四葩は気づけばそう問いかけていた。これ以上関わってはいけない、早く立ち去るべきだ。頭ではもうひとりの自分が警鐘を鳴らしている。
けれど一度口にした言葉は取り消せないから。そう言い訳をして、四葩はかしましい音から耳を塞いだ。
「彼方、お社の前でずいぶん長く祈ってたよね」
「見られてたのか。……実は俺はもうすぐ十八になって、今通っている寺子屋を出ることになる。そうしたらうちは百姓だから、家の手伝いをしようと思っていたんだ。だが母たちに、西都の大学校に進んでくれと言われてしまった。勉学が好きな俺のために言ってくれていることはわかっている。だがうちには父親がいない。男手は五つ上の兄だけだ。俺がこの地を離れてしまったら、ますます母たちが苦労するのではないかと思い悩んでいた」
あれから六百年という途方もない月日が流れた今も、この世界はあまり変わっていない。外海の文化や技術が流れ込んできて、大きな産業革命が起こるといった、四葩がいた日本の歴史を踏襲することはなかった。
ここはあくまでゲームを元に創られた世界で、元より外洋に大陸が横たわっているわけではない。なにより創造主たる優月が、変化を望んでいなかった。
片割れの神は、夢中になったゲームの世界を愛していた。だから世界も、神に愛された姿形を変えようとはしなかった。
変わったところといえば、四大大里の中で最も発展していた逢魔ヶ谷の技術が、全国に広まったことくらいだ。
逢魔ヶ谷は自ずと発展の中心地となり、今や“西都”と呼ばれ、人や物や情報が集まる一番の都として栄えている。
大里の出身者も僻地の村出身者も、みんな西都に憧れている。西都に行けばまず仕事にあぶれることはなく、家に仕送りすることも可能だろう。
彼方の家族の提案は、悪い話ではなかった。
「彼方は西都に行くの、嫌?」
「いや……」
問いかけたとたん、彼方は目を泳がせもごもごと口ごもる。四葩はその心を見抜き、やわらかく笑いかけた。
「いいよ。正直に言って」
「あー、本音を言うとすごく興味がある。西都の船について学びたいんだ。歴史とか製造技術とか、あと航海術も」
「素敵。勉学が好きなら、彼方は航海士に向いてるんじゃないかな。でも彼方は、家族のことも大切にしたいんだね」
彼方は目にほんのり呆れを浮かべて、うなずく。
「姉が婿をとってくれればこんなに悩まないんだが。長子である兄を差し置いて、自分が先に片づくわけにはいかないと言うんだ。その兄が気の多い男で、あっちこっちで女を作っては袖にされている。もはや花散里で相手にしてくれる娘はいないだろうから、篠突雨池で探す他ないという始末だ……」
「なんか懐かしいなあ。私の友だちにもいたよ、そういう人」
篠突雨池の青帝となった彼は、里の命運をかけた大戦でともに戦い、ともに復興に心血を注いだ、農耕地域の娘と結婚したと聞く。結婚してからは意外にも一途な愛を貫き、側室もとらなかったから大層周囲を驚かせたそうだ。
きっと彼はようやく、本気になれる相手と巡り会えたのだろう。
郷愁に浸っていると視線を感じる。四葩が見ると、彼方はなんだか難しい顔をしていた。
「我が兄ながらおすすめはしない。四葩はああいう男に捕まるなよ」
「ふふっ。それはないよ」
だってもう会えないから、と胸中でつけ足す。嵐はとうに天へ昇り、四葩の心は未だ日向に捕らわれたままだ。彼以外なんて考えられない。
「四葩はなんだか――」
ぐるるるるる。
彼方の声が奇妙な音に遮られる。出どころを辿って隣を見ると、彼方はサッと顔を背けた。
「今、彼方のお腹」
「鳴ってない」
「お腹すいてるの?」
「す、すいてるわけじゃなくて、ちょっと腹の調子が悪いんだっ」
また腹鳴が鳴る。彼方は腹を抱えて背中を丸めた。体が細いと思っていたが、生まれつきのものではなく、十分な栄養がとれずに成長が停滞してしまったのかもしれない。
四葩は懐から巾着を出す。その中から懐紙でいくつか小分けにした包みを広げた。
「私もお腹すいちゃった。よかったらいっしょに食べない?」
「これは天道か?」
「あ、うん。ぶどうととちの実が入ってるの」
天道と言われ、四葩はむずがゆさを覚える。
長い眠りから覚めて世界を見回った時に気づいたのだが、四葩が前世知識で作っていたクッキーが天道と呼ばれ、全国に広まっていた。名前の由来は丸い形が太陽に似ていることと、天照が愛した菓子だからだそうだ。
一体誰が、どのようにして広まっていったかはわからない。だが四葩は、菓子作りを手伝ってもらった花散里の庖丁人、柳あたりが怪しいとにらんでいる。
彼方は腹の衣をぎゅっと握り、申し訳なさそうに眉を下げた。
「せっかくの誘いだけど、遠慮させてもらうよ。腹の具合がよければ相伴に預かったのだが。それにしても天道にとちの実は珍しいな」
「いろいろ作ってみたんだけど、とちの実とくるみが一番おいしかったんだ」
「作った? まさかそれは四葩の手作りなのか!?」
そうだけど、と答えると彼方は固まる。目は天道に釘づけだ。表情がまるで栗の渋皮を噛んでしまったように、険しくなっていく。
わかりやすいなあ、と四葩は天道をかじる。六百年と三十四年間も人生経験を積んでいると、冷静に人の表情を分析できるようになるものだ。
四葩はあえてからかい、彼方の心をつつくことにした。
「もしかしてまずそうって思ってる?」
「なっ、違う! そんなこと思ってない! むしろ、その……っ」
「本当? じゃあ食べてみせてよ。一枚くらいならどうってことないでしょ?」
「うっ。まあ、そうだな、一枚なら……。疑いを晴らすためなら仕方ない」
ごにょごにょと言い訳を連ねる彼方に、四葩は笑いを堪えるのに必死だった。真面目過ぎてぐるぐる考えてしまうその頭も、本当に日向とよく似ている。
彼方は天道を一枚取り、軽く香りを楽しむ。そして半分ほど頬張った。咀嚼をはじめてすぐに目を丸めて驚く。だんだんと頬がほころんで、細めた目に光を湛える様は、小さな幼子のようだった。
「心地いい歯触りだ。さくさくとほどける。それにとちの実が香ばしくて、うまい」
「ありがとう。口に合ってよかった」
四葩が微笑みかけると、彼方もおだやかな眼差しを返す。
花散里の夏は乾いているが、日差しは一年で最も強く、境内の玉砂利や茅葺屋根をじりじりと焼いている。そんな外界とは無縁かのように、影で隔てられた縁の下は涼しくしめやかだ。
時折、風に乗って届く川のせせらぎと木立のさえずりが、いっそう心を洗う。
「不思議だな。なぜこんなに心地いいんだろう」
彼方が静けさを壊さない声で呟く。
「火鎮神宮には幼い頃から何度も来ているのに、今日はなんだか神に歓迎されている気がする」
四葩がいるからかな。
その言葉に四葩の指は震えた。
「悩みをすんなり話せてしまった。どういうわけかわからないが、君の隣は落ち着く」
「私が、ってわけじゃないと思うな。悩みっていうのはよく知らない相手のほうが話せるって聞くから」
長居し過ぎた。四葩は日陰から出て立ち上がる。
「四葩っ、待ってくれ! もう行ってしまうのか」
すぐに彼方が追いかけてきて、四葩は背を向ける。そうだよ、次の里に行くの。間髪いれずにそう答えればよかったのに、四葩はためらってしまった。唇を開くものの、言葉にならない。
四葩の迷いをついて、彼方は腕を掴んできた。
「もう一度会えないだろうか。四葩にまた会いたい」
息を呑み、耳を疑う。それはまごうことなき、恋歌の扇子を抱き締めながら逝った日向の最期の願いだ。四葩が果たせなかった約束だ。
それをどうして振り払うことができる。衣越しに扇子に触れただけで、まだこんなにも痛い。奥深くに突き刺さって抜けそうにない。
けれど四葩を寸前で思い留まらせたのもまた、日向への愛だった。
「それ、もしかして口説いてるの?」
「あっ、ち、ちがっ。けしてそんな下心からでは……! すまない。不躾だった……」
彼方は慌ててパッと手を放す。
そうだ。それでいい。あなたは日向ではないのだから。たとえ同じ魂を持っていようと、生まれも育ちも違う、ひとつの尊われるべき命だ。
過去の幻影に捕らわれる四葩が、手を取っていい人ではない。
「ううん、怒ってないよ。私も彼方と話せて楽しかった。いつかどこかで、また会えたらうれしいな」
四葩が願いを託せるとしたら、偶然という名の運命の流れだけだ。意図しない邂逅が転がり落ちてくる日をただ待つ。何十年も何百年も。
「そう、だな。また会おう、きっと……」
「きっとね」
「きっとだ」
「彼方」
少し強く名前を呼ぶと、後ろの気配はびくりと揺れた。
「ごめん。私約束は嫌いなの」
「あ……。わかった。なら、俺はもう行く……。道中気をつけて」
「うん。彼方も進みたい道に進めるように、祈ってる」
束の間の静寂を挟み、砂利を踏み締める音が立つ。足音はじれったいほどゆっくりと遠ざかっていった。
四葩はじっと耳を澄まし、彼方の気配が完全に消えてから、張り詰めていた息を抜く。
「なにやってるんだろ、私……」
朱雀、もうちょっとだけいいかな、と断りを入れて階段を上がり、縁から足を出して座る。巾着をしまう代わりに黄ばんだ扇子を取り出した。
開かずに眺める。木骨を留める要はゆるみ、地紙は折り目に沿って破れかけている。もういつ壊れてもおかしくはなかった。
「もうご自身を責めるのはおやめくださいませ、慈母様」
ハタと一羽のスズメが扇子の天にとまる。四葩はぼんやりしたまま、口先だけで笑った。
「こんにちは、ブン吉。今日もまるまるしててかわいいね」
「話を逸らさないでくださいまし! これは我が主、朱雀様もお気に病み、憤っておられることなのでございますです」
「憤る? なにに対して?」
目を合わせるとブン吉はうれしそうにぴょんぴょん跳ね、高欄に置いた四葩の手に乗ってきた。四葩は手のひらを返し、やさしく包み込んでやる。
「お命を懸け大義を果たされた四葩様に対する、人間の仕打ちでございます」
人間の仕打ちと言われれば、思い当たるのはひとりしかいない。
「こよりのこと? あれは違うよ、本心じゃない。こよりは兄を失った直後で、誰かに当たらずにはいられなかったんだよ。その証拠に最期は、ずっと謝りつづけてくれたでしょう? それに日向様がどんな思いで過ごされてきたか、その苦しみ、無念は、私が引き受けるべきものだから」
「であれば、四葩様がご自身を責める由もないはずであります」
ブン吉は小さな鳥胸を張り、ピッと四葩を見上げた。
「四葩様にはお役目がございました。果たさなければ世界は堕ちておりました。そして日向様は懸命に生きられ、ただ一歩が足りのうございました。これは誰もなにも、悪くないはずであります、ええ。なのになぜ、四葩様が責めを負いつづけねばならぬのですか。そこが朱雀様も、このブン吉めも、納得がいかないのです」
「そう言われてもねえ。もうそういう性分としか言いようがないような」
「慈母様、もう重き荷を下ろしてください。これは四神獣様ご一同、我ら眷属一同の総意です。どうかこの願い、聞き届けてくださいますでしょうか」
荷を下ろす。四葩は目を閉じて、自分の姿を想像する。
この扇子を手放して、日向を思い出すこともない。愛なんて知らなかった頃のように優月とふたり、食べて遊んでケンカして、時々人を操作する。想像にかたくない、おだやかで平凡な日々だ。
だけど、
「ごめん。それはできない」
苦しみも悲しみも、醜さも執着もない生き方なんて望んでいない。
それらは日向に恋して教わった感情だ。短くも濃い旅路の中で見つけた、人間が人間たる心だ。
「全部、全部大事なんだ。こんなにボロボロで、痛くてもね。でも痛みを知っているからこそ、私は良い神でいられるんだと思う。みんなの気持ちはうれしいよ。ありがとう」
四葩は指先でふかふかの羽毛をなでる。ブン吉はくすぐったそうに身をよじり、その姿に四葩も自然と笑みがこぼれ、しばしひとりと一羽の戯れはつづいた。
他のスズメたちもおもしろがって集まってきた頃、へそ天を晒していたブン吉が急に我に返って居住まいを正す。
「んんっ! 四葩様がそのおつもりでしたら、我らにも考えがございますです」
「え。なにするつもり」
「お教えすることはできません。慈母様、どうかお覚悟召されませ」
羽を広げて一礼するなり、ブン吉は飛び去っていく。それを追いかけるように、スズメたちも一斉に飛び立った。
ひらりと舞い落ちてきた抜け羽にため息を吹きかけ、四葩は高欄に頰杖をつく。
これはめんどうなことになってきた。
「うわあ!?」
ドスンッ、と木から人が落ちてきて四葩は目をぱちくりする。とりあえず道案内のために前を歩いていたカン助を手の中に隠してから、人に目をやった。
痛がりながら身を起こした人物に、今度こそ驚く。
「彼方……」
「えっ。四葩!? 四葩か! 三日、いや四日ぶりだな。まだ花散里にいたんだな」
こちらに気づいたとたん、彼方の表情がパッと華やぎ、立ち上がって寄ってくる。四葩はその分だけあとずさりながら、懸念が的中してしまったことに内心頭を抱えた。
だから花散里には行きたくないとカン助に言ったのに。そこまで考えてふと、カン助がやたら急かしてきたなと思い至る。怪しい。
「まあ、うん。里をひと通り見ておこうかなって思って。それより彼方、だいじょうぶ? なにがあったの?」
「あ、ははは……。恥ずかしいところを見られたな。その、見かけない三毛猫が懐いてきたから構っていたんだ。そしたら俺の手首に巻いていた布にいたずらをしはじめて、くわえて持っていってしまった。そこの木に登っていったから俺も追いかけたんだが、足を滑らせてしまって……」
情けない、と苦笑う彼方を見たところ大きな怪我はない。だが四葩は念のため木の葉影に天鹿児弓を喚び出し、彼方に向けて密かに〈破魔矢〉を射った。そして木を鋭くにらみ上げる。
すると枝の上で三毛猫がびくりと震えた。慌てて取り繕うように顔を洗いはじめる。そんな人間のような仕草をする猫はいない。あれは白虎の眷属コマ子だ。
(そういうこと。全部読めた)
四葩は手の中でカン助の甲羅をぐりぐりと攻めてやる。
つまりはめられたのだ。眷属たちは四葩と彼方を引き合わせるために、急用だと嘘を言って呼び出し、彼方のことも誘い出した。ブン吉が言っていた考えとは、このことだろう。
そのブン吉とシヅの姿は見ていない。まだなにかある。
「その布、どこにいったの? 猫はくわえてないみたいだけど」
「え。ほんとだ……いっしょに落ちたかな」
きょろきょろと足元を見回す彼方に倣って、四葩も周囲を捜す。すぐに彼方から、あ! と声が上がった。少し離れたところに、細くくたびれた布が落ちている。
彼方は駆け寄る。手を伸ばし、拾い上げようとした。その瞬間サッと飛んできたスズメが、布を横取りする。
だからそんなタイミングよく、ピンポイントで布を狙うスズメなどいない。
「あとでみんなまとめてお説教だからね、カン助」
「ひっ。お、お手柔らかに頼むぜ、慈母様よお……」
待ってくれ、と走り出した彼方の後ろで、四葩はこっそり甲羅に閉じこもったゼニガメを三毛猫に預けた。
すぐに彼方を追うと、彼はおだやかに流れる美鈴川のほとりで立ち尽くしている。
「彼方、布は?」
彼方は力なく川を指した。
「ぷいっと捨てられてしまった」
うちの眷属がすみませんと平謝りたい気分だ。
部下のやらかしは上司が責任を取るもの。四葩は小袖の裾をひと思いにめくり上げて、帯にねじ込む。
彼方がぎょっと目を剥き、顔を覆った。
「よよよ四葩なにを! そんなあ、あ、足を出すなんて、誰かに見られたら……! しまってくれ、頼む!」
「まだ遠くまで流されてないはずだから。捜してみるね」
うろたえる彼方を置いて、四葩は川に入る。川縁は浅く、足首までの深さだ。深いところでひざくらいだろう。
といっても四葩には最初から、地道に布を捜すつもりはない。まだ姿を見せない青龍の眷属を心の中で呼ぶ。
そこへザブンッと派手な水音が立った。
見れば彼方が同じように着物をまくり上げて、ずんずん川に入ってくる。
「彼方、いいよ。濡れちゃうよ」
「君だって濡れてる。俺の布なんだ、君にばかり捜させるわけにはいかない。それに浅い川だろうと危険だ。その、いろいろと」
そう言いながら彼方は川ではなく、周囲に警戒の目を向ける。日が傾きかけた時分、往来を行く人々はさして興味もなさそうに一瞥するだけで通り過ぎていくのに、彼方の片腕は四葩の肌を隠すように差し向けられていた。
うれしい。けれどちょっと寂しい。きっと彼方は女の子になら誰だってやさしくする。
「ありがとう。じゃあ手分けして捜そうか」
「ああ。四葩は縁のほうを頼む。俺は真ん中あたりを見るから」
うなずき合い、それぞれ屈んで川面に目を凝らす。もうシヅが来ていてもおかしくはないのに、白い優雅な魚影は見当たらなかった。
わざと無視しているな。いったいどこまでやれば気が済むのか、四葩はため息をつく。
おそらく布はシヅが確保しているだろう。彼女が現れない限り、布も見つかることはない。見つからないものを捜させてしまっている彼方に、四葩は顔向けできなくなった。
「四葩、そっちはどうだ。あったか?」
「ごめん、見つからないよ」
山の端に太陽がかかり、空が見事な茜に染まる。袖をすっかり濡らした彼方が、切り上げて四葩に歩み寄ってきた。
「これだけ捜してもダメならもう見つからないだろう。潔く諦めよう」
「そんな、待って。大事なものなんでしょ?」
シヅ、いい加減にして。四葩は胸中で眷属を叱りつける。
彼方は後頭部に手をやり、それが、とバツが悪そうに笑みを浮かべた。
「布自体にはなんの価値も思い入れもないんだ。すまない。四葩が懸命に捜してくれている手前、言い出しづらくて……」
「そうなの。でもそれじゃあどうして手首に巻いてるの?」
「あー、変に思わないで欲しいんだが……」
うつむく彼方の視線を追って、四葩は正面に立った。そろりと持ち上がった彼方の目を見て、確かにうなずく。
彼方の顔から無理な作り笑いが消えていった。
「落ち着くんだ、右の手首になにか巻いていると。子どもの頃からそうだった。別になにか怪我をして、布を巻いていたことがあったわけでもないのに。自分でもよくわからない」
「右、手首……」
四葩の脳裏で古い記憶が瞬く。彼方の前世である日向は、右手首に肌身離さず組ひもをつけていた。それは母、皇子からはじめてもらった贈り物であり、雲に隠れて見えなくなっていた母の愛が確かにここにあるという証明でもあった。
優月の言う通りだ。彼方はどの転生者よりも色濃く日向の魂を宿している。
四葩はにわかに騒ぎはじめた胸を押さえた。
「他にもあるの……? そういう不思議な感覚というか、覚えのない記憶みたいなものが」
「いや、他にはない」
否定してすぐ彼方は、でも、とつづける。唇に指をかけ顔を起こし、四葩をひたと見た。もう武人でも守人でもないのにその眼差しは、怖気が走るほど強い。
「君がそうかもしれない。妙に落ち着く、あの感じ。あれから毎日火鎮神宮に行って縁の下に座ってみたが、四葩と出会ったあの日ほど心地よさを感じなかった」
なぜだろうな。呟いて、彼方は一歩詰め寄る。
「やはりあの空気は君が運んできたものなのか」
またひとつ、近づく。四葩は堪らず下がる。
「そんなわけ、ないよ。たまたま朱雀様のご機嫌がよかったんじゃないかな」
「四葩がいたから?」
彼方は四葩がなにか言う前に畳みかけた。
「お社に踏み込まれても機嫌がいいなど、ずいぶん寛容な炎神様だ。だがもしも、侵入した者が神のお気に入りなら筋が通る」
「な、なに。彼方はなにが言いたいの?」
四葩はつづけて下がった。それを彼方はひと息で踏み越える。
「わからない。なにもわからない、君のこと。だから知りたいのかもしれない。そうだ、知りたいんだ。俺は四葩のことを、もっと」
彼方の手が持ち上がり、四葩へ伸ばされる。
「わーん! ごめんなさい慈母さまあ……っ! 返すから、今すぐ返すからうちのこと嫌わないでー!」
「きゃっ!?」
その時、四葩と彼方の間から白い鱗を持つコイが勢いよく跳ねた。四葩は驚いた拍子に大きな石を踏んづけてしまい、尻もちをつく。
「四葩っ、だいじょうぶか!? 怪我は!?」
彼方もコイに気を取られていたが、高く上がった水音で我に返り駆け寄った。
「だいじょうぶ……少しお尻を打ったくらいで」
四葩は痛みよりも恥ずかしさで顔を上げられなかった。濡れて肌に張りつく髪を整えていると、水底についた手をつつかれる。手を開くと、シヅが彼方の布を押しつけてきた。
「よかった……。立てるか? ほら、掴まって」
眼前にひと回り大きな手が差し伸べられる。見上げると、彼方は目を細めてやわらかく微笑んだ。勘違いしてしまうほどやさしい瞳だ。
四葩はトクリと跳ねた胸に爪を立て、淡々と彼方の手を取った。
「ありがとう。でもどうやら、ただでは転ばなかったみたい」
首をかしげる彼方の前に、取り返した布を掲げる。
「これだよね、彼方の布。ごめんね、こんなに時間かかっちゃって」
「なにを謝ることがあるんだ。本当にありがとう、四葩! なんの思い入れもないと言ったが、今できた。俺はこの布をずっと大事にするよ!」
しまった、返さないほうがよかったか。後悔するが、布はさっそく彼方の手首に巻きつけられている。
濡れてけして着け心地がいいものではないだろうに、彼方は存在を確かめるように布をなで、小さく歯を見せ、噛み締めるようにごく自然に笑った。
それを見て彼はもう感情を押し殺さなくていいんだと気づく。喜びたい時に喜び、思いきり照れたり困ったりしても咎める者はいない。
誰に気兼ねすることなく素直に感情を表す彼方は、無邪気で愛らしくて、尊かった。
「じゃあ私はこれで」
四葩はひとり満足の笑みを浮かべて、きびすを返す。
「ま、待て! どこに行くんだ!」
しかし彼方に手首を掴まれた。
「どこって家――宿に戻るだけだけど?」
「そんな濡れた格好でか。今日は暑いとはいえ体に毒だし、その、変な輩に目をつけられるかもしれない」
四葩は改めて自分を見下ろした。濡れた着物が下肢にぴったり張りついている。そのせいで腰から足にかけて、体の線がはっきり見て取れるようになっていた。
確かに人に見られたら恥ずかしい。だけど替えの衣なんて持っていない。
「そう、だね。でもまっすぐササッと戻るしかないかな」
「なら、俺の家に寄っていけばいい」