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「手向の小説」について

 そもそも、手向の小説とは、短編置き場以外にもう一つの側面がありまして。
 手向け、というのは餞別におくるものだったり、神様に供えることを手向けというらしいんですね。めっちゃ大雑把に言いますと。そんで、手向の小説に置いている作品たちは全て、誰かを想って書いているものだったりします。それが、僕の知り合いだったり、僕の知り合いじゃなかったり、僕自身に向けてだったり。その向けた人たちに、「神のご加護がありますように」とか、神様任せで、みんなの個人で頑張ってみたいな、他人任せでその人のせいになるものよりも、もっと大きなものにおりゃって、今辛いこととかをぶん投げてやろうと思って、そういう意味を込めて手向け、とさせていただいてます。説明下手ですいません。まあ、全部神様のせいだよね、っていう話しです。君は悪くないよ、つらかったね、これから悪いこと全部神様のせいだね、みたいな。すいません、神様。
 では、一作目「あるとき」。
 成長すると、自分たちの全てに意味を見いだすんじゃないかと思うんです。多分、そうじゃないと生きていけない、みたいな。この人と一緒に居ることとか、今勉強をしていること、本を読んでいること、誰かとつながって友達で居られること。その全部、もしかしたら深い意味は無くって、ただ、そこにあることが、それをしているとかそういう、元々のことが大切で、なにもないんだよ、とか、何もないことが案外いいことかもね、どうかな? みたいな、そんな曖昧な、気負わなくて良いんだよ、みたいな。そんな誰かに向けて。意味が無いことも意味が無い意味があるんだぜ。なにもないって大切だよねって。変化がないことに怖がらなくて良いんだよ。そう言ってあげれば、少しは楽になったのかもしれません。へへっ。
 二作目、「夜明けのコーヒーを君と」。
 間違いを後悔できる人間でありたいな、と思って書きました。男はきっと愛も恋も知らないのだから、きっと女の子はメルヘンな思いで変わっていってほしいなと思いました。ほら、高校生あたりの女子ってまだ幻想を抱いてるじゃないですか。もしかしたら僕の周りだけなのかもしれませんが。まあ、メルヘンな気持ちを持ちつつ、間違いを知って、後悔して、ああ、どうしよっかな、とか笑って、人生気楽に生きてみないかな、って。
 あと可哀想な女の子書いてみたいなと思って。多分これが一番本音。それ以外後付かもしれません。
 三作目、「夜深、更け」。
 夜は温かいのか、冷たいのか、ずっと考えていました。その結論のようなものを書いてみたかったんです。あと、ずっと眠れなくて。子供のころ、といっても数年前までですが、夜はもっと神聖なもので時々怖い物があって、とにかく未知なものでした。それがここ数年は消え去って、どうしてかとても冷たくなってしまっているように感じて、よるにぽっかり一人でいるみたいな気がしたんです。その夜のさみしさを共有したくて、そっと書きました。一人じゃないよねって、言ってみたかったのかもしれません。
 四作目、「シンゲツのヨルに」。
 私は月が好きです、というか星が好きです。一時期プラネタリウムに通ったくらいには。ま、それは関係無いんですけど。満月の日って、色々力があると思うんですよ。オオカミ男になったり、色々。それだったらきっとみんなも知らないうちに狂ってるんじゃないかって、思って。新月の真っ暗の日しか、僕らはまともじゃないのかもしれないって。ほら、真っ暗は少し落ち着きますから。
 五作目、「八月三十二日」。
 中学の頃、卒業したら死のうと思って、死ねなくて、高校の時は色々あって、死ねなくて、ぼんやりと扉にもたれかかっていました。ネクタイの輪っかからみる世界がやけに綺麗に見えました。日付は変わって九月になっていて、休日を求めていました。学校が嫌いだった訳ではなかったんですけどね。何でだったんでしょうか。と、まあ、そういう実体験じみた事を小説にしたためてみました。あくまでフィクションですので、また読んでやってください。
 六作目、「わたし」。
 少し間、元友人に小説書いて、といわれてまして一回書いたんですけど、自分の中であまり納得できていなかったので、もう一回書きました。本人には見せてないです。自分にいみはあるのかって、無個性なんじゃないかって、悩んでました。とはいえ、私はハッピーエンドをかけるわけじゃありません。一回目は書きましたけど、そんな綺麗事を書いたところで救われないこともありますから。じゃあ、もし、元友人の悩みが行くところまで行ったらどうなるんだ、と思ってその流れで書きました。それで救われることはないだろうけれど、多分、みんなっぱい風になってるさ、と軽い形で背中を押したいな……。今も悩んでいるか知りませんが、そのときの悩みもサヨウナラして、新しいわたしというか、涙に悩みを溶かして業を溶かして、サヨウナラで風に任せていってよ、という。うーん、うまくまとまらない。精進します。
 七作目、「めがね」。
 眼鏡かけてると、目が小さくなるじゃないですか。歪んで見えるじゃないですか。それって、見えている世界は本当にその世界なのかって思ったんですよね。眼鏡外したらぼやけますけど、それが本当の世界で、人の顔も、文字も、何もかも、もしかしたらもっと優しい綺麗なものなのかもしれないと思って書きました。眼鏡外してもかけていても、怖い物はなにも変わりませんですけど。
 八作目、「がったん、ごっとん」。
 思考って電車みたいに続くよねっていう話です。地下鉄で目の前の人がなぜか悩んでるみたいに思えて、悩んでいるのかわかんなかったですけど、その悩みを救えたらと思って。電車を使うあなたへ贈るものです。
 九作目、「優しい忘却」。
 実体験が混じってます。ま、インスタ消したんですけど。この作品においては本当に私のエッセイのような部分がありますのでそんな話すことはないかな……。
 十作目、「どうか「死にたい」と言ってくれ。」。
 これ公開してなかったの!? と驚きました。てっきり手向の小説で供養してるとばかり……。
 僕の友人が死にたいといった時、僕はそれに一応止める素振りを見せつつ、結局はお疲れ様、俺も死に場所に呼んでくれと言った覚えがあります。そいつは死にませんでしたが、僕の中で印象深い出来事になりました。死にたいって言ってくれたら一番ですけど、きっと本当に辛いときは言ってくれませんから、僕らはつねに人に対してお疲れと思いながら生きなきゃいけないのかも知れないと、そんなことばかり。諦めに似た感覚がずっと抜けないまま。けれど、残されたら色々思う事はあるんだろうなと、残る側になるのか残す側になるのか未だ釈然としないまま、書いてました。

 長かったですが、ここまでお付き合いありがとうございました。
 それでは皆様に神様のご加護がありますように。どうか、ご自愛ください。
 以上、宵町いつかからでした。

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