〇純文学の要件
ⅰ)作者が作品を倫理的に引き受けていること
ⅱ)他者を精製しその他者を包摂すること
国木田独歩は『牛肉と馬鈴薯』(1901年)において岡本に、
「びっくりしたいというのが僕の願いなんです」
と言わせています。このセリフの真意は、朝ごとに仰ぎ見られる曙光や、夜ごとの星や、雲や、夕焼けの情景を、あたりまえのものとして受け取りたくない、見るたびに(自分とは異なるもの、それが自分の外側にあることを強烈に意識して)びっくりしたいということでした。
人は自分の身体には"慣れて"います。すなわち"慣れる"ということは、自分の身体の延長上にある出来事のように感じて、特に意識しない状態、だと言えます。岡本の願いは、自然や天体の運行が、自分の身体の延長上にあることのように慣れたくない、と換言することができます。
純文学的描写の態度は、この、岡本の態度そのものです。何か物を見る、他者と出会う、そのたびに対象物を自分とは異なるもの、それが自分の外側にあることを強烈に徹底的に意識して、対象を"再発見"します。対象を、身体の延長上にあるかのように慣れ親しんだものとしては描写しません。
すでに慣れてしまったものは、描写されません。ただ単に「曙光」「星」「雲」「夕焼け」とだけ書かれます。特段の修飾語を伴わない描写のされ方は、そのものがすでに、作品世界のなかに馴染んでしまったことを示唆しています。
慣れ合わないことが世界の常態であるため、純文学はまずその世界の排他性を写し出します。対象を慣れ親しんだ単語で呼ばずに、その都度"再発見"することで対象を疎外します。いわば、純文学は対象を描写において"再発見-疎外"しつづけることにより、作品世界のなかにエントロピーのように"他者性"を貯えてゆき、慣れ合わない世界の常態をありのままに描写します。
登場人物の目を通して作者が物を凝視するとき、自分とは異なるもの、それが自分の外側にあることを強烈に意識して凝視すればするほど、対象との間に距離が生まれ、画角がついてきます。これを反対から言うと、描写にパースペクティブ(遠近感)とアングル(画角)がつくほどに物(他者)は対象化されて、再発見され、作品世界内部において疎外されている、他者として精製されていると言うことができます。パースとアングルを伴なった描写は、純文学が"精製された他者"を包摂するために、必要な方法であると考えられます。
ⅲ)生活を批評していること
ホイジンガ『中世の秋』(1919年)によれば、13世紀『薔薇物語』が提供した、騎士道風の宮廷恋愛へのはげしい憧れをいだいた当時の位高き人々は、やがて美しい生活というものの不可能性をまのあたりにし、女性蔑視、教会用語の隠語化、下流階級への侮蔑の眼差しなど、彼らの間にはなはだ放恣な風紀紊乱がひろがった、とされています。
人生が詰まらない(美しくない)のはあたりまえであります。物を書こうというほどの人は、ここで二途にわかれます。ありもしない何者か、架空の人生をえがいて、人生の無聊を慰めるために架空の人生を消費しようとするのか(人生の共喰い)。人生の詰まらなさをそのまま吐露してしまうのか。
おそらく、そうではなくて、人生の詰まらなさの手前に踏みとどまるのが、純文学的態度であると信じます。人生が詰まらない(美しくない)からと言って純文学はそのことに絶望しません。無論、不可能な人生、美しい生活をえがくことはしませんが、生活をそのまま露悪的にえがくこともしないでしょう。生活を批評しながらこれを再構築します。謂わば、人生が詰まらない(美しくない)ということそれ自体を解体し、批評します。作者は自らを生きながら、文体の上では生活をやや高所から見下ろす視座を手にして、生活を再構築しながら、失われてしまった宗教観や、倫理観や、あるいは新たなる宗教観や、倫理観や、人生を生きるに値するものたらしめるもの、忠を抜きんずるに値するものを、直接人生から引き出してこようとする態度を決して崩さないだろう、と信じます。
ⅳ)純文学自体を担い直していること
純文学が第三者をえがくことができるのは、共感能力の産物であります。純文学の担い手は、自己をこえて共感をおしすすめ、第三者の抱えているであろう世界の感覚を作品世界の感覚のなかに容れようとする一方、この純文学にふれた読者は、自分の感覚が作品世界の感覚のなかに予め容れられているという事態を体験するでしょう。読者の抱えている感覚を、純文学が予めなぞっているようなこんな事態に出くわすのは、ひとえに担い手が自己を超出して、いかに他者を容れればよいかについて、技術的に葛藤しているからに他なりません。
純文学に容れられることでこれに与った者は、今後も一方的に自分を容れてくれる場として純文学をとらえるか、或いは今後はなるべく多くのものを容れることのできる純文学の担い手に自ら転身するか、のいずれかに分かれます。
担い手は自らの感覚に逆らってくるようなものをさえ、作品世界のなかに容れねばならず、ここに技術的な葛藤がはじまります。意に添うものも染まぬものもひとしく、作品世界の裡では、解体作用の雨をあびて、のちに審美的に再構築される運命にあるのですが、その際、身自らも解体作用の雨をあびて仮構裡に溶け出してしまい、担い手の不在が仮構裡全土をおおうこととなります。雲散霧消したあとの担い手は今や無数のうたかた、極微小な顆粒、溶けてしまったものすべてを再構築するためのアトムとなり、あらゆるものになりかわらなければなりません。純文学とは謂わばこの、歴史的に積上げられてきた容れるための技術の集成であります。
自分が著したものを純文学と呼ぶのか、あそこにあるものを純文学と呼ぶのか――あそこに予め積み上がった他者を容れるための技術の集成があって、そこに自分が著したものを携えて参加しようとするのか。担い手であるか否かは、何を純文学であると指呼しているかによっておのずと明らかになるでしょう。
ⅴ)饒舌な沈黙であること
決定された文字の排列以外のいかなる言葉も欄外において不要なまでに、抜き差しならないことが望ましいです。他のいかなる言葉とも置換えがかなわないので、あたかも人間の司る饒舌な話し言葉(パロール)から絶縁されたかのように、饒舌でありながら深い沈黙のなかに文字の排列が鎖されています。
(ぼちぼち、書き加えていきます)
2025年09月07日
2025年09月13日 加筆(ⅲ)
2025年10月14日 加筆(ⅳ)
2025年10月27日 加筆(ⅴ)
2025年11月24日 加筆(ⅰ)