おはようございます、お疲れ様です。今日は少し真面目な話というか、ここ最近少し話題になってることについての自分なりの見解についてです。あくまで、五年ほど業界にいた人間としての、個人の感想を踏まえた文章として読んでいただけたら幸いです。
例によってまた「敗軍の将が兵を語る」というものです。
どうしてそう知ってて、わかっててそうなのか。
これは「敗軍の将にしかわからぬ兵」でもあります。
もしよければ、ほんの少しだけお付き合いください。
先日、和久井透夏先生の「おめでとう、俺は美少女に進化した。」がカクヨム発の書籍化作品として発売されました。しかし、発売直後にもかかわらず、続刊が予定されていないことが明らかにされました。そのことについて、多くのカクヨムユーザーに驚きが広がったと記憶しています。氏の作品は非常にユニークな着眼点の中で、女装男子というモチーフをエンタメ作品として見事に昇華させています。カクヨム内でも数少ない、1,000個以上の★を獲得する人気作でした。
では、何故続刊が出されないのでしょうか?
そのことについて、自分なりに考えたので記しておきます。
因みに、心情的には「最低でも三巻まで出させてよ!」っていう気持ちで一杯です。せめて二巻まで…既にカクヨム内では続編が書かれており、非常に完成度の高いクオリティです。せめて、物語を畳むことをゆるして欲しい、広げた風呂敷を「書籍化版」なりの最後で畳ませて欲しい。一人の創作家として、終わることすら許されず「永遠の未完作品」として残るのは、非常に悲しいです。そのことをまず…感情面では完全に、自分は氏を応援したい気持ちがあり、続刊なしという処遇に憤りを感じています。
さて、ここからは論理と合理の話なのですが、ライトノベルと言われるジャンルの中高生向けヤングアダルトノベルは、どういう風に処遇が決められているのでしょう。それは多くの場合(全てそうだとは確信がないのですが)発売されてから一週間、いわゆる「初動」と呼ばれる売上金額で「続きを出して売るか」「次巻で完結して打ち切りとするか」「そのままフェードアウトの打ち切りにするか」が決まります。現代のライトノベルでは「口コミでじわじわ売れて評判になり、人気作へと成長してゆく」というスタイルは、ほぼ全くと言っていいほど見受けられません。
何故でしょう?
初動でなにがわかるのでしょう?
一週間で百冊売れた作品が、一ヶ月で一万冊売れる可能性は?
本当に初動の数字だけで、決めてもいいのでしょうか?
現在、現実として出版社は初動の売上で今後の指針を決めています。それは何故か…端的に言うと、出版社も苦しいからです。長引く不況の中で、格差社会が広がっています。正社員にすらなれず不安定な雇用状況で低賃金、毎日を暮らすのがやっとで結婚できず、車も子供も持てない若者たち。メインターゲットの中高生ですら、親の経済状況でお小遣いが決まるため、一冊600円前後のライトノベルにさえ気を使い、失敗しない買い物しかしたくない現状。残念ですが、非常に寒い時代が続いていて、その影響は少なからずあります。
そうした中、出版社は大きく損をしない、リスクを回避した活動を余儀なくされています。つまり、前例となるデータに基づく「石橋を叩いて渡る」という戦略です。成功例をなぞることで、同規模の成功のみを拾ってゆく…そうした方針を責めることは、自分にはできません。出版という事業は、多くの人間のチームワークでなりたつ、利益追求を前提とした経済活動だからです。
今まで成功した名作、大作、売れた作品…それらはほぼ全てが「初動でまずドカンと売れた」というデータがあります。手堅くいきたい時、人は必ず過去のデータを重視します。しかしそれは「失敗から学ぶ」「歴史から学ぶ」というよりは、多くの場合は「前例があることで安心感を共有する」という、あまり活用されているとは言い難い状況でのみです。つまり「過去の売れ線は全て初動でドカンと売れていた、だから初動でドカンと売れない作品は売れ線ではない」という論理があって、それを仲間内で共有している限り、誰かが責任を取る、出版社が損害を被るという事態を回避できるんですね。
世知辛い、身も蓋もない話に感じるかもしれません。
しかし、商業創作は常に、利益を出すことを宿命付けられます。
こうした「前例ありき主義」の影響は、書籍の流通以前に、作品作りにおいても影響を与えてきます。御存知のように、和久井透夏先生の「おめでとう、俺は美少女に進化した。」は、女装する主人公、男の娘をテーマに扱っています。男の娘というのは現在、一つのジャンルとして確立し、根強い人気を誇るモチーフとしてポピュラーでメジャーな属性になっています。自分としては厳密には「男の娘」と「女装男子」は、それぞれに違った楽しみがあって、共通点も多いけど別物、どっちも素晴らしいから大好きです。が、そのことは実は、出版社や編集部には関係がないのです。
実は「男の娘」「女装男子」というガジェットは…イロモノです。
ゲテモノとさえ言える素材だと、出版社や編集部は考えています。
サブヒロインの一人としているなら、まあいいだろうという認識。
メインヒロイン、まして主人公に男の娘や女装男子というのは、困るらしいです。なぜなら、男の娘や女装男子にはおっぱいもおまんこもないからです。メインターゲットの中高生男子が憧れる、女の子のアレコレがないんです。童貞たちが、童貞力をこじらせようがないエロ要素…それが男の娘です。男の娘や女装男子で十分に楽しめるのは、成熟した一部の大人なんですね。
ただ、男の娘や女装男子で面白い話は作れます。それを和久井透夏先生の「おめでとう、俺は美少女に進化した。」は証明しています。しかし、前例としてまだ、男の娘や女装男子をメインに扱ってドカンと売れたラノベがないんですね。未来によき前例となるであろうものを育てる力が、余力が今の出版業界にはありません。バブルの時代には様々な野心的作品、革命的な物語が生まれ、その一部が名作として今の前例となっています。その影で、今以上に多くの作品が打ち切られたのも事実です。しかし、今は「未来へ遺産として残せるいい前例、成功例」を育む余裕が出版社にないように感じます。
以前、男の娘の主人公を扱った企画書を作り、編集会議にかけてもらったことがあります。基本的にラノベ作家は、最初に担当者に企画書を提出し、プロットを見てもらい、一緒に直して、最後には編集会議にかけます。編集会議で編集長以下複数の編集者の精査を経て、ゴーサインが出れば書き始めます。編集会議は最後の難関であると同時に、編集部全員と作家の、よりよい作品、なにより良質の製品や商品を造るためのガチバトルです。勿論、決勝戦である編集会議にたどり着く前に、担当者とのタイマンバトル、予選を勝ち抜く必要があります。
自分が提示したのは、美少女だらけのビーチサッカーチームで、怪我により引退を余儀なくされたサッカー少年が女装して戦うというものでした。意図的に「絶たれたサッカーの夢が、砂浜という環境でなら怪我に負担なく続けられる」「でも、そのためには女装しなければいけない」という葛藤の要素、そしてキャッチーに「ヒロインも主人公も、かわいい水着姿」という様相も考えてました。あざとく、えぐく、そうしてまず編集部に好かれないと作品として「書きたいもの」を出せないからです。
しかし、残念ながら編集会議ではボツになってしまいました。自分の力が足りなかったことが原因で、そのことに悔いはありません。しかし、ボツになった理由の一番大きなものが「メインが男の娘というのはありえない」というものでした。つまり、編集部がメインターゲットと見据えて、一番本を売りたい相手である中高生男子には「男の娘って、かわいくても男なんでしょ」と思われ、売れないだろうという判断です。男の娘に対してかわいいと感じる、魅力を感じる、萌えるブヒれるおっきする、これはニッチな一分の人間のみで、そうした人たちだけの購買力では商売にならないという判断です。
一見して、理路整然としています。
しかし、それは「作品に対する評価」ではありません。
勿論、自分のプロットや企画書は未熟でした。
ただ、その未熟さや稚拙さに対する、改善や改良の余地を惜しまれてしまった。男の娘というだけで売れないことがわかってるとばかりに、終わってしまった。よりよくこの作品を仕上げるには、どうすればいいかと考えてもらえなかった。
そういう現実を自分は、何年か前に味わったことがあります。
そして、そのことで誰も責める気にはなれず、わだかまりを抱えたまま創作を続けました。結果、書きたいものや読みたいものではなく、一冊でも多く売ること、強いては「編集部に売れると思わせること」のみを考えるようになっていきました。自然と打ち合わせでも、編集部が提示する案を鵜呑みにするようになったんですね。それは、出版するたびに打ち切りばかりな中で「これ以上失敗すれば切り捨てられる」という生活への不安から極端化し、ついにはそれが原因で「編集部の担当さんが言う通りに書くマシーン」となった挙句、機械としての精度の低さゆえに戦力外通告、切り捨てられてしまいました。
自分は今でも、その結果が苦い思い出であると同時に、責任に感じています。自分の今の状況を導いたのは、他ならぬ自分の弱さ、無能さ、そして浅はかさです。なので、現状の出版業界をよく知ってもらい、心身ともに身構えて欲しい…そう思っていつも、筆をとっている次第です。
今の出版業界、特にラノベ業界は病気を患わっています。「臆病」という病です。それは、体力が落ちてきた出版社が「失敗できない、失敗したくない」という中で蔓延した病魔です。故に、前例を引き合いに出して頼り、常に「失敗しても誰も悪くないんだよ」という予防線を張った仕事に終始させている気がします。
過去の名作が売れたのは、様々な要因が複雑に絡む中での、偶然です。
はっきり言いましょう、運良く売れたんです。
勿論、その運を引き寄せる努力を、関わる全ての人が尽くしたからです。
本当に実力があって努力してる人にしか、幸運は訪れません。
でも、ぶっちゃけて言うと「運」なんです。
世の中には「売れるラノベ」なんて一冊も存在しないんです。
あるのは「売れたラノベ」だけなんです。
本当です、あの名作この名作…出す時期や社会情勢、風潮が違うだけで売れません。
全ての名作ラノベが売れたのは、理由もなく「結果論」なのです。
勿論、クオリティが高かったのは事実で、しかしそれも結果論。
売れた大作は「クオリティも高かったし、なにより運がよかった」というだけです。
では、ラノベ作家の仕事というのは、そうした博打めいたやくざな商売なのでしょうか? 答は否です。ただ、冒険と探求を忌避し、過去の栄光をなぞることが手段ではなく目的化している今のラノベ業界では、とても困難な戦いを強いられる人が増えています。作家は勿論、編集者や広報、営業、書店の店員に至るまで全てそうです。「売れた作品の売上は、全て結果論」ということを知ってても「結果ありき、前例がこうだからならうが無難」としか動けない現状は哀しいですね。でも、企業は利益の追求とリスクの削減を強いられますし、そうしなければ社員を食わせていけません。しかし、その社員たる編集者は作家たちの生活を、命を握っているんです。編集者の采配一つで、作家は失業するし無収入になる。そういう中で数字に直結した結果を出すべく努力しても「好きでやってるんでしょ?」「実力社会だから、実力ないなら駄目ですね」という、まるで詰将棋のような論法がまかり通っています。
そして、多くの場合、そうした出版社サイドの見解へ反論する言葉を作家は持ちません。文字通りグウの音もでないです。才能がない、技能がない、能力が足りない、そう言われると受け入れるしかない弱肉強食の世界。では、その足りない部分を補ってくれるのが編集者ではないのか、とも思いますが…出版社としては「前例にそって売上に貢献できない人間にかけるコストより、新しい人間にやらせてみるコストの方が安い、割に合う」というのです。あ、直接聞いた訳ではありません。現状から自分がそう判断せざるをえないということです。毎年、百人単位でラノベの新人賞からニューカマーがデビューしています。しかし、その影でそれ以上の数の作家が切り捨てられているのです。
ここまで話して、ながやんの被害妄想や偏見、無能ゆえ打ち切られた人間の戯言と思う方もいると思うし、疑う気持ちを自分は健全と思います。そんなことはない!と戦える方には、精一杯の応援をさせていただきたいです。しかし、事態は大人の事情が絡む複雑なものに見えて、シンプルです。まず「作家の実力があればよかったんだけどね」と出版社が言えば、それで詰んでしまうこと。そして、その出版社には、そう言わざるを得ない台所事情があるということ。冒険できない、苦しい時代なんですね。
でも、自分は悲観的に考えていません。
こうしたものは、伝統ある旧来の出版体勢が直面する、未来との齟齬なんです。
大昔、夏目漱石先生や芥川龍之介先生といった大文豪先生が活躍していた時代、出版以外に小説媒体の表現方法がなかったんです。そして、多くの文豪は(全員ではありませんが、比較的)経済的に裕福でした。今は、ネットで公開し、必要とあらば電子書籍を手軽に自費出版できる世の中です。今、確実に「本」というものの流通が過渡期を迎える中で変革しようとしています。いつか全ての作家は、編集者を必要としなくなるかもしれない…それよりも、より密接でビジネスパートナーとして信頼し合える編集者との、全く新しいビジネススタイルが確立するかもしれない。
ただ、今は「前例ありき」の中で、手堅さに負ける作家が増えてゆくでしょう。
それでも、焼け石に水だとしても、これだけは知ってほしいです。
過去のデータに縋るしかない程、弱った出版社を責められません。そして、それゆえ閉ざされつつある物語の未来を、書店員さんやカクヨムユーザーの皆様が支えようとしている。本当にいいものを、多くの人に伝えようと頑張ってくれています。自分は、そうした個人個人の活動を促すパワーを持っている「おめでとう、俺は美少女に進化した。」は、やはり間違いなく素晴らしい作品だと思います。この作品がどういう層にどれだけ売れて、今後どうなっていくかを育てて見守ることは…ラノベ業界にとって大きな利益になると感じました。
最後にこのことを知ってほしくて、長文駄文を連ねました。
世の中の全ては、経済に直結した側面を持っています。
友情や愛情、志や野望、欲望といったものと無関係に、無慈悲な経済が存在します。グローバル社会になって既に十年以上、利益の追求、それ自体を追求した時代です。
かつて創作家、芸術家はパトロンと呼ばれる裕福な者たちの経済力で支えられ、多くの傑作を残しました。裕福な者たちにとって、お抱え創作家を食わせて養うのは、ノブレス・オブリージュ、高貴なる義務にも似たものであり、同時に己の権威を誇示するステータスだったかもしれません。しかし、過去の文化はそうした、ある種生産性や経済観念から開放された者たちの創作で豊かになってきたのも事実です。今、世界は利益追求の中でコストやリスクを圧縮、減殺する方向へ傾いています。そんな中で、どうしたら多くの創作家が生きていけるか…自分は考えを巡らせずにはいられません。