うっそうとした森の中に、霧まで立ちこめてきた。
視界が遮られ、死者の世界を思わせる沈黙の中を分厚い毛皮に身を包んだ男女が数百人、前進している。
アクルクア大陸で、一般人が寄り付かない未知の地域が二つある。
南のフンデ地方は砂漠に囲まれており、トレディアとの国境近くには活火山であるアプフィ山があり、危険極まりない。
もう一つが、ビアニー、レルーヴ、ピレント、ステレア、オルセナに挟まれた山岳地帯。
誰が呼んだか、ホヴァルト地方と呼ばれる地域である。
低いところでも2500メートル、4000メートル以上の高さも珍しくないホヴァルト地方であるが、そんな僻地でも人間は勢力争いというものを行っている。
現在、ホヴァルトには統一国家は存在しない。
それぞれの山、あるいは一つの山岳地域などを根城にしている部族が複数存在しており、それらが鎬を削りあっている。
そうした部族の中でも有力な勢力が3つある。
北部を根城にしているエレンセシリア、西部を根城にしているサーレル、南部を根城にしているシーマスだ。
ここ20年ほどはこの3部族中心で動いていたが、2か月前にサーレルの族長カザンが死んだという噂が流れるようになった。
カザンには息子と娘が一人ずついる。族長となるのは息子ミリム・サーレルの公算が高いがまだ16と若い。
当然、この機に乗じてサーレルを叩こうと複数の部族が動き出したのである。
今、森を進んでいるのはエレンセシリア族。
サーレルの近隣部族二つと手を組み、攻撃しようとしていた。
族長のファバーンを先頭に、長女のシャロンと長子のジュニスもついてきている。全力をあげての攻撃だ。
「サーレルを吸収すれば、エレンセシリアがホヴァルトの半分を制することになる。そうなれば二年以内にこの俺が、ホヴァルト唯一の族長となる!」
意気軒高なファバーンを、後方のジュニスはやや呆れたような顔で眺めていた。
「なぁ……」
ジュニスは近くの兵士に話しかけた。
「何ですか?」
やや小太りの男だが、愛嬌のある顔立ちをしていた。歳はジュニスより年上だろうが、二十歳には達していないだろう。
「おまえ、親父がホヴァルトの支配者になれると思う?」
「……それはもちろん思っていますよ」
尋ねられた方は「勘弁してくださいよ」という困惑した顔をしている。
こんなところで族長の息子から、「族長は支配者にふさわしいか?」と聞かれて「無理だと思いますね」と答えられる者はいない。そんな当たり前のことを聞かれるだけで迷惑である。
ところが、ジュニスは首を傾げた。さすがに大声で話すとまずいと思ったのか、小声で話しかける。
「正直、俺は無理だと思うんだ」
「どうしてですか?」
小太りの男は、うんざりとした顔で問い返す。早く話を終わらせてほしいという顔だ。
「息子が言ったらいけないのかもしれないが、俺より弱いし」
「そうなんですか?」
「ああ」
男は少し考えて答えた。とにかくこの場を早く切り抜けたいと思ったのだろう。かなり追従めいたことを言った。
「……ファバーン様ならホヴァルトを支配できるでしょう。それより強いジュニス様はもっと多くのものを支配できるということです」
「……なるほど。そいつは悪くないな」
ジュニスは真面目に受け取ったようで、楽しそうに笑った。
総勢700人のホヴァルト勢は、森林を抜けた。
「こっちの山道の方が近道だ」
という理由で、狭い山道を進んでいる。
狭いだけでなく、険しい。仮に足を踏み外したら、数百メートルは滑落してしまうだろう。ほぼ間違いなく死ぬ、ということだ。
わざわざこんなところを進む必要があるのか、ジュニスは首を傾げる。
「近道かもしれないけど、真っすぐ向かえばいいんじゃないの?」
森林地帯から真っすぐ向かえばいいのではないか。
高地で見晴らしが良いため向こう側からこちらの接近がすぐ分かるという難点はあるが、こんなに足場の悪いところを歩かずに済む。
「これじゃ、敵と戦う前に転落死する奴も出て来るんじゃないの?」
ジュニスは父に文句を言うが。
「サーレルの連中は正面に罠を用意しているという。多少危険だが、こちらから進む方が被害は間違いなく少ない」
「ふーん、そういうものかねぇ」
はっきり理由をあげられると、それ以上の反論はできない。
素直に従うか、と肩をすくめたところで、前方から伝令が走ってきた。
「申し上げます。この先で落石があったようで、道がふさがっております」