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完全性の追求と、それにまつわる危機意識(その2)

めちゃくちゃ長いですが、たぶん、この論文に関する読み解きは次で終わりです。
……たぶん?
内容が乱雑になったので、(その3)で結びの文を書こうと思います。



『若きロビンソン』の序文で、当時の社会を席巻していたある風潮について、カンペは次のように語っている。

「我々の全ての身体的、精神的本性のあらゆる諸力において、生きる喜びの総和が真に明らかに現象しているため、2,3年来、恐るべき荒廃をひきおこしている」

「そして、人々が恥とする別の同じような病気が、人間的な心の健康を人知れず蝕んでいる」

ここでカンペはこの病に「感傷過多症」という名前を与え、この風潮によって生じたとされる道徳心の弱まりを
感化し得ないものとして糾弾している。

『テオフロン』では「真の永続的な友人関係にとって、何のためにもならない」
『アルゲマイネ・レヴィジオン』中の論文では、「子供を幻想によってかき乱すための娯楽」

以上のように他の場でも同様の論旨のもとに取り上げられており、
カンペがこの流行に対して抱いた危機意識は彼の背後に常に存在していたと考えられる。

カンペの批判は当時の文学的状況が大きく反映している。
18世紀の中頃より、ドイツでは市民道徳と緊密なつながりを持った、新しい文芸が急激な展開を見せた。

この流行はこれまでの※主知主義に対する批判、感情の規制を本質とする礼節や常識に対する批判としての性格をもっていた。

※主知主義:人間の精神を理知・意思・感情の3つに分類した上で、知力や理由を重視する文学・哲学的立場のこと。

本来人間の感情の解放を主眼としていたこの流行は、感情の堕落と言われるほどにその方向を極端にする。
そして宗教心、道徳心の堕落として、「感傷主義」の名で批判をあびることとなる。

ここでいう感傷主義だが、我々が想像する以上にエグい。
戦争を美辞麗句で歌ったようなプロパガンダ、中傷を目的とした歌、そういったものも指している。

アメリカの9/11 以降、「リパブリック賛歌」がそこいら中で演奏されたことについて考えてみれば、少し判りやすいだろう。実際当時のドイツ(プロイセン)でも、ナポレオンに破れた後、愛国心を刺激するような歌が作られたのだろうか。
(ちょっと資料を掘る時間がないのでここの検証、追加は後で)

カンペはこの感傷主義の批判を展開して、その中で感傷と感受性を対比させ、両者の区別を説明する。
感受性は現実の経験に結びついており、具体的な経験によって、本来感じられる以上の感覚を生じさせることはない。

感受性のある者は、明らかに把握された基盤の上に理性を常に基礎づけ、そしてここから人間の本性と調和するのと同様、他の事物の本性や定めとも調和する。
そしてこの事により、感受性は「なにか道徳的なものを内に含む感覚のための何か」であり、人間の幸福のために必要な能力として示される。

一方、感傷的な者の感覚は「人為的」であり、
「たんにその曖昧な感情に基づいているが、それは他人を慣習的に美しいとか醜いと思う感情であり、そして人間の本性や定めにも反していることは稀ではない」
そして、感傷のための感覚器官は実際には存在していないため、熱い、寒いとちがい、その感覚の基準が存在しない。

それゆえ、感傷的な者は、実際の経験から本来得られるはずの感覚から離れ、他者に気にいられるかどうか?
その反応をうかがいつつ故意に何らかの感覚を演じることになる。

すなわち、「感傷は、自分に注目されたり、何者なのかを示すことが何らかの値打ちをもったりするような場合を除いて、常に無駄である」

しかしこれは情報化社会の今だと意味が出てしまう。
SNS時代だから、感傷がより価値を持つことになってしまったのだ。

そして内容が難解なので噛み砕いていく。

カンペは感受性を現実の経験と人間の本性に確固たる基盤をもつ感覚とする一方で、感傷を人間が本来的にもってはいない。感覚の虚構として示している。

例えば動物の痛みを想像しろ、地球の痛みを想像しろ、何でそんな事ができるんだ!という主張を考えてみて欲しい。

我々は動物でもなければ地球でもないので、痛みと言われてもわからない。
なぜ彼らがそんなに苦しんでいるか理解できない。それはそうだ。
経験できない感覚の虚構について叫んでいるからだ。

自らの内に判断基準をもちえない感傷的な人問は、必然的に外部の恣意的な基準、すなわち周囲の反応によって、自らの感覚を勝手気ままに作り上げる。

感受性を確立している者は、自己の経験に基盤をおくという点で、周囲から独立していて、自由であることができる。

これに対し、感傷的な者は、自己の経験から独立しているという点で一見自由に思える。

しかし、自己を導いていくべき正しい方向を認識しえず、その基準が周囲に依存しているという点で、完全に隷属状態にある。

ここで、感傷主義の流行によって既に堕落した現実社会をみるならば、どうなるか。

「騒々しく、情熱的に見え、効果を求めてあえぐ感傷的な者」同士の関係の中での相互作用によって、すなわち、いかに相手に自分の虚構的感覚をもっともらしく見事に示すかという「虚栄心」に駆られた競争によって、実際の経験と人間の本性から虚構的感覚をますます遊離させていくことがただちに予想できるであろう。

つまり、地球に対して優しい僕たちは道徳的な人間だね! 動物にも優しい僕たちは優しい人間だね!

というお互いの呼びかけに陶酔して、何かよくわからんバッジとかバッグとか買う事に意味を見出す。ということだ。

本来は環境問題に対する技術開発や、法律の制定のための議論と実地調査が必要なのに。

現実の内に確固たる基盤をもたず、虚栄心に左右される人間関係に縛られた人間。
これがカンペが見た当時の大人の姿であり、これはそのまま、カンペの求めた人間の幸福を反転させたものでしかなかった。

そして、感傷主義のこの流行は、カンペが「人がこの病気の甘く心地よい毒を我々の若き子どもたちにも渡していること」以上に「私を嘆き悲しませるものはない」と語るように、子どもにも直接的に影響を及ぼし、先の幸福論において述べられた世代間の関係を危機におとしいれる。

子どもはこのような社会の中で教育をうけねばならないが、それはまさに、現実社会の非現実的な風潮を将来の世代が相続し、社会で培われたものを競争によってさらに拡大悪化していくという過程にほかならなかった。

大人の社会における感傷主義の流行は、子どもを「現実の世界とは別の空想された世界」へと導く。

結果として、子どもは現実の幸福を損なうことになる。
耒来の世代である子どもが、人間としての本来の目的を見失ったとき、神の被造物としての人間存在も、また意味を失う。

カンペの言うことを今の時代に照らし合わせると、環境問題に関心のある『良い子』人権問題に関心のある『良い子』を教育して作ってもダメなのだ。

そこで終わりにしてはいけない。彼らの人生をこんな虚構を喜ぶ者同士のサークルの会員として、人生を消費させてはいけない。そういうことになるだろうか。

こうしてカンペは、感傷主義を、彼の構想した幸福の成立基盤である人間関係、すなわち、教育関係を損ねている、ひとつの重要な問題として認識することになる。

この点において、感傷主義という現実は、カンペの児童・青少年文学への関心を考えるにあたって、きわめて重要な背景として注目されねばならない。

例えば『若きロビンソン』の序文では、カンペはこの本を「当代の感傷的な書物の※対蹠地」として示した。

※対蹠地 反対側の場所のこと。日本におけるブラジル。

「現在我々のいる現実的世界にはどこにも存在しないような幻想的な牧場から、子どもの心を連れ出す」ものであると述べているように、彼は自らの児童・青少年文学を感傷という「毒」に対する「解毒剤」として位置づけ、これによって自らの幸福論の貫徹を図った。

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