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完全性の追求と、それにまつわる危機意識(その1)

ツルハシの思想的バックボーンになりそうな論文を見つけたんで
そこから何ぞ学習していこうとしてノートに書いてったらこうなりました。
多分、ツルハシ男よりは、ファウスト寄りかも……

どうでもいいけど、思想が強すぎるッピ!!!


国家あるいは社会の欲求、あるいは個人の信条に基づいて教育は行われる。
教育とは人間を一個の製品としてみなした時、完全なものになることを目指していく。

そこで、ヨアヒム・ハインリヒ・カンペの「完全性の追求」から、ちょっとそのアプローチを勉強してみようと思う。

というのも、カンペの人間論の基本は私にとって同意できるものと思われるからだ。

彼の幸福論に見られる完全性への志向は、必然的に当時の流行であった感傷主義に対する危機感になっていて、その上に教育論が成立している。

この時代は啓蒙主義の時代で、「宗教からの思想的解放」が大きな流れだった。
それは「人間の存在目的」を根本的に問い直すという意味もあった。

この問い直しは宗教や道徳に依存した教条を、理性で批判すると言った形で示された。だが、それがそれまでの人間の目的や意義を否定しようとしたというとちょっと違う。

カント以前は「真理とは普遍的なもの」だったが、カント以後は「真理とは人類相手に成立する真理」になったからだ

それよりはこう、『宗教が与えた目的が、現実的な世界でズレているのを「理性」という新しい世界観でなんとかしようとした』という方が正しい。

つまり否定や支配ではなく、折り合いをつけただけ。世界の主体が神から人へ変わったわけではなく、(哲学的な意味で)神の存在は依然として大きいものだった。

ここでキーワードになってくるのが「幸福」になる。

「死後、宗教による救済」に対比して存在する「生前、理性による救済」。
生前の救済がどういうものかというと、現世における個人の幸福と、社会全体の福祉を指している。
理性的に道徳的な世界観とは、弱い人が他者に助けられ。生存することを許される世界といっていいだろう。

カンペの話に戻るが、彼の幸福論を語る上で、この啓蒙主義の「幸福」が理論のベースになっていると理解するべきだろう。
ただ、『宗教の直接的普及といくつかのその不十分な証明法についての哲学的注釈』を著すなど、彼の思想はキリスト教信仰とも密接に関係している。
カンペが人間の存在論的根拠を問う時に述べるのが、『神が創造にあたって人間に与えた目的によってのみ、その基盤を確保されねばならなかった。』ということだ。

カンペはこの幸福論を一貫して保持しており、明確な形での表現もある。1785年『アルゲマイネ・レヴィジオン』の中で、『神が人間を創造した目的は、「より完全になること」であり、最初から不完全なものとして作ったのは、神の属性である完全性を追求することを目的として与えたことにほかならない』 カンペはそう主張した。

この完全性の獲得こそが、人間の究極の幸福にほかならない。
しかしこの完全性の獲得は、人間の究極の幸福とされる一方で、その獲得は神の世界=死後においてのみ可能である。

現世にある人間はこの究極の幸福を想定しつつも、現世における、「他・昔より良い」相対的な幸福を獲得する努力をすることになる。
幸福であることは、人間の究極の目標である。
しかし、これはよリ高い到達のための手段にほかならない。
カンペの語る「完全性の追求」とはこの「完全性」という理念によって、不完全性を絶えず批判されていくことを意味する。

さて、現世における人間の目的を「完全性の追求」におくとき、個々の人間と社会はある教育的な構図のうちに位置づけられる。

まずは認識だ。
完全性の追求が可能となるためには、現時点での相対的な幸福とその不完全性さを個人個人が認識しないとならない。
しかし、この認識自体は、個人の諸能力の向上をもって得ることが可能になる。

カンペは人間の諸能力がこの目的のために与えられたものとし、
・「個人が自らの「諸能力を高めること」
・「生活の中で自らをできるだけ完全なものにすること」
と等しい意味を持つものとした。

個人の諸能力の目的をこのように規定したのち、そのような目的が与えられた個人が自他の不完全性を認識し、さらなる幸福を実現する場として、カンペは社会を示す。

すなわち完全性の追求は、我々の同胞も同様に達成することを可能な限り目指すようにする以外に達成し得ないものとして、また隣人の幸福に寄与するために、自らのあらゆる力を持って努力するというようにしか、真の永続的な幸福には到達し得ないものとして認識される。

ここでひとつ挿入したいのが、現代がある意味ディストピアに片足を突っ込んでいるというアノニマスの指摘だ。

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世界は自ら滅びへ向かうのではありません。
正確には殺されつつあるのです。
世界を殺している人々には、きちんと名前があります。

そういった出来事は、利己主義がエリートだけでなく、社会のあらゆる階層に存在するときに始まります。

全ての人が隣人を挫こうとすることから
全てが始まるのです

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つまり、社会とは個人の上位概念として位置づけられるだけではない。
現時点での幸福から、より高次の幸福へ発展するための場所として把握するべきなのだ。

いってしまえば、大きな主語で大きな概念を語ること自体は、何らおかしいことではない。
大きな概念で「場」を語るのは、「場」の不完全性を認識することにその目的があるからだ。
批判のためにチェリーピッキングを行い、批判のための批判を行う事に比べれば、なんということはない。ということになるのだろうか。

さて、個々の人間は他者との社会関係を通じて、相互にその幸福を増進させることを目的とする。
さらに人類全体として大きくひっくるめるなら、現世代の我々は、自分たち世代の幸福を維持しつつ、後継者である次世代では、さらに幸福が増進されるように努力しないといけない。

そうしないと、ディストピアやポストアポカリプス世界へまっしぐらだ。

カンペはいう。
「不滅な存在が過去と未来のどの時点においても、また現在も幸福であるべきということ意外を、我々を造られた愛なる神が望まれるはずがない」

教育とは次世代に向けたものだ。
現世に於けるより良い未来のために我々は子供を教育するのであり、来世、彼岸の世界のためではない。
今だ。この世において、他人にとって無害である限りは、満足で幸福な生へと導くために教育はある。

「そして摂理(完全性の追求)が子供にその力と機会を授けようとするのと同じだけ、子供はその同胞の幸福に寄与しうる。」

カンペにとって、人類の幸福は後継世代の教育無くしては完結し得なかった。

カンペの幸福論は、社会全体を教育的空間として把握させることになる。
彼の幸福論は、教育的空間の※措定を持って初めてその意味を通すことが出来る。

※措定:推論のたすけを借りないで、ある命題を主張すること

『若きロビンソン』に代表される児童・青少年文学は、カンペにおけるそのような教育的空間を、文学という形式で実験的に構築する試みとしてみることも出来る。

注目したいのは、彼自身の教育に対する意識が、文学への関心を支えていたのでは、ということだ。

すなわち、カンペが現実の社会を捉えた時、彼の幸福論に示された「完全性の追求」という人間の目的、それを不可能にしてしまうような人間関係の危機、それを執筆の際、意識せざるを得なかった。

その危機意識とは何か?
これは「ツルハシ」を書くうえで、作者である私も意識していたものだ。

『感傷主義』だ。

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