夏の生き残りが、私を誘っている。
窓から室内に差し込む陽光が、なつかしいあたたかさをもって、心に直接語りかけてくる。
その声に耳を傾けながら、一人、暗い部屋で小説を読んでいた。
不器用な休日。
物語は進んでいく。
とても面白い話で、読むのがやめられない。
我が家の鳥がにわかに騒ぎ出し、居間で寝ている家族が目を覚ましそうな気配がする。
午後二時だった。
休日には、まだ間に合うはずだった。
着替えて外に出る。
行き先はミスタードーナッツに決めた。
「ドーナッツを食う」
「飲めないアイスコーヒーを飲む」
「小説を読む」
「小説を書く」
たまには、暗い部屋以外で。
とくに──すばらしい天気の日には。
巨大な台風が過ぎたばかりの昼下がり、湿気も雲も、全てが消費されてしまった抜けるように青い空の下。
私は隣町まで歩いている。
リラックスした気分で、時に憂鬱になり、時に不安になりながら、歩いている。
全ては気分の問題だった。
──幸福とは何か。
全ては気分の問題だった。
──憎しみや、悲しみや、孤独感や、怒りや、虚栄心や、恐怖や、形容しがたい不安のような感情や。
全ては気分の問題だった。
──肉親が死ぬこと。恋人にフラれること。誰かを殴ること。涙を流しながら眠ること。
全ては気分の問題だった。
気分のために人生があるようだった。
一時の感情で人は傷つける。
一時の感情のために人は金を払う。
一時の感情のために人は笑わせる。
私は気分=感情を認めざるを得なかった。
それは疑いようもなく、私に在るものだった。
向かった先は、まず本屋だった。
私が行きたいと思う場所なんて、本屋か、海まで続く川沿いの道くらいなものだった。
隣町についた私は、ダイエーの本屋に入り、二三冊手に取ってページをめくってから、棚に戻す。
立てて置かれた小説のカバーが、醜くめくれていた。
本を書う気分ではなかった。
私は、これ以上タスクを積み上げるのはやめようと思った。
ものを買うということ。
「使われるのを待っている物があるという状況」
小さなことだけれど、その気分は私のなかで積み重なっていく。
あらゆる細々とした誓約や物語、義務感、もったいないという気持ち。
所有するということは、所有する責任をも所有することだ。
私はたぶん、買うのを控え、溜まった物語を消費し、捨てるものを選択し、もっと、もっと、もっと。
──身軽になれるのだ。
デザインには目的がある。
──より使いやすく。
──より面白く。
──より伝わりやすく。
──より頑丈に。
目的やビジョンの無い加工はデザインとは言わない。
それは──気分と呼ぶ。
気分はデザインできない。
本屋を出た私は、駅前の小さなミスタードーナッツにたどり着く。
席のほとんどは埋まっていた。
座っている客の大半は老人と、主婦らしき中年女性だった。
チョコレートのかかったドーナッツをトングでつかんでトレーにのせる。
前に並んでいた女性の子供が、母親のシャツの裾をつかみながら、私をじっと見ていた。
私は少年に微笑みかける。
少年にテレパシーを送る。
『大人になるといくらでもドーナッツが食えるから、大丈夫だよ』
少年は、私をじっと見ていた。
黒い真珠のような目だった。
窓際の席に座って、ドーナッツを食いながら、アイスコーヒーを飲む。
その時、不意にやってきた強い既視感で、目が眩む。
いつだったか、こんな晴れた日に、この窓際の席で、表を歩く人を眺めていた……。
──すこし考えればわかることだった。
──そんな記憶はない。
──そんな事実はない。
──ここに来る前に、想像しただけだ……。
──まるで夢の中にいるような、遠い現実感。
──私は既視感と記憶を捏造した。
夏の生き残りが私に話しかけない。
「私が私に話しかける」
素晴らしく晴れた日の日記に記された、
さびしい気分の、真実である。