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フィクションの力って

今になって思うことは、文学を創作すること、あるいは読書すること。アニメを見ること、映画を見ること、音楽を聴くこと。こういった作品の力は偉大で、何者にも勝るような浄化作用を与えてくれる。
でも、やはり現実で、何か不条理なことが起こりうると、どうしても現実を直視しなくてはならない。そういった場合、これらの力は消え失せて、人はひどく無防備になる。今の僕がそうなのかも。
じゃあ現実を直視して、全てを受け入れよう、ということも容易ではない。そもそも理から外れているのだから、僕はこれに対して有効な手立てを見つけることは叶わないのだと思う。せめて僕に何か力があるのなら良かったのに、と思う。それでもこう生きると決めた以上、というよりこう生きるしかないというのが妥当な言い方なのかもしれないけど、僕は無力だけど、せめて自分なりに足掻き通そうと思う。そしてもっと現実も広く見通そうと思う。
僕はもうこれから、人を心から信用することは一生できないのかもしれない。誰かを信じたい、と思ったけどそうさせてくれないからだ。


2件のコメント

  • 『誰を信じて、誰を信じないか』という問題は
    確かにとても、難しいですね。

    信じることは、自身を委ねることもでもあり
    そんな委任に、責任を負うことでもあり

    『信じないこと』より、まるでリスクが大きく感じます。

    "何をもって信じるか"、という条件を探れば、
    自分自身の掘り下げになりますが、

    実際に採る態度に、大きな違いが出るでもなく。

    ”人は、人を信じられない時ほど考え、理性的になり、
    信じるときは、何の根拠がなくとも信じてしまう”

    そんな場面に、よく遭遇します。
  • 僕の身辺で、衝撃を受けることが起きてしまって、なかなか立ち直ることが難しいです…笑
    それでやっぱり、他人のことを推し量ることは難しいし、完全に理解することはないなと思い始めたのです。
    そうですね…、「信じていた自分」が喪失したことで、他人の行為に傷ついたというより、自分という存在が空虚になってしまったことに対する焦燥感が強いです。
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