• エッセイ・ノンフィクション

言葉の増殖と収束

私は言葉を書いたり話したりするときには、何らかのルールが欲しいと思うタイプだ。どういうルールで考えれば、自分が良いと思える言葉を効率よく発見できるのか。そのルールを見つけるまでが大変だ。

言葉を書いたり話したりするのに、自分なりの最良のルールが必要と考えている以上、そのルールができるまでは、話したり書いたりする量が極端に減る。

ただし最良のルールを発見するためのメモはたくさん書いてしまう。ただそれは自分に向けたもので、誰かのために書いたり話したりする言葉とは異なる。無口なまま、自分用のメモが貯まるだけだ。

なんだかんだで「~とは何か?」と考えればよい、というゆるめのルールにたどり着くことで、外部に対して書いたり話したりを、自分で納得できる形で行うことができるようになった。

言葉に関するルールが欲しいと思い始めてしまうと、「~とは何か?」という1つのルールを示す言葉が見つかるまで、無口になるのだ。言葉の収束と言えるだろう。

一旦、自分用の「~とは何か?」という1つのルールが見つかると、それを使って考えたり書いたり話したりする量が、増えて行く。自分にとってルールが正しいかどうか試したいという部分がある。

これまでいろいろなルールを試したが、それが自然に長続きするかどうかで、自分にとって正しいルールかどうかを判断してきた。今のところ、「~とは何か?」という1つのルールが一番長い記録となっていて、自分にとっての正しさの証明となっている。

自分が考えたり話したり書いたりする言葉は、今のところほとんど「~とは何か?」という1つのルールからスタートして表現に至っている。

ここに書いている小説のようなものについては、完全に「~とは何か?」という問いとその答えしか書いていない。

人には様々な思い出の形があると思うが、私にとっては、ひとつのルールに収束するまでのプロセスが、これまでの長い時間における思い出の1つとなっている。

これからはそのルールに基づいて言葉を増殖させ、それがどこまで長続きしてその自分にとっての正しさを証明しつづけられるかが問題だ。やっぱちちょっと違うかも、という日が来るのかもしれないが。これ以上ルールを追い求めるパワーがあるのかどうか、疑問だ。

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