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いちいち「誰が何を言ったのか」を書かねばならないのか?

実はこの『暗黒竜の渇望』はあえて「誰が何を言ったのか」を伏せている部分があります。たとえばこちら。

https://kakuyomu.jp/works/16817330647877241956/episodes/16817330647891538875

四天王の1人が裏切りますよね。この時誰が何をどうやって行ったのか(言ったのか)を実は読者に投げています。要は自分で考えろって意味も含みますし自分で勝手に解釈していいんだよって事も含みます。そんなことはアニメや映画や漫画では出来ません。小説だから出来る表現なのです。ですがここ25年この手の手法を読者は嫌います。というか気持ち悪がられます。アニメを見るかのように、漫画を読むかのように読者は要求するのです。おかげさまでまるで脚本のような従来型の表現方法に格下げすることになったのです。それが22万文字までアップした主な要因です。
残念ですが「そんなのは読者が自由に考えろ」という方法はもう80年代、遅くとも90年代まででラノベであっても漫画の下位互換に落ちたのです。原作>2次ではなく2次>原作なのです。

なので
・登場人物が
・どんなセリフを放ち
・何を行ったのか
をわざわざ記述する羽目になったのです。多聞天以外の3人の四天王がどのような考えを持ちどのように行ったのかなんて私は読者がこのぐらいなら好き勝手に2次創作していいよ、自由に空想していいよという「フリーゾーン」という手法をちゃんと設計して実は『暗黒竜の渇望』は作られています。なのに今の読者はこれを気持ち悪いとなるのです。実に残念です。私はそれは表現手法を狭める愚かな行為だと思いますが時代にあがなえませんでした。

2件のコメント

  • セリフだけで分かるようにするための工夫として、一人称や口調などがありますよね。
    ちなみに、pixivのときの名残で

    名前「台詞」

    をやってることもありました。
    やはり文字数とか読み手のことを考えると、つけるか否かが場面によって変わりますよね。
  • なるほど!
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