パチスロの話をしよう。
その昔、私はパチスロに関わる仕事をしていた。
いわゆるデバッグという仕事で、映像や各種ランプ、内部的なシステムや役物(パチスロ台にくっついているがちゃがちゃ動くもの全般)が正しく動作するか検査する仕事だ。
私はパチスロやパチンコが好きではない。
本来ならばゲームのデバッグをするつもりだった。
それが何故だかパチスロ部門に回され、朝から晩までパチスロを打つことになった。
最初は何がなんだかまったくわからなかった。
けれどやっているうちに少しずつわかってくる。
何がよくて何が悪いのか。
――ただ、わかったからといって好きになれるかどうかは、別の話だ。
仕事は三年ほど続けたが、つまらなくなって辞めた。
辞める人はさっさと辞めるし、続ける人は長く続ける。
そんな職場だから、スロット中毒の人も多かった。
スロットだけで家を建てただとか貯金がいくらあるだとか、眉唾な話も聴いた。
その半面、負け続けても続ける人も中にはいた。
中毒である。
中毒とは、ある瞬間から目的と手段が入れ替わることを言う。
最初はみんな好奇心でパチスロを始める。
たいていは、たまたま大勝する。
また勝てるんじゃないかと思ってホールに行く。
買ったり負けたりを繰り返す。
そこまではまだ中毒者ではない。
「勝とう」という意志がある限り、人間は工夫を凝らし、負けたら悔しがることもできる。
負けが込んだら辞めようとすら思うだろう。
けれど中毒者は違う。
彼らの中では劇的な価値観の転換が行われている。
彼らは勝つためにパチスロを打つわけではなく、パチスロを打つために打つのだ。
こうなるともう、勝とうが負けようが関係ない。
轟音とフラッシュと回転するリールだけが安住の地となる。
他には何も見えない。
中毒は感覚を麻痺させる。
一番最初に感じたはずの高揚も緊張もスリルも何もかも鈍化させる。
今日、知人に付き合って、久しぶりにホールに行ってきた。
前述の通り、私はパチスロについて知識はあるが、好きではない。
だから「自分の金で打とう」とすら思わない。
パチスロに金を使うくらいなら小説を買ったり、服を買ったり、ビタミン剤を買った方がマシだと思っている。
知人が千円くれたので、その金で打った。
5円スロットという安く遊べる台に座った。
知人も横に座った。
二人でぼんやり打っていると、知人がフリーズを引いた。
五万分の一くらいの、ものすごく低い確率でしか当たらない凄いやつだ。
当たるとまあまあいいことがある。
私は横で普通のボーナスを当てた。
出玉が500枚ほどになった時点で、ボーナスが終わったので、私は辞めた。
メダルが一枚五円だから、換金すると、五円かける五百枚で二千五百円になる。
投資が千円だから、千五百円の利益だ。
知人は千枚ほど出していたが、まだまだボーナスは続いているようだった。
だから私は箱にメダルを移して、彼のメダル満載の箱の横に並べて、帰ることにした。
どうせ私の金ではないから、勝とうが負けようが、嬉しくもなんともない。
知人はいくら負けてもパチスロに行ってしまう中毒者だ。
勝とうとは思っているのだろうが、思っているだけだ。
きっと出た分も全部ぶっこんでハマって負けるんだろう。
それはそれで潔い生き方かもしれない。
けれど私の哲学には反する。
私は、ギャンブルとは常に勝たなければならないと思っている。
勝負は時の運かもしれないが、私はなかなか負けない。
自慢ではないが、私は負けがかなり少ないほうだ。
――なぜなら、まず第一に、ギャンブルをしないからだ。
これが一番負けない方法である。
負けるくらいならやらない方がいい。無駄に金を減らして、あの狭苦しい椅子に座ってメダルを入れてボタンを押すだけの行為のどこが面白いというのか。
――次に、勝ってるうちにやめる。
これも重要なことだ。
投資に対して利益が上回った瞬間にスロットをやめればいい。
勝っているうちにやめれば絶対に負けない。
当たり前のことだが、これがなかなか難しいらしい。
中毒者は全ツッパリですっからかんになって後から楽しげにボヤくことが多い。
全く無意味である。
ボーナスで一万枚出したとしても、それを全部使ってしまうのなら、最初から無いのと一緒だ。
私はたとえ五百円でも勝っていたらすぐに辞める。
だから決して大勝したりしない。
けれど負けない。
これが私がパチスロで学んだことだ。
さて、ここで話をダイナミックに切り替えてみる。
人は誰しも中毒を患っていると思うのだが、どうか。
それは漫画かもしれない。
ゲームかもしれない。
好きな食べものかもしれない。
やめられないものがあるのではないかと思っている。
私にはある。
それは書くことだ。
“中毒は感覚を麻痺させる。”
“一番最初に感じたはずの高揚も緊張もスリルも何もかも鈍化させる。”
真面目になって書いていたあの頃。
どきどきしながら人に見せた、大昔。
人の感想に一喜一憂した、若き日の思い出。
今の私は、文章に対するときめきもわくわくも忘れて、ただ書いている。
書きたいから書いている。
それこそまさに、中毒者じゃないか。
工夫することも忘れ、誰かを楽しませたいと思うこともなく。
勝っても負けて知ったことではなくて。
ただ、書くためだけに書いている。
今日は、そんなことに気がついたんだ。
文章に対する態度を、もう一度考えなおそう。
ギャンブルに対する哲学があるように、文章に対しても哲学を持とう。
負けないように。