こんにちは、旭(あきら)です。
突然ですが、本日6月16日は『彼女と私は時給1万円の関係です』の連載が始まってからちょうど1年になる日でして。
連載開始当初からお読みいただいている方も、最近本作を知ってくださった方も、本当にありがとうございます。
更新頻度は決して高いとは言えませんが、同じ作品をここまで長く続けられているのは、読者の皆様のおかげです。
連載1周年記念&日頃の感謝の気持ちをこめて短編をご用意しましたので、お楽しみいただければ幸いです。
* * *
休日の昼下がり。
ランチタイムのピークを過ぎて、些か落ち着いてきたなと思い始めた頃に、"彼女"は突然現れた。
いつものように、カウンター席前の調理場で作業をしていると、お客さんの来店を知らせるドアベルがカランと音を立てた。
反射的にドアの方へ振り向き、お決まりの挨拶を投げかける。
「いらっしゃいま、せ……」
何千回と口にしてきたこの言い慣れた言葉が、初めて歪なイントネーションになった。
店内に変な訛りの「いらっしゃいませ」が響いたことを恥じる余裕もなく、来店してきた人物を前に頭の中が一瞬でパニックになる。
……よし、一旦整理しよう。
ここは喫茶店だ。
私が毎週土日にアルバイトで働いている、小ぢんまりとした飲食店。
家族連れや団体というよりは、二人組の友達やカップル、お一人様が利用するような落ち着いた場所である。
その点に関しては、何ら違和感はない。
彼女は今一人でやって来たのだから。
では、身なりはどうだろう。
お祭りや派手なイベントで着るような、奇抜で目立った服装はしていない。
至って普通の外出着で、爽やかなブルーのワンピースがよく似合っている。
これも特に問題はない。
客観的に見れば何の変哲もないただの"お客さん"なのだけど、一番の要因は、彼女自身の正体にある。
最初は見間違いかと思った。
だって、あの子がここに来るはずはないと当たり前のように思い込んでいたから。
平日は毎日一緒にいるけれど、土日はもはや他人同然の不思議な関係。
まさか夕莉が、私のもう一つのバイト先に顔を出すなんて。
「……お好きな席にドウゾー」
目が合いそうになる前に速攻で顔を逸らし、ひとまずマニュアル通りの言葉をかける。
が、店員としてこの場にいる以上、いつまでもこうしてはいられない。
すぐにお冷やを出さなければ。
頭ではわかっていても、体が驚くほどスムーズに動いてくれなかった。
彼女との接触に抵抗感を抱いていると言ってもいい。
原因は言わずもがな、『業務時間外は接触禁止』という付き人のルールに抵触するからだ。
この件について、一体どういうつもりなのかと夕莉に全力で物申したい。
私には厳しいルールを課しておきながら、なぜこうして自分から会いに来る?
しかもこんな場所に。
接触せざるを得ないような状況で。
店員が客を無視するわけにもいかないし。
私がここでバイトしていることを知っているはずだから、わざと出向いてきたのか?
そもそもお嬢様って庶民のお店に一人で来れるもんなんだ。
これはさすがに不可抗力だ。
……どうすればいい?
今の私は"二色奏向"ではなく、モブのようなただの一店員として振る舞えば、この危機を乗り切れるか?
必死に脳みそをフル回転させて対処法を考えている間に、無意識にお冷やの準備が終わっていた。
あれほど葛藤していたのに、体に染みついてしまった動作というのは恐ろしい。
……ああ、足が、勝手に動く。
夕莉にお冷やを届けようと、店内を見渡して居場所を探そうとした瞬間に、ギョッとした。
え、カウンター席に座ってんですけど。
動揺しすぎて、すぐ目の前に来たことに全く気付かなかった。
確かに言いはした。「お好きな席にどうぞ」と。
だけど、それで私に最も近い席に座るかな普通。
これはもう狙っているとしか思えない。
夕莉は私に試練を与え過ぎでは?
私からは触れてはいけないのに、自分からは遠慮なくグイグイ来るし。
この前だって図書室で……って、何思い出そうとしてんの。
今は接触禁止なのに自分から近付いてくるし。
本当によくわからないルールだ。
困惑する私を見て楽しむ、なんていう趣味の悪い遊びでも覚えたのだろうか。
またしても脳内で慌てふためいていた時、今度は夕莉とがっつり目が合った。
「…………」
「…………」
硬直したのも束の間、咄嗟に手に持っていたお冷やを差し出す。あとおしぼりも。
「……ご注文お決まりになりましたらお声がけくだサイ」
逃げるようにその場から離れた。
といっても、調理場はそこまで広くないから、せいぜい背を向けることくらいしかできなかったけど。
一連の流れ的には、何も不自然なことはなかったはず。
あくまで店員としてお客さんに普通の対応をしただけ。
あ、でもちょっと語尾が上擦ったかも。
しかし、一気にやりづらくなったな……。
気のせいだと思いたいが、背後からとてつもなく視線を感じる。
私の一挙手一投足を肩時も見逃さず、まるで監視しているかのような圧のある視線を。
なんだろう。
家の中では絶対に見せないバイト先での自分を身内に見られたような気まずさを覚える。
何気に、学校の制服以外の格好を夕莉に見られるのは初めてかもしれない。
一応他人のフリをしているけれど、この対応が果たして接触禁止のルールに違反しているのかはわからない。
これでクビを言い渡されたらさすがに泣く。
店長に持ち場を交代してもらおうかな、なんて考えていたら。
「注文、いいかしら」
……やばい、話しかけてきた。
そりゃそうか。一番近くにいる店員は私だし。
……ちょっと待て。
今タメ口で声かけてきた?
ということは、私と普段通りに接しようとしている?
私に課したルールの内容を忘れたのかこの子は。
それとも、店員には敬語を使わないタイプの客なのか。
はたまた、私相手に敬語を使うのは主人のプライドが許さないとか、そういう高飛車な一面も…………考えるだけ無駄だ。
今は大人しく呼びかけに応えよう。
「……はい、承ります」
「いつものをお願い」
何だよ"いつもの"って。
ここの常連じゃないでしょあんた。
いきなり無理難題ぶっ込んできたな。
あと、注文の仕方が完全に使用人へ指示出しする主人の言い方なのよ。
家での夕莉がまさにそんな感じだから。
夕莉の付き人でいる時は「はいよー」とかぬるい返事をしていたけど、今その調子で答えたらどうなるかわからない。今後の私の処遇が。
「それと、何かおすすめはある?」
難しい注文ばっかじゃん……厄介な。
高級レストランじゃないのよここは。
「今は季節限定のマンゴータルトがおすすめですね……あとは、看板メニューのパンケーキとか」
「じゃあ、パンケーキを」
「……かしこまりました」
さっさと引き上げて調理場に戻る。
パンケーキは厨房に任せて、こっちは"いつもの"とやらを淹れる準備に取り掛かる。
夕莉が欲しているものに、全く心当たりがないわけではなかった。
食後とか授業が早く終わった日の放課後とかに、彼女が好んでよく飲む飲料がある。
おそらく、そのことを指しているんじゃないかなと。
いつもはホットだけど、時期的に暑いしアイスの方がいいか。
それにしても、あの言い方はどう考えても私を試しているようにしか聞こえなかった。
"いつもの"と言われてちゃんと要求通りのものを用意できるのか、と。
……まったく。誰かに覆面調査でも依頼されたのだろうか。
「……ねぇ」
……また話しかけてきた。
今度は何?
てか、夕莉はどういう立場で私と会話しようとしてんのよ。
客としてなのか、主人としてなのか。
もし後者だったら完全にアウトでしょ。
故意犯でしょ。私をクビにする気?
「いつもそんな無愛想にしているの?」
……クレーム?
何を言い出すかと思えば。
不満を面と向かって言うヤツはクレーマーだと相場が決まっている。
ていうか夕莉に言われたくないわ。
確かに、以前まではお客さんから顔が怖いと密かに苦情を言われたこともあるけども。
「……そういうつもりは、ないんですけど」
まぁ、無意識に顔が強張っちゃうんだろうね。
だって、絶対ここには来るはずないと思ってた人が、堂々と業務時間外に私と接触を図ろうとしてんだもん。
つくづく夕莉は自分勝手がすぎる。
「杏華は奏向のどこを気に入ったのかしら」
独り言のように夕莉が呟く。
これは、遠回しに悪口を言われているのだろうか。
こんな仏頂面に目をつける理由がわからないと。
……それは一理ある。
出会った当初は特別杏華さんにだけいい顔をしていたわけではないし、むしろバイト中は誰に対しても事務的な態度をとっていたはずだ。
にもかかわらず、杏華さんの方から積極的に声をかけてくれて。
物好きな人もいるんだなーと思ったけど、それは夕莉にも言える。
印象の悪い人間をよく付き人にしようと決断できたなと。
「……あなたも大概だと思いますよ。無愛想な店員が近くにいる席に座るなんて」
ぼそっと、目を合わせずに吐き捨てる。
これはあくまで独り言だ。
しがないアルバイトのちょっとした心の声が図らずも漏れてしまっただけ。
付き人としての私ではなく、喫茶店で働いている私としての声。
別に、夕莉に話しかけたつもりはこれっぽっちもないのだ。
……と思いつつ、少し試している。
彼女がどんな反応をするのかを。
これで不機嫌になったら、理不尽だけど接触禁止のルールを私が破ったということになってしまう。
もし何も言われなかったら、今日はこのまま店員キャラでいこうと思う。
「…………」
夕莉からの反応がない。
……しまった。やっぱりこっちからは話しかけちゃダメなんだ。
……いや、これは独り言だから。
大体、最初に突っかかってきたのは夕莉の方だから。
話しかけられて無視するのも失礼でしょうよ。
したがって、私に非はないはず――
「この席が一番落ち着くと思ったから」
誰にともなく心の中で必死に弁明していたら、彼女の言葉に手が止まった。
落ち着く? カウンター席が?
私だったらテーブル席の方を選ぶけど……と考えていたところで、とんでもない憶測が浮かんだ。
……いやいや、さすがにそれは自惚れだし、自意識過剰にも程がある。
夕莉は"私が近くにいるから"ではなくて、"直感的に良さそうだと思ったから"この席を選んだんだ。
さりげなく気づかれないように、チラッと夕莉に視線だけを向けると、めちゃくちゃこっちをガン見していた。
思わず二度見してしまうほどの真顔で。
……さっきから見すぎじゃない?
すんごく気が散る。
ただでさえ夕莉がここに来ただけで、接し方がわからず挙動不審になっているのに。
この状況をどう打破しようかと考えている間に、黙々と作っていた"いつもの"が完成した。
これは、お店でよく注文するという意味の"いつもの"ではなく、夕莉が日常の中で普段飲んでいる"いつもの"である。
もし想定のものと違ったら、私が責任持って払う。
「アイスココアです」
そう、彼女が好んで飲むものはココアだ。
子供舌の夕莉にぴったりの甘い飲み物。
ココアの上にたくさんのホイップクリームを乗せて、さらにその上にチョコチップを散らし、さくらんぼを添えている。
目の前に差し出したココアを、夕莉は興味深そうに凝視していた。
「いただきます」
律儀に一言添えて、ストローの先を咥える。
良かった、"いつもの"は間違ってなかった。
伊達に夕莉の付き人をやってるわけじゃないからね。
彼女の好き嫌いは把握していて当然だ。
ただ、当たり前だけど家で飲むココアとは味が違う。
子供舌ではあるが味覚は敏感な彼女に、気に入ってもらえるだろうか。
普段なら見守るところだけど、今はただの客と店員だから、あまりまじまじと観察はできない。
「よくわかったわね」
「……奇跡的に勘が当たっただけ、です」
甚だ対応が難しいな……。
どこまで素の自分を出してもいいのやら。
「雑談に付き合ってくれる店員がいると聞いたのだけど、それはあなたのこと?」
「……さぁ。違うと思いますけど」
おそらく、杏華さんから何か聞いたのだろうけど。
生憎、今の状態で会話をしたらいろいろとボロが出そうだから、できれば夕莉との必要以上の接触は遠慮願いたい。
「……あなたは"いつも"と違うのね」
「そりゃあ……仕事中なんで」
というのももちろんあるけど、一番の原因は他にある。
本当はルールなんて気にせず、休日でも会いたいし、今だってもっと気楽に話したい。
でも、契約を交わしている以上、決められた規則をおいそれと無視するわけにはいかない。
夕莉は私を信じてくれているから。
その信頼を裏切るようなことをしたら、きっと幻滅されてしまう。
「……奏向は、私の付き人でいる時も仕事だから、あんな接し方をしているの……?」
「…………」
不安げに問う夕莉の声に、チクリと胸が痛んだ。
絶対に違う。
それだけは断言できるのに、すぐに否定できなかった。
その問いに答えた時点で、付き人である私として接することになってしまうから。
他の作業をしているせいで、私に向ける夕莉の視線がどんなものなのかは見えない。
無言である以上、少なくともいい気はしていないだろう。
接触禁止の時間帯とはいえ、せっかくお店に来てくれたのに、浮かない気持ちにさせたままなのは嫌だな……。
ルールを守ることを意識しすぎて、塩対応になってしまった気もするし。
何とかして機嫌を直してもらえる方法はないかと考えた末、作業の手を止めずに口を開く。
「……これはただの独り言なんで、聞き流してほしいんですが」
今から勝手に呟くから反応しないでね、と釘を刺しておく。
夕莉の様子は確認せずに、誰もいない空間に向かって話しかけるような感じで。
咄嗟に上手く言い訳するとか、器用なことはできない。
私にできるのは、飾らないありのままの思いを伝えることだけ。
「今まで夕莉に伝えてきた私の気持ちに、嘘はないから」
これも本当は、しっかりと彼女の目を見て言いたかったけれど。
何事もなかったかのように、忙しさを装って背を向ける。
そろそろパンケーキができあがる頃合いだ。
奥の厨房へ様子を見に行くと、ちょうど私が来た瞬間にデシャップへ置かれたところだった。
厨房担当の店長に「運びます」と伝え、素早くそれを手に取る。
夕莉に出す前にこっそりとカウンター前の調理場で、パンケーキにある細工を施す。
少しでも喜んでくれたら嬉しい。
そんなささやかな思いを形にして。
「お待たせしました」
差し出したパンケーキを、夕莉がこれまた不思議そうに見つめている。
だけど、こころなしか目を輝かせているように見えた。
「これ、他のお客さんにはやってないんだ」
お皿の余白には、チョコソースでデコレーションした花がある。
ソースでドレッサージュとか、本当はこんなサービスしないんだけど――
「特別だから――二人だけの秘密、ね」
誰にも聞こえないように、小声で。
目を見開いて私を凝視する夕莉に笑顔を向ける。
が、自分から仕掛けたくせに結局照れ臭くなって、また彼女から目を逸らした。
そそくさと別の作業を再開する。
ここのパンケーキは絶品だから、気に入ってくれるといいな。
そう思って密かに覗いてみた夕莉の顔には、小さな笑みが浮かんでいた。
Fin