては「何の明瞭な観念ももつことができない」としながらも、「感覚が理性によって生み出されるべきであり、また明瞭な観念から成り立つべきだといっているのではない」と断っている。

彼にとって重要なのは、「感覚が実際に道徳的な感覚であるべきであり、また生気も力もない感覚であるべきでないとすれば、明瞭な観念が理性の作用に先行しなければならない」ということであり、この「明瞭な観念」と呼ばれるものが感覚に対する判断基準として要求されることになるのである。


※ここはかなり難解な文章になっている。カンペは、子どもの心理学は大人の心理学とは異なり、感覚と認識能力の発達過程を問題にする必要があると主張している。
また、カンペは、感覚だけでは道徳的判断を行うことができないとし、感覚に対する判断基準として「明瞭な観念」が必要であると考えている。
この「明瞭な観念」は、神から与えられたものであり、理性の作用に先行するものだとしている。
カンペの子どもの心理学は、感覚と理性の関係を新たな視点から捉えようとするアプローチだった。


ーーーメモーーー
・大人の心理学:感覚と認識は存在する 完結した理性的人間における性質はなにか感覚と認識の関係は何か
・子供の心理学:認識能力とは何か

経験から得る感覚だけでは、道徳的判断を行う能力は養えない→現実世界には、自分の不完全性を認識する判断基準が存在するはず。
感覚(Not感受性)から何の明瞭な観念を持つことは出来ない。✗感覚は理性によって生まれるべき。✗感覚は明瞭な観念から成り立つ。
「実際の活動へと駆り立てるあらゆる精神的・身体的諸力を用い訓練するための隠された刺激が潜んでいるようなもの」が感覚の定義。感覚は切っ掛けでしかない。

✗感覚は生気も力もある道徳的な感覚(感覚だけで理性・道徳は成り立たない。動物は?)→明瞭な観念が理性・認識の作用に先行しなければならない。この明瞭な観念が感覚の良し悪しを判断する基準になる。
ーーーーーーーー


まさにこの点こそが子どものための心理学の出発点となるのである。カンペにとって、その「子どものため」の心理学の目的は、「心理学についての先認識(VorerkenntniB)についての総括概念が、本来の宗教教授や倫理学に先行しなければならない」と主張するように、感覚の道徳性の判断基準に先行する認識を、子どもに教授することにある。


それゆえカンペは、「子どもの心がつながりある思考へと成熟しはじめるまで、宗教における、また青少年教育における、本来のつながりある教授を先送りすることができるはずである」としつつ、その予備的段階として、「先概念(Vorbegriffe)」の獲得を掲げる。

これは先に述べた「明瞭な観念」にあたり、その内実は「理性」「悟性」などの諸概念を、

「悟性」:「何かを明瞭に表象し、普遍的概念をなすことができる」能力

「理性」:「原因と結果を知り理解することができる」能力

「判断力」:「ある事柄が肯定されるべきか否定されるべきかを決める」能力

「想像」:「現存しない事物を思い浮べる」能力

といった短文形式で定義づけたものである。

カンペが、このような「人間の精神の本質や特性についての必要最低限の先概念」を、「神とその精神性・不滅の存在・聖なる本質についての正しく適切な概念そこから流れ落ち、従属するあらゆる性質の概念」の前提として示すとき、この「先概念」の教育は、神すなわち「完全性」の認識と、これに基づく「完全性の追求」とを可能にする、ということを意味していた。


こうして「先概念」の教育は、子どもの教育の起点として、すなわち子どものあらゆる感覚が依拠する認識起点の形成として理解され、大人が子どもを捉える際の一つのパラダイムとして把握される。

「先概念」は、子どもから大人へと至る過程における予備的認識として子どもに与えられるが、これは同時に、子どものもつ認識がこの「先概念」によって規定されると定めることにより、大人がこの「先概念」を足場として「子ども」という存在を把握することにつながるのである。

つぎに、この「先概念」を説明するにあたり、カンペは著述を、父親と子どもたちの会話によって構成する。カンペによる会話形式の著述は、すでに、1773年の論文『宗教の直接的普及と幾つかの不十分な証明法についての哲学的注釈』でも用いられており、この形式自体は新しいものではない。

しかし、以前のこの論文に見られるのは、異なる思想的立場にある二人の者の対話であり、例えばライプニッツの『人間知性新論』で用いられているような、18世紀に多用された、思想の説明のための一様式にすぎない。しかし、『子どものための小心理学』における会話形式は、質問と応答が相互に反復されつつ、子どもたちのもつ具体的な経験が、さまざまな心的諸力の定義へと抽象化されていく過程が述べらているという点で、明らかに異なっている。

これは、幸福論において示唆された世代間の教育的関係を、父子という特定の関係の中に収斂させ、明確な構造化を図ったものであるということができるだろう。

すなわち、話者を親子関係という、18世紀的な「家族」の領域に限定することによって、教育的関係は親子関係の中に内包されることになった。
と同時に、「家族」は、私的領域として、公的領域である社会に対置され、ここに社会からの影響を遮断した純粋な教育的関係が措定されえたのである。

また、カンペは、この会話の展開に、一つの方法原理を内在させている。

会話はまず、

父親:「いま何か聞こえたかね。」
子ども:「ナイチンゲールが啼いているのを聞きました。」

という、現時点でのある偶然的な経験から、あるいは父親の指摘によって思い出された過去の経験から、契機をつかむ。
この経験自体は、具体的かつ個別的なものであり、個々の読み手が有する多様な経験の一例にすぎない。

だが、カンペはここで、

父親:「あの啼き声を聞きながら、別のことを考えていた者はいるかね。」
子ども:「いいえ!」
父親:「ナイチンゲールのいい歌声のことだけを考えるために、他の一切のことを考えるのを抑えたのではないかね。」
子ども:「そうです!」

という父親の誘導によって、経験自体から、その経験において生起した心理的動態へと問題を移す。
個々の子どもに即した多様な経験は、この心理的動態への転換によって人間一般へと普遍化されるのである。

そして、この動態は、

父親:「いま私たちの心がしたことを、
一語で言えるかね。」
ヨハネス:「ええ、『注意』です。」

という問答によって、「注意(Aufmerksamkeit)」という能力の名称を与えられる。
さらに、カンペはこの能力について、「ムガル朝の君主」という例を用いて、実際に見たことのない事物についても人間が注意できることを述べ、

父親:「こういったことに動物の心が注意できるかね。」
子ども:「いいえ!」

という問答から、「注意」が、神によって人間と動物の間におかれた区別であることを示す。
そして最後に、カンペは、父親の求めに応じて、子どもに、

ディーデリヒ:「私たちの心は、何かに「注意』することができます。」
「つまり、ある一つのことだけを思うために、他のすべてのことを考えるのを抑えられるのです。」

というかたちで「先概念」の定義を行なわせる。


ちょっと前の文章を持ってこよう。
「人間の精神の本質や特性についての必要最低限の先概念」を、「神とその精神性・不滅の存在・聖なる本質についての正しく適切な概念そこから流れ落ち、従属するあらゆる性質の概念」の前提として「先概念」を示すとき、この「先概念」の教育は、神すなわち「完全性」の認識と、これに基づく「完全性の追求」とを可能にする。


このように、カンペは「先概念」の教授方法として、具体的経験の提示から、心理的動態への転換、人間と動物との区別、定義づけという、一連の段階を構想していたということがいえる。
この「先概念」を用いて、カンペは、人間の心的構造を解き明かし、「心の病(Seelenkrankheit)」の所在を明確にする。

そのためにまず、「心」が、人間と動物に共通である感情や衝動などのより低次の部分と、「神が動物の心に対して我々の心に与えた第一の優位」である「悟性(Verstand)」や「理性(Vernunft)」などといったより高次の部分とに区分できることが説明される。

神による、人間と動物のこの区別は、人間がもつとされる目的、その存在意義が完全性の追求」にあるということを認識するために、これらの諸能力が必要であるという形で示される。

例えば、理性は、「我々を造られた創造主なる神を知り、愛し、そして神の掟の履行により幸福にあずかる」ために必要な能力であり、このことは「理性なき存在には不可能である」とされる。

同様の指摘は、「判断力」や「推理力」、「記憶力」などの諸能力についても繰り返され、動物に対する人間の優位が、各章において強調されていく。

カンペが、人間の「心」を、「驚くべき力や能力の尽きることのない泉」と讃えるとき、それは、この優位が、神の定めた人間の目的にとり不可欠のものであることを意味している。

このような強調は、後半部分において人間と動物に共通に見られるとされる諸力について述べる際に、重要な前提となる。

人間にのみ与えられた諸能力は、動物とは異なり、さまざまな欲求が有益か否かを熟慮したのちに行動に移すことができるという「自由意志(freieWille)」の存在を可能にする。

つまり、「あまりに激しいと他の事柄を見ることも聞くこともできな」くなるような「情動(Affekt)」や「情熱(Leidenschaft)」は、人間にも動物にもある程度共通に見られるものとされるが、それらは「度を越すと有害であり、したがって、適度に幸福に生きたいと願う者は、自分の情動を抑制することを、早期に身につけなければならない」として、人間にはその「自由意志」によって自分の感覚を統制する能力が認められている。

もし、抑制されえない情動、例えば「憎悪」や「功名心」といった情動が存在するならば、それは、感傷的な者の虚栄心と同じく、本来の心の構造、すなわち、より高次の部分による低次の部分の支配という構造から逸脱した「病」として示される。

こうしてカンペは、「心の病」を、現実の経験から遊離し、また、経験に対する情動も抑制できない状態として、人間の心的構造の中に位置づけ、人間が本来行うべき幸福への努力を見失うものとして批判するのである。

以上で明らかなように、後継世代の育成を人類の幸福の前提条件として把握するカンペにとって、「子どものための心理学」とは、いわゆる心理学として人間の心理構造の究明にあたるものではなく、その構造の認識から、さらに、子どもの「心」の構造の構成をめざすものであり、題名にある「子どものための」という修辞にはこのことが含意されていたといえる。

そこには明らかに、感傷主義の席捲に対する強烈な危機意識に裏づけられつつ、幸福論を教育的関係の構造化によって支えようとするカンペの意図をみてとることができるのである。




むすびとまとめ

カンペは、人間の心は、動物の心と違い、神から特別な力をもらっていると主張している。

その力とは、自分の考えや行動を自由に選ぶことができる「自由意志」というものだ。

カンペは、人間は、自由意志を使って、神様の望むように生きることができると言い、それが人間の幸せにつながると言っている。

しかし、カンペは、人間の心には、「心の病」というものがあるとも言う。
「心の病」とは、自分の感情や欲望にまかせて、「憎しみ」や「自慢」など、神様が望まないことをすることだ。

この「心の病」を治すためには、自分の感情や欲望を抑えることが大切だとカンペは言った。

カンペは、人間の心が何なのか考えて、自由意志や心の病を説明しようとした。
彼は、人間の心を理解することで、人間がどう生きるべきか?
それを教えようとしたのだ。

大したことのない内容だと思いましたか?

このたった数行の内容を発見、検証して認められるまでに人生の全てを賭けた人たちがます。
それを子供・生徒はたったの数時間、あるいは数十分で学ぶ。それが教育です。

先達は後進のために道を作る。自分と同じ苦しみが減るのを願って。
自分で苦労して学んで欲しいという人も居ますが、教育の全てにそれを適用するのはただのエゴです。

自分が減らされた時間をより有効に使ってもらい、生徒に更なる未来のための、新たな技術や考え方を産み出してもらう。
教育はそのためにあります。

大昔の学者が一生かけて解明した公式、事象。今の時代はAIを使えば、それらを一瞬で手元に引き寄せられます。
これからの時代、より多くの人が、同時に様々な研究をして行くことでしょう。この数十年で急速な技術発展が成し遂げられていますが、それらは全て先代の恩恵です。さて、これから先の10年が楽しみですね。


次はジョエル・ファインバーグに関しても触れたいですね。

つい先日、身内の会話で、なろうのざまぁ系は、シャーデンフロイデではなく、サンクションなのでは? という指摘がありました。

私はその言葉を脱糞しながら「うーん」考えました。

シャーデンフロイデとサンクションの違いについて考えてみましょう。

シャーデンフロイデは他者が不幸、悲しみ、苦しみ、失敗に見舞われたと見聞きした時に生じる、喜び、嬉しさといった快い「感情」です。

一方、サンクションはある行為に対して罰則を科すことで、その行為を抑制することを目的とした制裁の「システム」です。

サンクションは罰を与えるべきかどうかの話です。
ただ、「罪」と「罰」に感傷的解釈からなる「道徳」が絡むとどうなるでしょう?

この疑問に対しては、倫理学と法学の架け橋となったJ・ファインバーグの著作から、なにか学べるものがありそうです。

うんうん。なろう小説にも役立ちそうな、ちょっと興味深いテーマです。
いつやるかはお約束できませんが、そのうちやります。


今回読んだ論文はネットで見つけた

Position and significance of
”Seelenlehre”
in the educational
thought of Joachim Heinrich Campe .
Noritsugu YAMAUCHI

になります。ではでは!

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