• 現代ドラマ
  • 歴史・時代・伝奇

【自主企画】第一回寸評

-/★/★★/★★★(四段階評価)
43作品/平均点0.97
作品名/作者名(敬称略)

★★★
1位 蜻蛉玉/鶯雛ちる
 妻を夙くに亡くした、初老の男の心境か。娘ざかりの子の上に、若い頃の妻の面影を見つけては、またはっとするようなみずみずしい娘の仕草に、その幻影を破られてしまうことのくりかえし。廻り燈籠のように目の前をかけ過ぎてゆく回想は、去にし日に見たもの、聞いたもの。まるで今まさに泉のように湧いてはすたれてゆく情緒に、名前を与える代わりに、嘗て見たもの聞いたものに情緒をなぞらえようとするかのように、記憶の筐底をひっかきまわしてこの情緒をぴたりと言い当てている歌留多がないかとさがしているかのように、体言止めが積み重なる。あまりに現況とかかわりのない風物がひっぱり出されてくるので、情景が記憶に冒されてやや不鮮明。
 魅するような黒のなかに、変幻する色の虹が含まれている。作中では「黄金虫の効果」と呼ばれていて、そうした色の幻視をさそうものは、たとえ死んだ黄金虫が残して行った鮮やかな翅の片方であろうと、秀雄はそこに目眩を感じて、拾い上げて胸ポケットにしまわざるをえない。何とも言えない習癖の持主に見えている、記憶に冒された玉蟲いろの世界。
 夏の盛りにおとずれた高原で、お目当ての蝶蜻蛉が、あの魅するような黒紫いろの翅を光らせて、香蒲の繁みの上をたわむれるように飛んでいる光景に出くわす。と、急に連れ立ってきたはずの娘の姿が遠ざかり、しだいに深い青いろをたたえている渕の水音にかさねて、あるいは対岸のほうから、娘がいつかピアノにのせて歌ってくれた唄だけが、残響のようにひびいてくる。幻想の終結。秀雄ははじめから終わりまで一人で歩いていたことが、おそろしい夜明けのように明るみになる。

★★
2位 漂流/新川山羊之介
 力の抜き所を知らない・走りっぱなしが常態化している女子生徒。けれども要領のよい子には追い抜かれ、一生懸命なことを暗に諷され、優等生だと言われることがひっくり返しに屈辱にすら思えてくる糅然たる心の模様は、いろいろな色がまじり合った毛糸玉のように汚なく、人に打明けることもできない。彼女が一生懸命に走っていることは最早周囲にとって当たり前であり、しかもそんな彼女の横っちょをするすると誰かが抜いてゆくことまでを含めて、彼女は自分の駈け足に慣れてしまっている。駈け足が休むに似て、本当に足を停めて休むことを忘れてしまった――。そんな彼女が朝の電車を乗りまちがえた。自分が疲れていることを、足を自然におもむけた体に諭されたように気づいて、電車の中でくずおれてしまう。
 優等生であるのに、優等生であるというだけで、一人の友人にさえ選ばれなかった。《何が彼氏だ。くだらない肩書き引っ提げやがって。》
 たどり着いた海で、ずぶずぶと水平線に溺れ死んでゆく真赤な太陽の悲鳴の大いさに、彼女は自分の悲鳴の切実な響きに正確につり合うものを聞いている。

3位 愛のカタチ/山猫家店主
 学生時代、異性交遊に事欠かなかった主人公は、社会に出てよりモテる男の基準が遷移したことに、薄々気がついていたが、その基準が急峻に立ちはだかったのは、卅の坂にさしかかろうという年頃。結婚を仄めかした相手に、生活力のなさを鼻で笑われてしまう。≪結婚と遊びは別≫という言葉が突き刺さって、勤め先の海外拠点のあるフィリピン行きに衝動的に手をあげるところからはじまる。
 空港を出てから、渋滞にぶつかり、中央分離帯に屯していて物を売ったり乞うたりするために、停車中の一台一台をおとなう人たち。日本の長期滞在者ばかりを泊めるホテルと、その周辺に散在する日本語表記の看板の店。出歩く時は、金目の物を帯びず、なるべく軽装で、複数人で行くこと。男だらけの職場で溜まったものをどこで処理するのがいいか、等々を、現地が永い先輩がつぶさに教える。
 現場の人たちの勉強熱心さに触発されて、自分もタガログ語の勉強にとりくみ、少しずつ、自分の前に立ちはだかった基準への苦手意識を克服してゆく。と同時に、あやしげな住宅地のなかにある置き屋で出会った小柄な女にぞっこん惚れこんでしまう。
 十九歳の女との性体験で、男は純朴な時代にかえってゆく。周囲が気遣うほどに彼女にのめり込み、ある日、先輩が結婚するつもりでいる現地の女性との会食が持ちかけられる。相手の女性は、若い子が好きな先輩にしてはかなり年長であったので、男は借問すると、先輩は例の≪結婚と遊びは別≫という台詞を言って呵々大笑した――かつて男も、結婚するつもりのない相手と付き合ったことは枚挙に暇がなかった。彼の結婚の仄めかしを笑った彼女と、同じことを自分もしていたことに思い至る。男の中で大きな胸の痞えが下りる音がする。
 会食の数日後、女と連絡がとれなくなり、男は先輩とその彼女をともなって、女の住むスラム街を訪れる。結核患者を看病していた女は、これが自分の主人だと男に紹介する。
 それ以来、男は女と会う機会がなかった。店にも来なくなり、外形上、男はだまされ、捨てられたかに見えた。けれども先輩の彼女の携帯電話に送られてきた女からのメールの文面には、タガログ語で≪マハルキタ≫と書かれており、男は自分の女を見る目について少し自信を取り戻した。
――
 スマホが出てこないことからもわかるとおり、時代が少し古い。≪経済大国である日本≫とも書かれているから、昔懐かしい感じがする。また、語りはいたって堅実であるが、男は性欲が旺盛であり、水商売の女性に対するまなざしや、現地の人々を見るまなざしに含まれているある種の上から目線を隠さない。そこを不快に思う読者がいるかもわからない。
――
第02話)患わしかった→煩わしかった
第02話・第11話)鼻から→端から
第04話)正し→但し
第08話)彼達→彼等
    多いに→大いに

4位 ナイルの花嫁/山田花湖
 廃植物園にひびく、中学生のまっ白なズック靴のひめやかな跫音――。三角屋根の温室の骨組みが錯綜し、ガラスなのかビニールか、ところどころに穴があいたり、破けた素材が垂れさがっていたりする。中央にでんとある噴水は涸れて、いかにも藻類がはびこって饐えたにおいがしてきそうだが、園の奥にある池の水は、「僕」の手入れの甲斐あって澄みわたっている。
 廃れた園の密閉空間と、手塩にかけた睡蓮の美しい葩と、園丁であり且つ王である「僕」と、闖入してきたよその学生。ソトバにそっと触れられて睡蓮の白い花弁は紅潮する。「僕」にとっての睡蓮は、性的なアナロジーとして機能しているかのように敏感な存在である。丹精をぬきんでて育てた花をのっけからソトバに褒められて、内側から心を侵略されてしまう感覚は、密閉空間と繊弱な花弁という、道具立てからもよく伝わる。
 ソトバの睡蓮への礼拝は、「僕」の、自分の外側に美しいものを生み出す才能への、礼拝とやがて同一視され、関心は才能の産物からやや逸脱し、産物をほめそやす側へと移る。自分の才能に関心を寄せる人に、やがて自らも関心を寄せはじめるという、心理的に微妙ないきさつが描かれている。ほめそやす側は、その産物をほめそやしているのであって、産物の出どころをほめそやしているわけではないのに、出どころはこれをわたくし事として受け止めざるを得ない。
 王という役を過剰に意識しているその延長で、とっさに他人に発する言葉が、一言目から劇的なのも面白い。
「僕」は大切にしているものを数えてみる癖がある。異性愛者であるはずの「僕」の関心が、睡蓮からソトバに移って、かたわらに花ひらいているそれもそこのけに、ソトバの艶やかな髪の毛を、一本一本、爪繰ってかぞえている異常さ。しかしその異常さを、周到に用意された道具立ての、一つ一つにこめられた性的アナロジーがはずみをつけて、読者に無理だと感じさせないくらいに活躍し、結末へと導いている。

5位 レッスン/真花
 ぎゅっと詰まった文章量で、主人公が置かれている状況と感情をいっきに読者に呑み込ませる筆致はお手の物か。対立軸が鮮明であり、主人公が相反する感情を抱いていて、折り合いをつけようとしている懸命な身振りがよく伝わる。しかし一方、主人公の感情にかまけて文章を揺らしすぎているきらいがあり、言葉に静けさがない。主観的な言葉のはげしい揺れによる疾走感で読者を拉し去ろうとする筆致以外に、静物的な時間の流れ、客観的に透徹した視線をもつ筆致をも、これに並行して手にしてゆけるかが課題ではないだろうか。

6位 君が代変想曲/野栗
 小学生たちのはじけるような無邪気さの背後で、交わされる教職員たちの陰険な目配せ。厳しさをます教育現場を活写。国旗損壊を罪に問うかなど、現在くすぶっている社会問題に重なる。ただ少し、空白行の多用が気になる。

7位 O person/尾崎硝
 “死が日常から遠く退けられたことによって、私たちは不死への渇望を失い、宗教は趣味と化してしまった。死の非日常化により、宗教は善行と現世利益の関係を説く、との誤解が広まった私たちの間では、その弊害として、おのれの優しさを否定するという病が蔓延している。” 重大な問題提起をしている。しかし、文章がやや急ぎ足でもったいない。

8位 バスを待つ/100chobori
 工事現場の足場ほどに狭い砂浜をともなってのびる北陸の海岸線。海に肉薄したバス停の待合所にて、主人公は旅先の掛け構いのなさでほしいままな想像に耽る。孫をつれたおばあちゃんの体からする、箪笥の奥の樟脳のような懐かしい匂い、誰かが親切気で置いた座蒲団を、律儀に直してから去る北朝鮮工作員。誰しもの記憶の底によどんでいそうな、最大公約数的な表現が光る。だが、旅先のお気楽さを愉しんでいたはずの主人公が、想像の裡で、別れを切り出せない弓子のために、大介を運び去ってしまうバスが到着するのを阻止しようとした豹変ぶりは解せない。

9位 雪葬の兎/真朝 一
 周到に計画された練炭自殺の手順、雪の降りしきる中、俊介の両手をバンのハンドルにガムテープでくくりつける場面などに、真に迫った息づかいを感じる。
 ところで、音楽業界の人間でなければ共感しづらい、コミュニティ独特の陶酔とセンチメンタリズムが作品全体に瀰漫している。この詩的な悪酔いがまじっている主観的な語りには、読者として安心して身を委ねることのできない偏りと狭さがある。共感しづらいのは、題材のせいではなく、描き方のせいである。音楽業界独特の言い回しや世界観を、その外側にいる読者に取り次ぐための冷厳な客観性が、この作品には欠けている。客観性こそが、純文学に必須の生活を批評する目であるため、この作品は純文学的ではない。
 ちなみに陶酔とセンチメンタリズムはどこから来るのかというと、対-世間という過度に意識的な構図からだろう。したがって作品自体が対-世間的な構図のなかに固定化している。時に世間と、自己とその周辺をもひっくるめて、鳥瞰する視座が純文学には必要であるが、この作品では社会通念をお手玉のように扱ってみて、やはり自分たちにはそぐわないことを確認してこれを投げ捨てることが、目的化されている観がある。世間と自己とその周辺をひっくるめて批評しようとすれば、おのずから社会通念では間に合わず、独特の文学的な言語が発達してくるものであるが、この作品にはそれがない。あくまで社会通念をお手玉のように扱っているところから、まるで社会通念に復讐することが目的なのではないか、とさえ思われてくる。
 ”大人っぽい”という表現がそもそも純文学的でない。主観的にすぎて、異化には遠く及ばない。

10位 『あたたかい無音』/rinna
 自己目的的に女を纏っているのに、周囲はそれを異性に対する媚態だと釈る。メイクも、スカートを穿くことも、それ自体が目的であり楽しみであるのに、異性はそれを自分たちへのアピールだといけ図々しくも解釈し、女を纏えば纏うほど、彼らにとっての踏み込みやすさになることへの果てしのない苛立ち。同時に猶予されていて大切にかくまわれていた未だ見ぬ感情(恋愛や性愛)が、さいわいな邂逅を果たす前から、異性たち(あるいは異性を侍らせることを自明にしている同性たち)によって土足にかけられ汚されている。夢を奪われ、もっとも無染でやわらかい夢見がちな部分を、あまつさえ男たちのつまらない見栄や早熟な気負いによってあらかじめ嘲笑されたような悔しさ。
「同性のあの子」とのいきさつが、自慰をしているかと訊いて来た男子のエピソードに比べてやや不分明か。
「わたし」が永の年月を経て、たどりついた一つの確信があらわされている。

11位 一輪のはな/天音空
 死に目に間に合わない長男、今わの際に力強く吐き出された母の吐息に、争われないリアリズムがある。とはいえ、看取りの介護士の言葉は訓詁的であり、表現にも重複が見られる。筆歴が浅いことを感じさせる。


12位 鉛/チヌ
 葬儀屋の先輩と後輩。先輩は夙くに弟を亡くし、後輩は死者を見送る毎に心のなかに病巣のように育ってゆく重さを、鉛だと言う。後輩はこの重さは死という状態への憧れではないかと考え、先輩は先輩で、十年前に見送ったはずの弟へと引っ張られつづける心の動きを解き明かそうとする。葬儀屋のくさぐさ、死に化粧をたくみにほどこす納棺師の話や、葬儀から宗教色が漂白されてゆく業界の趨勢、葬儀屋ならではの麻痺する感覚などについて、該博な知見が得られる。が、やや詰め込みすぎ。そして決定的に問題なのは、文体。一人称小説ではなく傍白による小説であり、すべてが現在形で書かれ、脈絡の付け方が恣意的にすぎて、外部に働らくモメンタムが取っ払われてしまっている。この傍白による小説で特徴的なのは、否定語を重ねるスタイルであり、補集合を作りたがり、その余白のあいまいな領域に答えがあるかのように仄めかすが、決して指呼しない。

13位 紅蓮/鹽夜亮
 すべてがおそらくはメタファ。教会に月が皓々と照っているかと思いきや、どす黒い赤いろに染まり、その傍を血の川が流れている。土曜の夜の主日の弥撒であろうか、参列する者とてないがらんどうの堂上にて、盲目の司祭が型のごとく式次第を司っていると、傍を流れている血の川が、これに応じておどろおどろしく脈動しはじめる…自身の身体の内部で起きている出来事の、擬人法的な再現か。
《許されない罪。下されない罰。》とあるように、生きることのもどかしさが吐露されているように思われる。《紅蓮の灰》、この、完全燃焼のあとにのこる物質がまだ赫々とおこっているという形容矛盾は、言葉が本来の意味から解放されて――言葉本来の意味を燃やし尽くしたあとにのこるところの、灰のような言葉から、また一から世界を樹ち上げようという意図を含んでいるようにも考えられる。
 それゆえに、撞着語法がゆきすぎて、文意不通になっている感が否めない。所帯じみていないのはいいが、奇を衒いすぎている。

14位 鼻下の鼻水 美化で乾びる:美化の鼻水 鼻下で乾びる/アタオカしき
 会話文に質感がある。ティッシュを口にする描写に、読者は少し怖気をふるうだろうが、それも文章の流れのよさのおかげでくどくはなく、まるで水洟のようにするりと流れ込んでくる。ごくん。そしてこの短い間にさりげなく世代が変わる。問題は色の描写であり、瞳が青かったり、赤かったりするわけはないが、青、赤と書かれていることだ。言葉が言葉どおりの意味を発揮できないというのは、通貨のような交換の速さという、言葉の美点を殺すことに結果的になるだろう。

15位 虫眼鏡さん/文鳥
 高台の中腹にあって、自転車にしろ徒歩にしろ、便がわるさに不人気な、公園のなりそこない。詩的な情景がうちつづく。町一番の高台に立って、それを一望の下におさめる。なんて小さな町。そんな小さな町にいる「僕」の小ささに苦しめられているところへ、一握の石ころの中にさえある、黒雲母の耀きをおしえる女性――。ところで、降って湧いたようにあらわれた女性にすぐに心を開いてしまうというのは、物語の中でのみありうることであって、純文学的ではない。「運命の出会い」という便利な釈明で、この心の動きを説明してよいのは、物語の中だけに限られている。

16位 Golden Slumber -Die Stille des Goldes(黄金の静寂)-/Spica|言葉を編む
 「黄金の均整」のために凡ゆるものを犠牲にする、誇り高い階級と、そこから転落し、余生を均整のほつれから砂金のようにしたたり落ちる美とともに送るレオポルト。描写が列柱のように整然と並んでいるが、端正にすぎる。美しく書こうとして却って硬直してしまったか。
 均整の崩れにこそ美を見出す、というのは何となくわかるが、まずそこまでレオポルトをして固執せしめた「黄金の均整」とは具体的にどんなであるかが描けていない。多少の描写があるにしても、均整に添うてレオポルトの心の襞がはりついてゆこうとして、外界へとレオポルトの心象がはみだしてゆくいきさつは、少なくとも描かれていない。ために、均整の崩れの美へとレオポルトの関心が辷り出してゆくときの、反動の烈しさも、その反動がいかに従来の彼から遠いものであったかも、伝わってこない。
 均整がどんな風に心に触れてきて、均整の崩れがどんな風に心に触れてくるのかが描かれていない。《計算されぬ自然》《計算から外れた配置》から《美しい》までのあいだに飛躍がある。ここに物足りなさを感じる。

17位 黄泉の夢/桐生甘太郎
 赤土の荒野と聞いて、オーストラリアをイメージしてしまう。しかもその土がえぐられて岩盤が露わになっている道を行くと、漆の禿げた黒門がたちはだかり、抱えるに余りありそうな大蛇が横合いからのたくりあらわれる。酒をあたえてこれをやりすごすと、次にあらわれたのは、壁のない建築模型のような、戸外からは見通しの武家屋敷。七輪の上で魚を焼いている男がこちらを麾いている。黄泉の国にまで来て、焼き魚の香ばしい匂いに鼻腔をくすぐられるが、どうにか耐えて行きすぎる。黄泉戸喫(よもつへぐい)を忌避してか。
 こう、おかしな時代・土地がきびすを接してやってくるのはいかにも夢らしい。死の切迫感よりも、おかしな呑気さが際立っている。
 術後の寝床の上で、真っ先に思い浮かんだのが、自分の背中を追いかけてきたあの魚の脂身の焼ける匂いだったところに、生とはそんなものかも知れないと、へんに腑に落ちてくるものがある。

18位 黒猫さがし/飛騨群青
 私小説の質感はあるが、自嘲にも自堕落さがにじんでいて、率直さだとは言いがたいものがある。また、自分というものを見る時の、あるいは他人というものを見る時の、切り出し方がステレオタイプであり、独創的でない。独創的な人生の見方ができているわけではないのが難点だ。私小説はステレオタイプの独白であってはならないだろう。

19位 摺鉢山プラネタリウム/乙島 倫
 硫黄島のトーチカ内で、負傷した兵士が隙間洩る昼の光りを、夜の星明りに見立てて鑑賞するという倒錯した状況はおもしろい。しかし描写は活性を得ていず、その時代の空気を如実に伝えるには程遠く、着想の段階で止まっている感がある。表現ではなく、事実の羅列にとどまっている。

20位 なんでも修理屋の奇妙な一日/時津彼方
 修理屋に持ち込まれたのが紙幣であるところが面白い。電子化がすすむ今、紙幣価値は無機質な数字へと還元されつつあるが、それでも人は退職金、保険金、親から相続したもの等、今や数字にすぎないものにも見出しをつけて、大切に棚に仕舞い、いざと言う時まで開封しようとしない風潮が残る。ただ、一人称が「俺」であることが難点。お話であっても純文学ではないだろう。

21位 海辺のコダマ/坂月タユタ
 宿屋の主につれられて、ヒリゾ浜へ出向いてから、にわかに景色が色づきはじめる。が、そこへゆくまでの溜めが足りない。

22位 仔猫の事務所/オニキ ヨウ
 猫の寿命を考えると、叔父が職を逐われてからの数年の間に、パソコンが普及していることや、パソコンと竈が同時に健在である社会とはどんな風なのか、といった疑問はあるが、いずれにしても、賢治が獅子の口をして言わしめた「そんなことで地理も歴史も要つたはなしでない」という言葉の意味を、敷衍するか、現代において問い直している風ではない。

23位 【ちょっぴり切ない文学短編集】ピアノと心象風景/蓮太郎
 純文学ではない。第5話を読んで惟うに、大切なことは、答えを手短かに与えてもらうことではなくて、最後まで自力で考えぬくことだろう。誰かが答えを持っている筈はなく、その思索の手段の一つとして、執筆がある筈だ。にも拘わらず、考えぬく力がないばかりに、なから半可に思索に首をつっこんで、まもなくぐにゃりと向きを変えて、思索を詠嘆調に切替える癖がついているように思われる。
 経験自体に色がついていて、経験自体を主張している。経験を詠嘆調に流すことが念頭にあるためか、思索に芯が感じられない。

24位 山寺の読経/本歌取安
 私刑の免状を得て、江戸へ仇討ちに向う大次郎が、日の暮れかかる山の中、読経の声を聞きつけてとある山寺の主に一宿一飯を請う。主の了念は自分の若い頃に引きくらべて、大次郎の逸る忠孝を思いとどまらせようとする。
 とはいえ、大次郎については《真実とは、なにか。仇とは、誰か。》と独白しており、ここが文学のとば口に思われるが、この問いが発せられたときには話は終わってしまっている。
 また了念については《……それが、拙僧の罪であり、悟りでございます》とあり、便宜的に罪-読経-悟達が即座に結び付けられてしまっている。文学的な関心は、むしろ罪から読経、読経から悟達にいたるまでの中間規定をえがくことにあるのではないか。

25位 旬のものがたり/ほとけのざ

26位 爪を切る/八沢りゅう

27位 最低/ぐうたら者

28位 初雪/吉江和樹
 描写性が稀薄。人物像に立体感がない。人物を記号として動かしている感が強い。
――
淑子-翔子、松坂-松崎 の表記揺れ

29位 忘れもの/Benedetto
 転校生の相川の物言いがヒロイックで、少し浮いている。抵抗せよ、という教訓で終っており、間然するところのない解決を見ているため、純文学の領域ではないと考える。

30位 白昼夢/宵
 純文学ではない。漫画やアニメに由来するあの「平凡な日常」「平均的な能力」からの世界の見方に毒されすぎている。しかしそんなものは存在しない。存在しない概念をなぞっている時点で、生活自体を批評できていない。たとい日常が平凡であり、生活が美しくなかろうと、それを「平均的感受性」でもって描いてはならないのが、純文学の掟だ。経験の質量や特異性を揮発させたような、匿名の、試供品のような人生が羅列されている。感情の機微が、上から鑢をかけられたようにすり減っていて稀薄である。
 読んでいて引っかかる――そこに注意を促すような言葉がない。黐のような違和感でもって読者を釘付けにする言葉こそ、異化の基点となりうるが、それが皆目見当たらない。

31位 酒仙郷 - 濃尾/濃尾
 山中で濁酒を得てから、男を追うて、やがて孤絶した集落に辿りつくまでの足取りの長さと、集落の者に接見して逐い出されるまでの短さのアンバランス。縄目の辱めを与えたことを詫びた年長者がまもなく先島を再び縛めた点にも違和感がある。尻すぼみな感じがしてもったいない。

32位 君によく似た幻影/Wildvogel

13件のコメント

  • 亜咲さん

    手書きだとくたびれますよねぇ…。いったんパソコンで起こしてから、推敲がてら、原稿用紙のマス目に書き込んでみたりとかすれば。そもそも一マスがでかいですし。

    パースとアングルがなぜ純文学に必要なのか、亜咲さんのおかげで、如上にまとめることができました。ありがとうでした。

    ――

    他者、といいますけど、そんな大げさなものじゃないです。ごく身近なものでもすでに他者ですし。

    たとえば作中「クスノキ」をえがきたい、とします。作者の思い出の中にも「あの時の、あのクスノキ」という心象があって、枝葉の高いところを風が渡って、しかし下枝は波静かに、光の加減で時として金いろの葉裏を返す"あの"クスノキを作中に登場させたい、とします。

    ⅰ)そのまま「クスノキ」とだけ書く→純文学でない
    ⅱ)実在する「クスノキ」を見に行く→純文学的
    ⅲ)既存の作品のなかにある「クスノキ」の描写をさがす→純文学的

    要するに、作者の頭のなかにある「”この”クスノキ」と、作者の頭の外にある「"あの"クスノキ」との間に緊張関係があるかどうかです。
    画家はつねに実在するものと、カンバスとの間に挟まれて、緊張関係を営んでいますよね。
    で、純文学作家はこう思う訳です。

    実際に存在しているのは「あのクスノキ」や「あそこのクスノキ」だ。自分はそれをなるたけ"言葉"で表現するという不可能に挑む者だ。実在するまさに"あれ"(作者の頭の中にある"これ"ではない)を作品世界にもたらしたい。あるいは、自分の思い出のなかにあるクスノキはもっと抒情的で神々しかったから、文章表現によってあのクスノキに神々しさも付加したい。そうだ。昔の人で誰かクスノキを上手く描写した作家はいなかったか……。

    実在する「クスノキ」と、既存の作品においてなされた「クスノキ」の表現との間で揺れ動きながら、"概念としてのクスノキ"ではなく、実在感丸出しのあの具体的な「クスノキ」を現実から借り受けて、作品世界の中にもたらそうとする……

    こうした緊張感の中で「クスノキ」にまつわる表現を成立させないと、強烈な実在感をともなった「クスノキ」をそこに聳え立たせることはできない――そういう趣旨で書いております。

    同時に僕は、現代文学の描写の乏しさについて、警鐘を鳴らしているわけです。
  • 亜咲さん

    なるほど……現実を丹念に写生し続けている作品もあるんですね。よろしかったら、亜咲さんからして、写実性が抜きんでていると感じた作品名を、教えていただけませんか?

    無理にとは言いませんよ。
    お時間のある時に(一ヶ月後でも一年後でもいいので)ご返信ください(笑)
  • 亜咲さん

    ああ……なるほど……
    そっち系でしたか。もっと渋めでマイナーなやつが来るかと思いましたが、めっちゃ今どきですね。

    やはり皆さんなんだかんだ言って、現代文学の影響下にあるんでしょうね……ここカクヨムに集う人たちも、僕が想像しているよりもはるかに多く……

    ああ……なんか急に自信なくなってきました。(笑)

    プロフィール欄で好きな作家に、日本にまれ西洋にまれ、一昔前の作品をあげる人がいますが、その方の文章を読んでみても、一向にその作品の精神・息吹・残滓が感じられず、思いっきり今どきの現代文を書いてるケースがほとんどなのを、僕はいつも怪しんでいましたが……

    やはり"好き"と本当にその"影響を受けてる"はちがいますね。
    まあその予防線として「・あなたが影響を受けた作家、思想家 など」について予めたずねてるんですが……

    もう少し徹底します。
    お話が聞けてよかったです。
  • いつもながら拙文に、あまりまとまりがないことをお許しください。

    i点について
    ロシア近代文学の異化の観念に非常に近いかと感じます。固定観念や既存の表現を出来るだけ取り除いて、事象を捉えなおす運動はまさしく純文学の大一要素であると、私自身も強く感じている次第です。また感覚のみならず、時間や統語すら「包摂」する体系性を秘めているのも魅力ですね。
    ある小説家(トーマスマン?か誰か)が「小説家とは、事実をより複雑に書く者だ」だとか書き残していたのも思い起こされました。もしくは「他の人よりも書くことが困難な者」の思い違いであったかもしれませんが…。

    ii点について
    生活の批評の必要性は純文学の世界に対する役割、責任の一種であると感じています。「つまらない生活」とは「ありふれた退屈さ」でしょうが、此処でこそi点の異化が活用されるというものだと考えています。パターン化された「つまらない生活」こそが、美しさを極めた結果の姿であり、その点について視点を生成し、改めて明文化することで、ヒトは生活を内から再構築できると考えています。つまり視点を与えることが純文学の一つの大きな役割でもあるのでしょう。
    非現実を思い描くのも、また「つまらない生活」の中に位置する「ありふれた退屈さ」を負う主体があるからで、その主体もまた「つまらない生活」そのものを写す視点でしょうね。

    自主企画について
    私は非常に筆の遅い拙者であり、しかし適切な刺激があれば筆が軽くなる達なので、そのような刺激になりかねる作品を集める手段として使わせてもらっています。要は抽象的な検索の可能な便利機能ていどに捉えています。
    朝尾様の以前に仰っていた「盗み」もまたこの過程で生まれるのですが、一方で自分の名を売り込むためのものでもあると思っています。結局、当サイトにても文学界にしても、どれほどの秀作であっても誰からも読まれなければ評価されませんから。なので先に述べた便利検索のサブ機能の様に、自身の広告欄としても活用したい次第です。
    矢張、参加して下さった相手のためを思うなら、痛烈な批評をすべきでしょうかね…。そこは悩み処ですが、現状では私自身で納得のできる書評として残して、何とか刺激を探すよう試みています。
  • かいさん

    コメントいただき、感謝頻りです。

    ⅰについて
    「異化」!
    僕が1000字余りかけてたらたら亀の歩みで述べてきたことを、2字で言われてしまって、兎の駈け足に追いぬかされた感じでなんだか悔しいんですけど。ええ、まあ、異化ですわ。そうそう、異化ですわ。
    どなたかに教えてもらった気がするんですけど、忘れてました。そうでしたか、文学的な異化の概念はロシア文学発祥でしたか。さすがは20世紀に入って作家らがこぞってその跡を慕ったロシア文学……でもそう言われてみると、日本文学って外国から先進的な概念を輸入してこないと、自分のあり方を上向きに保つことすらできないんでしょうか。

    ⅱについて
    そうですね。生活を内側から再構築するのに、異化はかならず必要だと思います。(あんまりⅰ)ⅱ)の順番意識してなかったんですが、たまたま奏功しました)
    ただ《つまらない生活こそが、美しさを極めた結果の姿》だとは、ちょっと考えが及ばなかったです。雪舟や、千利休の茶の道と同じ精神を感じました。僕は「ありふれた退屈さ」を否定的なニュアンスで如上に書き、それを文飾によって、あるいはロマン主義的な「ありえなさ」をリアリズムの筆致で練り込んで、現実-捏造の融合体をつくろう……それによってつまらない生活に耐えてゆこうというニュアンスが如上には歴々と出てしまっていたんですが、かいさんのおっしゃることは、ロマン主義とは正反対ですね。一本取られました。
    生活に絶望しない、などと言いつつロマン主義に走るのは、三島と同じ轍を完全に踏んでいてお里丸出しでした。

    自主企画について
    自分の名を売り込む――いいですねぇ…静かなる野心を感じます。それでしたら、そこまで主催者として精力的に取りしきる必要は、ないかもですね。十分目的は達せられているので。

    僕は今、”雰囲気純文学”に分捕られた領土を、猫の額位でも、奪還したいという思いの方が勝ってるんで。六年前、カクヨムにはじめて来たときは、”雰囲気純文学”に抵抗するのを諦めてたんですが、ああ、この諦めてる感じが僕の気持を、生活全般から腐らしていくんだな、と最近気づいて、蟻んこなみの抵抗をはじめました。

    ――

    これをどうしてもお聞きしたくて、お時間あるときに、可能なかぎりで結構ですので、教えていただけませんかね。

    1) かいさんは自身の文体を誰に似ていると分析されますか。
      似ていなくても、かいさんが心から感激して、文体がそっちに引きずられていかざるをえない作家は誰ですか。

    2) 現代文学は取り組むべき課題を明確にしていると思われますか。あるいは、現代文学の本質的な課題は何だと思われますか。

    ――

    私考では、作家が”名誉ある孤立”を選ばなくなったのが現代だ、と感じます。
    あまりに大衆に理解を求めすぎており、大衆にとって辛い事実をえがくことを避けている。あるいは大衆心理を整理するだけの人となり、大衆とほとんどちがわない。感性が平均的で、だからこそ大衆の中の”作家志望”を勇気づけている。「自分にもできるかもしれない」という形で勇気づけてしまっている。まるでファンに肉薄するように近づいたアイドルのように、”身近さ”によって勇気づけてしまっているように感じます。
    僕は文学のとば口で、「とても自分にはできない」文章の技量をみせつけられ、しかもそれに魅せられて、言語芸術にぶん殴られたところからはじめました。本来、言語芸術は「自分にもできるかもしれない」なんて形で読者を勇気づけはしないでしょう。むしろ「無理だ」という絶望を植えつけて作家志望を突き放していたのが通例ではないかと推断します。

    「自分にもできるかもしれない」という形で勇気づけられ、それが執筆の根本的な動機になっているかぎり、作家志望はより水準の高い文章を目指さないでしょう。いの一番にぶん殴られて、それでも嫉視と憎悪の入り交じった眼で追いすがろうとするかぎりにおいて、作家志望の筆力は高まってゆくのではないか、と思います。

    つまり作家志望に勇気を与えている時点で、現代文学は”人をぶん殴る芸術”ではないと思うんですが、かいさんはいかが思われますか。
  • 朝尾様
    私の拙文の意図を汲み取ってくださり、ありがとうございます。

    1) 私の文体•物語への影響
     実は私自身、強く文学に取り組んだ経験が非常に希薄です。幼少期からぼちぼちと遅読しては、自分の世界に耽っているのが殆どでした。そのおかげか、文才などは全く開花せずに、現在のように朝尾様に添削していただく始末…。
     ただ強いて挙げるならば、宮崎駿と堀江敏幸先生でしょうか。
     宮崎駿の明るいバッドエンドとも言うべき、幸せな終幕にみえて本質では世界の悪意が循環し、我々が矛盾の渦動に溺れているだけ、という反措定の手法には胸を打たれます。
     堀江敏幸先生は、実は私が教鞭を受けた身でして、作品にというより、先生の不器用で繊細な文学文芸への姿勢に惹かれました。作品自体は単調でつまらないと評価されることもあるほどに、起伏の少ないゆったりとした詩篇が多いです。その語り手として、静かに囁きかけるような文字の声が、私には印象的です。
    2) 現代文学の課題について
     私考では、文学界として、あまり文学に対して明確な目的や課題を設ける必要はない、と考えております。しかるに、様々な人びとが創作し、相互に敬愛し批評し合う自由があることが、文学という環境において整えてあるのが望ましいと思います。
     社会の流れにおいて自由な文壇の下、様々な作派が自然発生的に興亡すること自体に、文化資産と言語体系としての価値が遺されるように感じます。
     しかしその一方で、朝尾様のように明確な文学に対する目的が前提であって活動されることも、またその作派の一部として、現代社会を彩る花弁となっていることは確かであると思います。
     それでも私は単なる好みとして、朝尾様の古典ロマン派の如く硬派で毒をも含むような純文学を選びますが…。
     また「名誉ある孤独」について、情報社会の到来によって文学界でも、作家と読者が接に関わり合い、孤高が困難な状態となったのかもしれませんね…。
     しかし、私の文学には明確な目的があります。私の文学の目的は、日常に失われた意味を拾い上げ、私の生きる目的を見出すことであります。またそれが他者へより良い影響を与えられるならば、光栄の至極に思います。

     余談ですが、私は男性でしょうか、女性でしょうか。ペンネームのどこに区切りを置くかによって、解釈が変わるやも知れません。
  • かいまさやさん

     驚きました。
     まず僕のこんぐらがった問いに真摯にお答え頂いた事に驚き、次に文学が趣味として、着脱可能な手慰みとして、生活の表面にこびりついているに過ぎないのではなく、生存の中にembedされていると仰った事に驚き、最後に、そう仰っているのが女性なのかも知れないと云う事に、驚きを超えまして、ほとんど動揺しました。
     2019年頃、カクヨムに於いて交流のあった人たちは皆、活動を止めるか、純文学のために着ていた鎧兜を脱ぎました。一般文芸へなだれを打って崩れ、或る者の文体は荒廃し、或る者は自己陶酔的・自慰的な性格が荒廃した文体に滲み出て来、皆一様に、彼等の心に、純文学の精神がembedされていなかった事を暴露しました。ディレッタンティズムの延長として、業突張りの武張った語彙をあつめて緋縅の文体をこしらえ、如何にも我こそは、敬虔な文学の徒輩であるかのようなポーズをしている人物ほど、信用ならないものはないと僕は思います。
     そこへ持って来ると、あなたは軽やかな装束で現われながら、いたく芯のある事を男らしく、当たり前のように仰ったので、僕は心打たれたみたいです。無論、僕もそこまでナイーヴではありませんので、現在只今、心打たれたと云う事以上のものは何もありません。お答え頂いただけで、充分でした。
     文章を介して、こんな風に芯から動揺させられたのは、三島由紀夫にはじめて接した時以来です。女性的な文体は、感情を「怒り」や「悲しみ」と云った数文字の小匣に収めることに不得手で、文章に色がついてしまう、感情が数文字の小匣からはみ出て叙述や叙景に色移りしてしまうケースが多く、対して、あなたの文体は感情がオフセットされていました。
     そんな柔よく剛を制すの文体で、且つ、あなたが女性である場合を、僕はうまく想像できません。
     純文学の異化の作用をそのままに、文章を介した向う側に、灼然たる他者がいる事を違和感として受け取りました。想像を絶したものに、文章を介して接する、これ以上のよろこびはありません。
     あなたが他者として文章の向う側に屹立しはじめると、《相互に敬愛し》と云う言葉が今度は僕の頭をどやしつけて、窘められるような感覚に急に襲われ出します。僕はここ数年、文章の向う側に他者を感じて来なかった、その慢心をぴしゃりと鞭打たれたような凛冽たる快味をさえおぼえました。反省します。
    ――
    閑話休題しますけど、やはり宮崎駿の影響からは、現代人は逃れられませんね。
    堀江先生という方は寡聞にして存じ上げなかったんですが、これを機に、心に留めおきたいと思います。本屋に行ったらさがしてみます。
    まあ、ですがしかし、《現代社会を彩る花弁》とおっしゃいますけど、古典的浪漫主義にかぶれてる人は、ちっともお見かけしないんですよね……。僕一人だけいても、花弁どころか、花びら一枚なんでね。花びら一枚落ちていても、それが花だとは認識されないで、容赦なく踏んずけられるんで、さびしいものです。踏んずけられてばかりいるんで、周りがみんな敵に見えてきてしまいます(笑)
    いただいた貴信は大切にしたいと思います。
  • 朝尾様
     貴方のような文才あふれる方にそれ程の動揺を与えられましたこと、非常に光栄であると同時に驚きでありました。まず私も強く自覚する処ですが、朝尾様の圧倒的に充実した言葉棚とそれらを適切に引き出すアイデアには、自分の能力が到底及ぶこと有りません。それ程までに力差の離れた私の言葉にも、下剋上的な底力が内在していたとは驚きです。また、朝尾様のように名誉ある孤独を掲げる古兵にも、現代にのうのうと延命する私に感情をわき立てることもあるのですね。
     朝尾様の戦場での旧友方は、現代では甲冑ではなくユニクロで闘うのが通流であると知り、強く動揺したのかも知れません。その様に時代は変容し続け、その都度、適切な装備を纏うのが必然の決断なのでしょう。すると、私共は時代遅れの古装に包まれた異質な花弁に映るでしょうかね。
     文学において、その者がその都度に書きたいものを創作することを信念に据えるのならば、その自由な衣替えこそ純粋に文学を嗜む「純文学」とも言えるのでしょう。まあ、そこまで単純な縫い目ではないでしょうが…。

     このお話を進めていて、私は大衆文化(主流文化)とサブカルチャ(副次文化)の関係性について悩んでいたことを思い出しました。現代では、サブカルチャの領域が拡大し、もはや大衆文化へ迎合されつつあります。その中で、どこに両者の線引きを行うか、吟味した時期があります。
     極端な定義でありますが、大衆文化とは時代地域で必要最低限の文化的生活を送るに必需である範疇であり、またそれを支えるための経済活動をも含むとしました。つまり、アニメを創って生活しているヒトがいるのであれば、そのアニメは大衆文化に含まれます。
     一方でサブカルチャは副次的、つまりその過不足が最低限の文化的生活の有無に直接かかわらない非営利文化としました。経済に影響があるのであれば、やがて主流文化へも影響力を持つようになると想定されるためです。つまり、我々のこの関りこそがサブカルチャの神髄であり、我々の謳う大衆文化と対比される「純文学」の観念がここに体現されている様にすら感じました。

     与太話に花弁が重なり、花を咲かせてしまいました。大変失礼いたしました。私の性別については、朝尾様のご想像に一任させて頂きます。
  • かいまさやさん

     自分の文学には目的がある、と、さらりと言ってのける方は、この時代滅多におりません。というか、僕ははじめてお目にかかりました。本当に勇気づけられました。
     で、僕が今でも拘泥している2019年代の彼らは、そうでしたか、ユニクロにお着替えされちゃってたわけでしたか…試着室を出て、それを着たままさ然あらぬ体でご退店、と、そうですかそうですか…ほんと言うと、彼らの鎧兜がただの骨董趣味(言葉のフェティシズム)であることは、はじめから気付いていたので、ユニクロの方がしっくりくるのも宜なるかなですが。
    ――
     大衆文化を”最低限度の文化的生活を送るのに必要なもの、またそれを支える経済活動”とすると、サブカルチャが”より文化的な生活を送るのに必要なもの、且つ何ら経済的利潤を生まない活動”となって、後者のほうが高踏的になってしまう逆転現象が起きるわけですな。たしかに僕らの活動は傍流、大きなものの傍を流れるいささ川のようなもの……
    ――
     余談ですが、純文学は自由だ、と謳う方がおりまして、議論を挑みましたが、軽くかわされてしまいました。カクヨムに影響力をもっている方なので、ご自身がそう思われるのは結構なのですが、純文学=自由を謳ったときのカクヨム全体に与える影響、または純文学そのものに与える影響を、もうちょい考えてもらいたいところです。
     純文学は自由だ――ではその良し悪しはどう判断する?――感動するかしないかだ――こういう抽象的な判断基準が、全体にもたらすのは無秩序でしょう。純文学は自由だ、と言っているご本人が言いたいことは、「私の自由をさまたげるな」というか、あくまで「私の自由」を謳っているだけなので、これはエゴです。純文学そのもののことをおもんぱかって言っているわけではないと思います。
     僕は「品評会」でこの流れに対抗するつもりです。
     お気に召すままに、「盗み」のついでに、かいまさやさんもちょいちょい、そのよく切れる薙刀のような審美規格をふりまわして、価値判断の場に介入していただけたら、よきです、僕が。
     生活にさわらぬ程度に、お気楽に、味善うよろしく。
  • 朝尾様
     丁度切りよく談に終止符を打ってくれた様に察しましたが、空気を読まず打破してしまいます。

     抽象的な価値基準について、私考では文学の役割のひとつに、極めて抽象的な観念をそれらしく言い当てることが挙げられるかと思います。これも「異化」の一種かと思いますが、そこには論理や素養の穴があってもさして構わないとも感じます。厳密に規定するのは、もはや哲学や倫理学の役目にも思いますので…。文学にてより大切なのは、微妙な感覚をずばりと表して、読者を腑に落とす語的センスかとも思います。なのでこの評価軸からすると、「感動するか、しないか」はナンセンスな回答かも知れません。それなら的外れでも、「途中の絶望的つまらなさより、読後の優越感が勝るもの」みたいにより具体であれば、論議が捗って少し面白かったかも知れませんね。

     話は変わりまして、朝尾様の純文学の定義はずばり、「生活の異化」であると感じとりましたが、実際に朝尾様は自身の創作活動は”自身に対して”明確な目的があるのでしょうか。もしくは、創作の手立てをどこから得ていますでしょうか。
     先述の通り、私の創作の目的は「我々の日常で失われた意味を拾い上げ、新たに生きる目的を見出すこと」であり、アイデアの多くは日常の雑多なものから着想を得たものです。最終的に完成したジャンルについては、SFだろうとロマンスだろうと特に問いません。つまり、根本にある目的に重きがあり、表象の文体からすればそれは土台に過ぎません。私の文学は幸福の真価を探求するためにあって、他者に向かって幸福に見せるための粧いでは決してないからです。
     朝尾様にも、その様な自分個人に対しての目的や価値観がございましたら、ご教授いただけると幸いに思います。
  • かいまさやさん

     空気読んでくださいよ。
     こうさらっと話の要諦に切り込んで来られると、ちょっと笑ってしまいましたが、直截で実にいいですね。
    ――
    《抽象的な観念を”それらしく”言い当てる語的センス》
     また言われちゃいました。全く異存ないです。純文学を評価するに際して、あてるべき定規(判断基準)も、がちがちに固められた抽象論ではなくて、短いながらに読後感を的確にあらわす語的センスであるかと思います。作品内にちりばめられている(語的センスによる)表現を、外がわから評価するときも、読者は表現(語的センス)によらねばならない。語的センスを語的センスによって抽象的につかまなくてはならない。だからこそ、純文学を(語的センスによって)評価するのは同じ純文学作家が望ましい、さもなければ抽象的な読後感を言語化できないから、純文学作家にこれをフィードバックできない、というのが僕の考えです。
    ――
     僕の文学の目的は、おそらくですが、「宗教的感情を描写することで自分がその感情に到達すること」だと思います。僕はプロテスタントなんですが、信仰の状態について、ああでもないこうでもないと常日頃から思っていて、何となく、現世利益に傾いている感が否めない礼拝の次第、説教の内容、ばくぜんと世界平和について牧師が口にすることに、全く安心感が得られないことが根柢にあるんだと思います。現代が喪失したものの可視化、嘗ての時代精神の再現、生存していることに確実に付随してくる原始的な恐れをあらわすために、僕は文体を欲しているんだと思います。セプトゥアギンタ的な、もはや誰の声ともつかない、もちろん僕自身が発したとは思われない、重々しくて、奇っ怪に折り重なって響いてくる不特定多数の叫喚の文体。
     16世紀ユダヤのラビ、イツハク・ルーリアは顔(パルツーフィーム)の概念を導入して、カバラの創造論を前進させました。が、ルーリアが顔の概念に想到したのも、もとはと言えば彼の生立ちに着想の根がありました。
     僕はたぶん、宗教的感情を支えているのはそうした生立ち、性格、環境等、生活の全てだととらえており、宗教的感情の諸段階を弁証するのに、生活をとりまいている物の異化を通して挑もうとしているところがあります。そして以て、創作世界に於いて到達した宗教的感情に、今度は自分が到達することを、最終的な目標に据えております。

     かいまさやさんにばかり、大事なことを訊ねておいて、僕が聞きっぱなしというのはフェアじゃなかったっすね。でも、だいたい同じではないかと思います。
  • 朝尾様
     私の冗長なわがままにお付き合い下さって、またご自身の生い立ちから創作は至る経緯まで丁寧にお教え下さって、感謝至極の想いであります。

     なるほど、宗教的精神の境地を自身の創作を以って内部から再構築する試みなのですね。非常に敬虔的でポジティヴな手法だと思いますし、私にも深く共通する部分があると感じます。

     朝尾様が仰る、宗教教義や儀礼に説得性が失われたことに関して、私考、現代では所謂キリスト教や仏教といった宗教教団から、科学•論理といった新宗教に移り変わったのではないかと考えています。つまり古宗教での説得性が失われ、新たな宗教へ人々が移行したという質量保存的な感覚に基づいています。例えば、科学に基くと、マクロ視点ではヒトは見たことがないのに「宇宙」に生きると確信し、ミクロ視点では我々の身体は見えない「原子」によって造られていると強く自覚しています。嘗てから名称と手法が変化しただけで、科学も論理も宗教も、数ある説得性の内のひとつに過ぎないと考えています。

     余談が重なってしまいましたが、私が言いたいのは、朝尾様の試みが、嘗てヒトの根底に在った観念について、現代の価値観に則って再構築せんとする極めて具体的な試行であると言うことです。それは、科学的で論理的で宗教的で哲学的で文学的でもある、あなただけの全く新しい教義となるでしょう。私も、その活動を深く注意して観察し続けたく思います。

     改めて、この様なお話を聞かせて下さり、誠にありがとうございます。朝尾様の今後の活動に幸あることを祈念いたします。
  • かいまさやさん

    おやおや、かいまさん。人に向かって「観察」なんて、いけずな言葉使うもんじゃないっすよ(笑)
    一年前にも、可成りの小説の妙手とお近づきになりましたけど、彼、面と向かっては何も言わず、Twitterで陰口を叩いてばかりなんで僕がキレまして、やっと話し合いができたかと思えば「自分は遠くからあなたを"観察"します」なんて言われて……その時のアレがフラッシュバックするんでやめてくださいよ(笑)なんか突き放された感じがするんすよね、ぐっすん。
    僕はもうすでにいいもの(貴信)を戴いてるんですが、我々はたぶんそこそこ似た者同士だと思いますんで、お互いにいい影響を、与え合える関係であればと。
    僕はとりあえず、かいまさんの新しい作品のなかで、僕の書いた物がほんの少しでも着想の種火として、あるいは踏み台として、使われることを祈念しときます。
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