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【自主企画】純文学品評会

コメント下されば、随時、読んで感想書きます。
できれば僕の書いた物についても何か言ってくださいね。
お互い言いたいことを、侃々諤々、言い合えればいいかと思うんです。

・解釈
・構成
・表現
・誤字脱字や文法 など

について述べます。

・ご自分の文体が誰に似ていると分析するか

についてお聞きします。この点について明確にお答えいただけなければ、僕は感想を述べません。

それにしてもあっちぃですね。こんなくそ暑い夏なんかより、俺の純文学への情熱の方が余程あついぞ、って方、お待ちしております。忌憚のない意見交換をしましょう。常に、ね。

最後に、読者がいなければ書くことはできません。純文学を大切にする皆さんがいてくれればこそ、皆さんを読者だと思って、今もこうして筆を執ることができます。希少な純文学作家の皆さんに感謝を。

純文学の興隆のために頑張りましょう。

第一回
https://kakuyomu.jp/user_events/16818792437652427997
第二回
https://kakuyomu.jp/user_events/822139837683135447



R7.07.31 朝尾羯羊
R7.09.17 更新
R7.10.18 更新
R7.11.24 更新

2025年8月2日 10:40
【自主企画】品評会の目標


・純文学プラットフォームの形成
・嘗ての水準で文学をやる


執筆歴11年目で、カクヨムも長いです。
純文学といえばカクヨムで、あすこに作品を投げかけときゃ、バシッと手応えが得られる……そう周りから認識されるプラットフォームを作りたいっす。

作品の質は半分くらい読者が決めてるようなもんすから。僕もよき読者でありたい。微力ながら感想を書く労は惜しみませんわ。

純文学作家の皆さんも、読まれるためにはまず読んで、感想書かなくっちゃ。

じゃないと数の論理にひれ伏しちゃうんですよね、無意識に。
ボタンをぽちるっていう単純化された行為によってしか、価値判断の場に参与できなくて、やがてそのことに慣れてしまいますわ。

それじゃ純文学は機能不全に陥ります。エンタメと同じシステムの中に組み込まれちゃ、形無しです。僕はぼちぼち抗います(笑)



R7.8.2 朝尾羯羊

22件のコメント

  • はじめまして

    正岡子規のアクセントでアタオカしきと申します。

    「創作は受け手と送り手のコミュニケーション」を標榜して創作に挑んでおります。目指すは実用書的物語です。

    貴重なお時間を割かせてしまうのですが、フィードバックをお願いしたい作品がございます。貴企画へ参加させた作品です。

    この作品は、拙作『異世界徴税官』にて使われている技術と持つべきコミュニケーションプロトコルを説明するために描いたものです。その目的を完璧に反映できており、端的に圧縮して使用された技術が全てが詰め込まれています(異世界徴税官に紐付く作品であるため、現代日本ではないのですが……汗)。

    評価は全く要りません。
    より良い作品を描くため、フィードバックをいただけませんか。
  • でも1番気になるフィードバックはシナリオや表現ではなく、押韻についての箇所です。日本ではあまり一般的でない表現技法ですが……ラップにあるような押韻のために意味が崩れることがなく、むしろ意味も強化されているところが私の好きなところなのですが……いかがでしょう。
  • アタオカさん

    はじめまして。ご連絡ありがとう存じます。
    御作『鼻下の鼻水 美化で乾びる:美化の鼻水 鼻下で乾びる』たしかに承りましたです。
    言われてみると、僕は押韻という切り口で文章ってやつを精査したことがなかったですね。たぶん無意識の領域でやっているやつかもです。僕は僕で、あらためて勉強しいしいになりますけれど、少々お時間くださいね。
    御作を通して、勉強させていただきますわ。
  • もしや……ご期待を裏切ってしまいましたか……?すみません……
  • アタオカさん

    ここのところ生活面で厄介ごとに巻き込まれてしまい、カクヨムに寄りつくことができずにおりました。返信おくれてしまい、面目ないです。

    追って御作のコメント欄に書くつもりでおります。
    現時点では、読んだんですが、ちょっとよくわかりませんでした。僕は、洋画などの影響をアタオカさんが強くこうむっているところから、音声中心主義的な書き方だとは思いました。漢字のもつ表徴性が熟しきるまえに、音に還元させているといったらいいんですかね。
    日本語は読む前から(音に変換する前から)その漢字仮名まじりの字面が表徴性をそなえており、音読以前に絵画的であり、その見た目でもって読み手の想像力に訴えることすらできるかと思います。或る意味御作では、この機能が削がれている。そして一本気な表徴性の積み重ねよりも、(僕はまだここが読みとれていませんが)なんらかの韻律の規則性のために表徴性を枉げさえしている。韻律がいまだに呑み込めていない僕からすると、表徴性が熟しきるまえに韻律が優先され、ために与えられる情報が断片的になって、情景あるいは情緒の豊かさが感じられませんでした。

    押韻ではないですが、僕は韻律で意識することといえば五七調で、表徴性の豊かさを確保しつつ、しかもそれがアクロバティックに五七五、七五、七七などの非常に足場の狭い島々に、飛び石伝いに連絡されていたりすると、まさにその韻律が、表徴性の豊かさを彌高めるケースはあると考えております。が、とくにあの瞳の色のくだりはいまのところよくわかっておりません。何かしらの意味が強められているという感じもしません。

    表徴性と韻律の両立は、かくも難しいものですね。かと言って僕は、表徴性が熟しきるまえに韻律に突っ走るのは禁物だとも思います。その場合、韻律は何の効果(意味)を強めるのか、対象を見失ってしまうような気がします。
  • やはり困惑させてしまったようですね……すみません。

    この作品は、人の脳の、注意が向く特性を利用したものでして……

    他者理解の実践と銘打たれているように、人の心を理解することで景色が変わってくる作品です……これは偶然なのですが、作中のカメラ=書き手の考えをなるべく最後列にして没入感を高めたい結果、洋画的?になっていると考えたりしています。

    もちろんテクストの範囲内で完結するようにしておりますが……この短編だけは違うような気がしています。

    人生経験で作中で何が起こっているのかの理解が明確に変化すると思います。そこが他者理解の実践というテーマに関わっており、押韻はもちろんこだわっておりますが、あくまで、表層、中層、下層、底、と分かれている作品の見え方のうち、中層以降の読者へ、着目すべき点としての作者の作為です。美しい→良い、荘厳で山のよう→良い、という単純化の設計もあります。文字通りの意味に混乱させられる感じです……

    嫌味とかの文字通りの意味でない、言語学の意味論と語用論が大きく作中言語に関わっています……どう……でしょう。荒唐無稽ですか……ね……
  • アタカオさん

    ご説明を伺っても、僕はまだよく呑み込めていない模様です。

    「嫌味」という表記が、ただに皮肉や、受け手に不快感をもたらす行為を指すにとどまらず、読んで字のごとく「いやな味」「不快な味わい」という意味をも包括するにいたる試み、ということでしょうか。巷間に通用している意味の裏がわに、もう一つの意味が隠されている、という構造でしょうか。しかしそういった読み替えって、読者の「人生経験」如何で変化するものなんでしょうかね。僕には少し疑問です。
    たしかに年齢を重ねると、読んでもわからなかった一節の意味がわかるようになったり、逆に当時読んで感心した一節が今では響かなくなっていることはあります。「人生経験如何で読解が変化する」という部分については僕も「然り」と思います。
    けれどもそれは、作者がわざわざ仕組むべきことなんでしょうか。

    一万字に満たない小説で、謎解きを挑まれた経験が何度かあります。共通しているのは、読み手に与える情報を故意にしぼって謎を拵えておきながら、尚且つ作者は理解されたいと思っているらしいことです。僕は「他者理解」を「作者の企図を理解すること」と読みました。ですがこれはまるで、心理カウンセラーにむかって自分の閲歴を断片的に語りながら、「この人はどこまで僕の実のところを察することができるのだろう」と挑んでいる様子に似ています。挑まれたカウンセラー(読者)は「彼は本当に理解されたいと思っているのだろうか?」という感想を抱くでしょう。
    畢竟、言葉を尽くせば尽くすほど、虚構の虚構らしさ(白々しい嘘臭さ)が際立ってくることがあり、虚構の虚構らしさという小説の底を悟られない(理解されない)ようにするべく、作者は韻律によって言葉をしぼったり、疾走感によって読者に考える余地を与えないよう工夫したりします。つまり情報をしぼるのは、小説の底の底を、読者に理解させないためだと僕は考えます。或る意味それは、作者の羞恥であるのですが、その羞恥を逆手にとって、羞恥がもたらした謎をもって読者に挑戦するというのは、何か奇妙な顛倒のようなものを感じます。

    僕は三島由紀夫が好きなのですが、三島は言葉を尽くす方です。しかも書き尽くしてなお謎が残るところに彼の作品の魅力があり、換言すれば、魅力とは、謎のもつ奥ゆかしさです。彼とて、小説の底を悟られないように故意に用語法をずらしているケースが多分にあります。けれどもそのずれがもたらした謎について、三島は読者に理解をもとめないでしょう。理解されては困るからです。しかしながら、明晰であると自認している三島が、まるで痼疾のように、根本的に誤解している部分を無意識にさらけ出しているために作品全体にもたらされる謎というものが一方にあって、僕はこの(作者が自覚できていない歪みがもたらす)謎の方に心惹かれます。
    故意に情報が隠されることで生まれた謎は、作者が隠している部分を提示すればそれで終わります。それはしかしながら本質的に心惹かれる謎ではないのだと僕は考えますね。
    故意に情報をしぼって書かれた小説で、謎解きを挑まれても、僕はなるたけそれに応じないようにしております。でもこれはこれでこだわりのある美学に思われますんで、面白いとは思いますよ。
  • "挑まれたカウンセラー(読者)は「彼は本当に理解されたいと思っているのだろうか?」という感想を抱くでしょう"

    うおおおお!説明せずに済んでとても助かりました!話の前提が共有できていますね!あなた様の感じているところは、全て自問自答によって私は答えを出しました!

    私は創作を、実用書として作ろうとしています。どのような実用書かというと、人類学、社会学、そしてこれから管理職、統治に関わる人のための実用書です。サリチル酸メチルと聞いて、私も含め全然ピンとこないはずですが、医療に関わる人であれば湿布のことだと分かるように、私が目指すのはこの構造です。

    "僕はまだよく呑み込めていない模様"

    いえ……全く問題ございません!あれはカクヨムで初めて公開することとなった作品であったため、人類学や社会学に関することがどれほど浸透しているのか、そして、どのくらいコミュニケーション的な創作を行う方がいるのか、威力偵察みたいなものです!そのため、力加減が分からなかったので、実際にいる読者ではなく、とりあえず自分が想像する読者を設定して作りました。当然、拙作、異世界徴税のためだけの作品であることには変わりありません……

    "けれどもそれは、作者がわざわざ仕組むべきことなんでしょうか"

    私の創作の目的から見ると必ず必要なものですが、ここで、いや私はそう思わないという立場が現れることを、リヴァイアサン的万人闘争と私は呼んでいます。前述した、統治のためにこの衝突を解消する術を物語を通して伝えていく感じです!

    "「他者理解」を「作者の企図を理解すること」と読みました"

    創作はコミュニケーション、だと私は定義しております。創作とは、すでに人の意図によって生まれるもの、であれば、勝手にできた自然法則とは異なり、受け手と送り手の対話であること前提であるため、むしろ私は積極的に対話的であることを試みています。分からなければ、それは先ほどのサリチル酸メチルのように、対象者でなかったり、これから医療者となれば、分かる日が訪れるように、何事にもタイミングが重要ですから……!分からなければ、今この瞬間は、私の創作的実用書は必要なかっただけのこと……!

    "僕は三島由紀夫が好きなのですが〜〜〜僕はこの(作者が自覚できていない歪みがもたらす)謎の方に心惹かれます"

    もしよろしければ、より詳しくお聞かせ願えませんか……!現在はエンタメに挑んでおり、新たな読者層の開拓を目論んでおりますゆえ……!
  • アタオカさん

    三島にとって愛とは、美しさへの愛以外にありませんでした。しかし他者がそなえている美しさについては、三島はこれを愛しつつ且つ憎んでおりました。自分がそれ自体であれないからです。対岸にある美に対し、醜悪な者として此岸にあって「生きているがゆえに衰えゆく美」を殺害して「永遠の形式のなかに美を閉じ込めてしまう」作業に没頭するのが芸術家であり、三島の自己規定はかつてはこれでありました。ところがこの、美を愛し且つ憎んでいるアンビバレンツを解消することが、三十代以降の三島の課題となり、且つは倫理となってしまいました。自分自身が美しいものとなることによってもはや他の美を愛することも嫉視することもなくしてしまうことを、当為として設定しました。
    歪みとは、一般的に美しさに関与する行為は審美の範疇であって、倫理的ではあり得ませんが、愛というものを、美に対する愛以外に知らなかった三島が、審美を倫理と同一視してしまったところから生じています。
    三島が自分を被写体にしたり、俳優をしたり、私兵を率いたりしたこれらすべての「美的な行為」を、彼はひどく倫理的な面持ちでやっていたのであって、その眉間に倫理的な皺を刻んだしかつめらしい面持ちは、一般的な愛と倫理を知る者からすると、とてつもなく奇異なものに映ったことでしょう。奇異さと、愛が歪んで理解されているさまは、三島の作品のどこからでも見てとれます。

    僕も一つ質問したいのですが、『鼻下の鼻水 美化で乾びる:美化の鼻水 鼻下で乾びる』はどんな年齢の、どんな境遇にあって、どんな壁にぶち当たっていて、何を目下求めている人にとって実用的なのでしょうか? 実用的ということは、人生において必要な方法や、思考や、心構えを教えるということだと思います。どんな人をターゲットにしているのでしょうか?

    また『鼻下の鼻水 美化で乾びる:美化の鼻水 鼻下で乾びる』が一つの試金石にすぎず、明確なターゲットを定めていないということでしたら、本編である『異世界徴税官』は、どんな人にとって実用的なのでしょうか。
  • "三島にとって愛とは〜〜〜〜〜三島の作品のどこからでも見てとれます"

    は〜なかなか大変そうな脳機能の活性があったようですね……話を聞いているとやはり統治者的作用があったように感じます。
    どのあたりが統治者らしいかというと、物事や事象、考え方を自ら定義して、その定義のもとに運用することです。それが"且つは倫理となってしまいました。自分自身が美しいものとなることによってもはや他の美を愛することも嫉視することもなくしてしまうことを、当為として設定しました。歪みとは、一般的に美しさに関与する行為は審美の範疇であって、倫理的ではあり得ませんが、愛というものを、美に対する愛以外に知らなかった三島が、審美を倫理と同一視してしまったところから生じています"の部分です

    びかの鼻水を書いてから時間が経っています。その間に、仮想読者という自分が想像するフィードバックから、実際の読者の生の声が聞けて軌道修正ができ、私も成長した、という背景は押さえておいてもらえるととっても嬉しいです!
    当時は人に見せたこともなかったので、まずは異世界徴税官そのものが、私が狙った読者(統治者、管理職的な立場になる人)に刺す構造であることを伝えるために、家庭があって、うまくいってなくて、相手の気持ちを常に大事にしていて、しかし相手はこちらの気持ちを慮らない、という経験がある人に対する共感の作品、というような換喩を行いました。異世界徴税官(統治者のための濾過作品)鼻水(作中事象に共感する人のための濾過作品)的な構造です。

    私はその当事者の人に対して、私はあなたの気持ちに共感します、という隣に立つ気持ちになりながらも、あなたの気持ちは周囲に理解されることはきっとないだろう、これからもずっと続くはずだ、というものになっております(当時は仮想読者だったので、理論しかないガラクタみたいなものです)

    異世界徴税官は、先ほどもお伝えしたとおり、統治や管理職に関わることになる人のための実用書です。三島由紀夫さんのそう考えるようにいたるものを、統治的な観点からコントロールするため、または、三島由紀夫さんのように団体を引っ張るためにどのような社会集団の形成が必要か、ということが、人類学や社会学をもとに描かれています。カクヨムにおいて、運良く具体例が挙げられることがあります。それは自主企画を行い、トラブルのために傷心する人です。傷心しないために、またはその企画における統率、統治的コントロールをするにはどのような視点が必要かということが描かれています。宗教や倫理、言語とは統治システムである、という言葉が異世界徴税官をよく表していると思います。

    偉そうなことを言っていますが、このことを話し合えたり、相手から反論をもらえる環境が身近にないです。そのため成長できずに困っているんです……もしよろしければ、ご遠慮なくお言葉をくださいませんか……?
  • アタオカさん

    いやぁ……ようわからんですね。

    《このことを話し合えたり、相手から反論をもらえる環境が身近にない》というのは、ようわかりますよ。痛いほどようわかりますよ。僕も同じですから。

    しかしながら僕は今、『純文学』という看板を掲げてやっているわけで、どうしてその僕がエンタメ志向のアタオカさんに対して片務的なフィードバックをするんでしょうか? その場合、僕の動機は何ですか? 僕が気のいい・しかし物言う一読者に見えましたか? 僕もまたフィードバックをもとめている一書き手ですよ? お互いにフィードバックを与えそして得られる関係ならまだしも、片務的な関係は持続可能ではありません。

    「純文学の興隆のため」とあらば、僕は多少利他的にもなれます。しかしなぜ僕がエンタメのために一方的に意見せんけりゃならんのでしょうか(笑)

    まったくもってようわかりません。
  • 失礼いたしました!

    ターンエンドを言い忘れてました!

    いえ、今までエンタメ志向を見せないとびっくりされたり逃げられたりするので、まさか逆だったとは……汗汗

    "片務的な関係は持続可能ではありません"

    それは常に忘れないようにしていることです!量と時間を費やすことができる覚悟がありますのでご遠慮なく私へ負担をかけてください!


    あなた様の定義する純文学をお聞かせ願えませんか。どのようなあり方を、純文学と呼びますか。日本語であるのか、言語にこだわらないのか、または人を描くことであるのか、日本語ができることを、限りなく引き出すことなのか、ぜひ、あなた様の定義をお聞かせください。
  • アタオカさん

    純文学について、真花さんという方の近況ノート(8月3日付)にコメントしましたんでそちらをご覧になればわかりますが、僕は純文学を表現性の

    踏襲-批評-のりこえ

    であると考えます。また純文学にのりだす前提として、

    言葉の歴史に対する表敬
    歴代作家たちに対する表敬
    歴代作家たちの後継者としての自覚

    が挙げられます。

    ――

    そもそもなんでそんなことをお聞きになるんですかね?「実用書的小説」を標榜しているアタカオさんと「純文学」を標榜している僕とでは、どこまで行っても平行線ですよ。
  • お二人の議論に首を突っ込む形となり申し訳ありません。
    先程、「こころの雨。」を自主企画に参加させて頂きました。

    影響を受けた作品というのは特になく、書きたいと思って書き始めました。
    意外にも純文学の中では高めの評価を頂いておりますので、ぜひご一読ください。

    実は私、「Pure Literature Engage Club」通称PLEC、つまり純文学を広めるためのカクヨム上の非公式グループのリーダーをやっておりまして、朝尾さんの構想にぴったりかと思い、お誘いさせて頂きます。
    PLECの諸々についてはこちらに載せてあるので、ぜひ。

    https://kakuyomu.jp/works/16818622171328470749

    まだ私も中学2年生で、至らない点がそこかしこにあると思います。今回のコメントで朝尾さんの気を悪くさせてしまいましたら、申し訳ございません。
    でも、純文学を広めたい、という点では同じだと思っていますので、よろしくお願いします。
  • こよいさん

    コメントいただきありがとうございます。が、ですが、今回は感想を書くことも、貴グループへの参加も、見送らせてください。

    僕は純文学を広めたいのではなく、純文学の野放図な伝播を阻止したいと考えているので、こよいさんとは根本からちがいます。

    もし純文学を「人に感動を与えるもの」と定義したとしましょう。
    すると「感動できなかった人にとってそれは純文学ではない」となります。作者も「人それぞれだから、あなたにとって私の作品は純文学ではないのでしょう」と開き直る準備があります。

    これをつづけてゆくと、感動できたグループと感動できなかったグループとに細分化されて、グループ内では純文学として通用し、グループ外では純文学として通用しない。しかし互いが互いに純文学を名乗っている……しかしながら絶望的に双方の純文学のあいだにコミュニケーションは成立しない、という事態が生まれます。

    これが"狭義の"純文学です。純文学を「人を感動させるもの」ついでに言えば「人を感動させられれば何でもいい」と定義づけることがいかに危険であるかが、わかりましたでしょうか。

    けれども、嘗ての作品群をいただいて純文学の歴史に作家が参与するかぎりでは、その作品が感動できようができまいが、依然として純文学の歴史のなかで起きた出来事であり、感動できた・できなかったグループ双方にとって意味があるものとなります。

    僕がカクヨムにおいて企図しているのは、そういう純文学の土壌の再建です。
  • 提供してくださった要素を見る限り、やはり、同じことを考えているようですね!
    いやはや。よくご存知で!それとも日常生活とちう具体から抽象化して導けたのでしょうか!

    純文学を見つめることで何が得られるのか、それともそれが目的であるのか深掘りしてみたいですね!

    "「実用書的小説」を標榜しているアタカオさんと「純文学」"

    日本語の欠陥なのですが、私は何も標榜していないのです!人に説明する時は、名詞であると伝わりやすいですからね!仮の名前ということです!いつまでも、あれこれ言っていると不必要なコミュニケーションコストが高くなりますからね!

    ありのままをありのままに。です。
    りんごが目の前にあるなら、りんごであると思わず、名詞も与えず、ただそれを見つめ続けること。人という脳の認知に縛られながらも、構造上あり得なくとも、ありのままをありのままに。

    私は欲張りで社会集団の中にいるので、その要素に統治やらエンタメやら、周りの様子を見ながらありのままをありのままに見せようと試みている感じです。

    羨ましいです……その血統。その資格、その環境、その血がなければ叶わない文学です。


    いかがでしょうか。
    リヴァイアサンの万人闘争、そう思いませんか!
  • アタオカさん

    ふうむ……。なあるほ……ど?

    つまりアタオカさんは、「純文学には実用書的側面がある」と考えているか、「実用書的小説には純文学的側面がある」と考えているか、あるいはその両方である、という風に理解すれば、よきですかね?
  • 朝尾さんがしたいことを間違えて勝手に解釈してしまい、申し訳ありません。
    まとめると、人々が自分勝手な定義付けをしてそれを伝達することにより純文学の定義があやふやになっていくことを阻止した上で、純文学の定義、そして意味を確立させたい、このような解釈で合っていますでしょうか。語彙力がなくすみません。

    それは私がPLECを運営するに当たって常日頃考えていることです。
    純文学の大賞を開催するにも、調べて出てきた定義のみしか扱うことができず、いまだにメンバーの皆様に混乱を与えてしまっている状況です。

    もし朝尾さんさえ良ければ、このことについて議論させて頂きたいのですが…。
  • こよいさん

    いいですね。議論はとっても大事だと思いますし、僕が言ったことの解釈はそれでばっちりです。

    「純文学風」と誰かが言い出して、それがまかり通ると、「あれ? これくらいだったら私にもできるかも」「純文学って言うとなんだか気分アガるし」といった具合で、"ミラノ風ドリア"ばりの気軽さでみんながみんな純文学を名乗りはじめた挙句、純文学の歴史を誰も学ばなくなりますから。それは結局、純文学そのものを、そう名乗っている人たちが軽視しているからだと思います。

    ――

    僕が考える純文学の門戸はきわめて単純ですよ。

    ⅰ)純文学の淵源をつねに問うこと。
    ⅱ)純文学を大切にしていること。自分の作品のために、ではなく、純文学のために熱弁がふるえること。
    ⅲ)純文学の歴史の中から課題を見つけ出してきて、その課題を自作において解消しようとすること。

    近況ノート(【自主企画】純文学とは何か:ⅰ)で書いたことは、なぜ現代文学は近代文学に比べて描写性において明らかに劣っているのか、に対する一つの回答のつもりで書きましたが、純文学に必須であるとまでは考えていません。

    ざっくり言うと、こんな感じです。
    こよいさんは純文学をどんな風にお考えですか?
  • こよいさん

    すみません。もーちょい簡単に書きます。

    ⅰ)ある作家の作品に感動する。
    ⅱ)ある作家のスタイルをまねしてみる。
    ⅲ)まねしてみて、作家のいいところと悪いところをわける。
    ⅳ)悪いところをなくせるようなスタイルを模索する。
    ⅴ)できあがったスタイルで自作をつくる。

    (ⅰ)~(ⅴ)までのサイクルをくりかえしていれば、もう立派な純文学だと思います。
  • 亜咲さん

    発見、というのは真似っこのくだりですかね。

    僕は森鴎外があまり得意でない(よくわからない)ので、模倣ができないんすよね。三島由紀夫も森鴎外の文体を模倣して「金閣寺」を書いてますけど、僕にはお恥ずかしながら、どのへんが模倣になっているのか、わかりません。

    模倣ができるということは、その作家の美点が見えているということ。美点が見えてなきゃ模倣すらできないんで、それだけで一歩リード。どこを美点と見るかで、模倣も千差万別になって、模倣した文体を通してその作者の森鴎外解釈が透けて見えるので、その点でも面白いですね。

    ――

    文学賞への応募もなさっているようで。原稿用紙10枚でガス欠起こしても、ぜんぜん、焦ることないっすよ。作家なんてみんな、本当に言いたいことなんて10枚もないでしょ?
    でもその10枚ではとても"表現"しきった気がせんので、何度も何度も舞台をととのえ、筋をととのえ、文体をととのえて、同じその10枚の敷衍に挑むんだと思います。
    三島だって、ずっと「終戦前の夏はよかった」ってことしか書いてませんし。同じ主題を変奏することが大事だと思います。

    応援しとります。
  • 朝尾さん

    返信がとてもとても遅れてしまい申し訳ありません。拝読しました。
    わざわざ私のために簡単に書いてくださってありがとうございます(´;ω;`)めちゃめちゃ分かりやすいです!

    私にとって、純文学は……やはり、世に溢れている娯楽小説とは違い、娯楽として楽しむものではなく、作者が伝えたいことを読者たちが議論し、様々な考えを生む作品のこと、ですかね。
    まだ13年しか生きていない未熟者なので、少々抜け落ちているところがある気がしますけれども(^^;

    今、楽しい。悲しい。虚しい。そういう気持ちをただ言葉で表すんじゃなくて、もっと深みができた、立体感のある文章で相手の心を動かす、そんな作品を私は目指しています。

    うーん、今のところ全く一歩目さえも出せていないような状況ですが。
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