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佐助の名前

鎌倉には何度も訪れているのですが、鎌倉の寺社仏閣の中で、一番好きなのが佐助稲荷神社です。郷社らしくあり、小さな佇まいが好きです。鎌倉の寺社が観光地化している中で、地域のための社であり続けているのも、好ましい感じを抱きます。
佐助という地名の興りを聞いた時の衝撃は結構なものがありました。輔、介、助、丞、亮、佐、どういう字を当てようとも「スケ」は支える人の意、つまりは副官です。英語で言えば vice です。平治の乱では、頼朝は右兵衛佐(うひょうえのすけ)だったのですが、それを略して佐殿(すけどの)と呼ばれました。義朝の子弟の中でも抜きんでて官位が高かったので、早々に嫡子であったことが分かります。
その頼朝が鎌倉入りした時に助けた者たちが「佐殿を助ける」の意で「佐助」、その者らの地が佐助と言う地名に残ったわけです。
すごくないですか?
佐助って、つまり vice-vice って言う意味なんですよ?
ちなみに日本男児の通名では、官位名が流用されていますね。いいなー、官位欲しいなー、そうだ名前に組み込んじゃえ、という発想です。今で言ったらプリンス君とかと発想は同じです。
源氏物語の空蝉の巻で、空蝉の夫として伊予介(いよのすけ)という人が出てきますが、これは官職名です。今で言えば愛媛県副知事です。男子っぽい名前だなって思った人いるんじゃないでしょうか。これ、逆なんですね。介という官職が男子名化していったわけです。
佐助と言えば猿飛佐助とかいますけど、これも「官職名が男子名化したもの」なんですね。佐助という地名、そしてその地名を姓として用いる佐助家の用法の方が由緒正しいのです。

鎌倉北条氏には幾つも分家がありますね。それで言うなら得宗氏も流れから言えばそもそも分家であって、本家は名越氏です。鎌倉北条氏は本家が名越氏、宗家が得宗氏と言えるかもしれません。
佐助という分家があったのは史実ですが、そこから先、出羽に行って近江に流れ着いた子孫がいるというのは完全な創作です。

元々、「小説家になろう」で書いた「豊右府末裔顛末記」では最初の主人公の名前は、佐助秀興だったと思います。今回、それを吉興に変えたんですが、秀吉から偏諱を受けるにしても、秀興はちょっと重いかなと思ったんですね。秀の字は重い。同僚格、大大名格では秀の字を与えている例はありますけど、佐助さん、最初は家がつぶれた浪人だったわけですしね。あの「豊臣子飼い」勢の中でそもそも秀吉から偏諱を受けている人がそんなにいない。三成ですら受けていないわけです。受けているとしても吉の字ですね。大谷吉継のように。
なのでこれを機会に吉興に変えた、というわけです。

その吉興さんの息子の時康くんですが、この人もリライト前は名前が忠康という名前でした。関ケ原後に元服して、徳川をたてる意味で、秀忠から偏諱を受けた、康の字は祖父の信康から継承した、という形にしてあったんですが、ちょっとくどい。忠も康も、徳川に由来しているのは一目瞭然ですから。
ならば、ということで鎌倉北条氏の時の字を使ったわけです。で、時康。康の字は、信康から継承したという形であっても、家康から偏諱を受けたわけじゃありません。偏諱は原則として、偏諱受けた字が上になりますから。榊原康政のように。

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