みんな疲れ切っている。時代は、失敗を許さない。好感度を高くし、決して叩かれてはいけないプレッシャーと忖度の中、「口に出せない、やってはいけない→考えても、思ってもいけない」。皆、一様な健康的な心と体(に、見える)。人格の薄められた均一の弱いキャラになっている。(圧倒的に打たれ弱い!)私の生きていた昭和の時代は、人間が野生だったので余計そう思えます。
その上忙しすぎて、悠長に恋愛する時間も作れない、社畜の日々。(社畜のおっさんが異世界転生はテンプレ)小学生でさえ、忙しすぎて脳疲労を起こし、脳の中核が炎症を起こしている時代。頭使うような疲れることしたくない、(難しいのは読みたくない)脳を現実から引き剥がして休みたい(現実なんてひとかけらも見たくない)
父がくも膜下出血で入院していた時、やはり病気で入院した息子さんを介護していたお母さんが、「毎日少年ジャンプを貪るように読んでいた」と言っていました。中身なんかどうでもいいのです。読んでる間は、何もかも忘れられるから読むのです。そうやって漫画は、沢山の疲れ切った脳を休ませ、救ってきたのです。(私も救われたくちです)
小説では、赤川次郎がそうでしだ。「夢中で読んでた時期あったけど、何ひとつ中身を覚えてない」と中学の同級生が言っていました。今、異世界転生がそれをしてくれている。だからベタで、テンプレで、世界観マンネリで、喉越しだけいいノンアルコールビールみたいに、味の薄〜い話が売れる。全てはお約束の安全パイの中。辛い現実や不安はどこにも存在せず、読んでる間だけ夢中。読み終わった瞬間、心にかすり傷ひとつつけずにパッと全て忘れられる都合の良さ。
(そうゆう作品を書くのがどれほど難しいかはみなさんご存知でしょう)
わずかでも、「不快」と感じた瞬間、スイッチを切って忘れてしまえばいい。(私はそうしてました)そうやって、カクヨムで最後まで読んでもらえない作品のなんと多いことか。逆に私が最後まで読んだ作品は実にすごい。(そして脳の休息に感謝)
不思議だったのは、漫画も、アニメも、ゲームも、映画もなんでもあるのに、なぜアナログな小説(文字)なのかということ。思うに、小説は情報量が少ないので、脳の負担が少ないのではないでしょうか。その上、他の映像メディア(情報量が多く、脳は疲労しやすい)が出来上がったものを押し付けてくるのに対し、小説は読み手の想像力が入れる余地がある。「私だったらもっとこうするのに、私にも書けそう」と二時制作に走るのも、文字なら簡単。目にも脳にも負担の少ないメディアであり、どんどん後続の書き手を生み出しやすいシステムにwebサイトそのものがなっている。
「小説家になろう」で書き手が、主人公の、成長過程を丁寧に書こうとしたら、「めんどくさいことはいらない。とっとと主人公を最強にしろ」とコメントされて、そうせざるを得なかった。(小説というのは、読み手の欲望を叶える為にのみ存在するのか?)読み手にとって、書き手の気持ちはどうでもよくて、「俺の読みたい話をさっさと書け」の買い手市場なのですね。
だから、コナン・ドイルはホームズをライヘンバッハの滝で殺すしかなかった。
ホームズモノばかり要求されて自由を奪われ、書きたいものが書けなかったから。
最後は、「求められるもの」に屈してホームズ物を書き続けたけど、書きたいものと、この世界で求められるものが一致することは、ほとんどない。(アガサ・クリスティも、「ポアロなんて大嫌い!」と言っていた。人気に振り回されるのも辛い)あくまで、私の見た「異世界転生」の感想です。
カクヨムという書店で小説を売っている。隣のブースの作品はどんどん売れる。
私のブースには人が来ない。ほとんど、誰も足を止めない。ごくまれに意気投合する客もいるが、難癖つけたり、最後まで読みもしないガッカリな客もいる。隣と私は何が違うのかと思う。ここの客層は私にあってないと思い、他の書店に場所を変えるべきかと思う。もっと私と好みの似た人間の集まる場所を探したいと思う。
パソコンの前で、どうやって探せば良いのか分からず、ため息をつく。