-/★/★★/★★★(四段階評価)
43作品/平均点0.97
作品名/作者名(敬称略)
★★★
1位 蜻蛉玉/鶯雛ちる
妻を夙くに亡くした、初老の男の心境か。娘ざかりの子の上に、若い頃の妻の面影を見つけては、またはっとするようなみずみずしい娘の仕草に、その幻影を破られてしまうことのくりかえし。廻り燈籠のように目の前をかけ過ぎてゆく回想は、去にし日に見たもの、聞いたもの。まるで今まさに泉のように湧いてはすたれてゆく情緒に、名前を与える代わりに、嘗て見たもの聞いたものに情緒をなぞらえようとするかのように、記憶の筐底をひっかきまわしてこの情緒をぴたりと言い当てている歌留多がないかとさがしているかのように、体言止めが積み重なる。あまりに現況とかかわりのない風物がひっぱり出されてくるので、情景が記憶に冒されてやや不鮮明。
魅するような黒のなかに、変幻する色の虹が含まれている。作中では「黄金虫の効果」と呼ばれていて、そうした色の幻視をさそうものは、たとえ死んだ黄金虫が残して行った鮮やかな翅の片方であろうと、秀雄はそこに目眩を感じて、拾い上げて胸ポケットにしまわざるをえない。何とも言えない習癖の持主に見えている、記憶に冒された玉蟲いろの世界。
夏の盛りにおとずれた高原で、お目当ての蝶蜻蛉が、あの魅するような黒紫いろの翅を光らせて、香蒲の繁みの上をたわむれるように飛んでいる光景に出くわす。と、急に連れ立ってきたはずの娘の姿が遠ざかり、しだいに深い青いろをたたえている渕の水音にかさねて、あるいは対岸のほうから、娘がいつかピアノにのせて歌ってくれた唄だけが、残響のようにひびいてくる。幻想の終結。秀雄ははじめから終わりまで一人で歩いていたことが、おそろしい夜明けのように明るみになる。
★★
2位 漂流/新川山羊之介
力の抜き所を知らない・走りっぱなしが常態化している女子生徒。けれども要領のよい子には追い抜かれ、一生懸命なことを暗に諷され、優等生だと言われることがひっくり返しに屈辱にすら思えてくる糅然たる心の模様は、いろいろな色がまじり合った毛糸玉のように汚なく、人に打明けることもできない。彼女が一生懸命に走っていることは最早周囲にとって当たり前であり、しかもそんな彼女の横っちょをするすると誰かが抜いてゆくことまでを含めて、彼女は自分の駈け足に慣れてしまっている。駈け足が休むに似て、本当に足を停めて休むことを忘れてしまった――。そんな彼女が朝の電車を乗りまちがえた。自分が疲れていることを、足を自然におもむけた体に諭されたように気づいて、電車の中でくずおれてしまう。
優等生であるのに、優等生であるというだけで、一人の友人にさえ選ばれなかった。《何が彼氏だ。くだらない肩書き引っ提げやがって。》
たどり着いた海で、ずぶずぶと水平線に溺れ死んでゆく真赤な太陽の悲鳴の大いさに、彼女は自分の悲鳴の切実な響きに正確につり合うものを聞いている。
3位 愛のカタチ/山猫家店主
学生時代、異性交遊に事欠かなかった主人公は、社会に出てよりモテる男の基準が遷移したことに、薄々気がついていたが、その基準が急峻に立ちはだかったのは、卅の坂にさしかかろうという年頃。結婚を仄めかした相手に、生活力のなさを鼻で笑われてしまう。≪結婚と遊びは別≫という言葉が突き刺さって、勤め先の海外拠点のあるフィリピン行きに衝動的に手をあげるところからはじまる。
空港を出てから、渋滞にぶつかり、中央分離帯に屯していて物を売ったり乞うたりするために、停車中の一台一台をおとなう人たち。日本の長期滞在者ばかりを泊めるホテルと、その周辺に散在する日本語表記の看板の店。出歩く時は、金目の物を帯びず、なるべく軽装で、複数人で行くこと。男だらけの職場で溜まったものをどこで処理するのがいいか、等々を、現地が永い先輩がつぶさに教える。
現場の人たちの勉強熱心さに触発されて、自分もタガログ語の勉強にとりくみ、少しずつ、自分の前に立ちはだかった基準への苦手意識を克服してゆく。と同時に、あやしげな住宅地のなかにある置き屋で出会った小柄な女にぞっこん惚れこんでしまう。
十九歳の女との性体験で、男は純朴な時代にかえってゆく。周囲が気遣うほどに彼女にのめり込み、ある日、先輩が結婚するつもりでいる現地の女性との会食が持ちかけられる。相手の女性は、若い子が好きな先輩にしてはかなり年長であったので、男は借問すると、先輩は例の≪結婚と遊びは別≫という台詞を言って呵々大笑した――かつて男も、結婚するつもりのない相手と付き合ったことは枚挙に暇がなかった。彼の結婚の仄めかしを笑った彼女と、同じことを自分もしていたことに思い至る。男の中で大きな胸の痞えが下りる音がする。
会食の数日後、女と連絡がとれなくなり、男は先輩とその彼女をともなって、女の住むスラム街を訪れる。結核患者を看病していた女は、これが自分の主人だと男に紹介する。
それ以来、男は女と会う機会がなかった。店にも来なくなり、外形上、男はだまされ、捨てられたかに見えた。けれども先輩の彼女の携帯電話に送られてきた女からのメールの文面には、タガログ語で≪マハルキタ≫と書かれており、男は自分の女を見る目について少し自信を取り戻した。
――
スマホが出てこないことからもわかるとおり、時代が少し古い。≪経済大国である日本≫とも書かれているから、昔懐かしい感じがする。また、語りはいたって堅実であるが、男は性欲が旺盛であり、水商売の女性に対するまなざしや、現地の人々を見るまなざしに含まれているある種の上から目線を隠さない。そこを不快に思う読者がいるかもわからない。
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第02話)患わしかった→煩わしかった
第02話・第11話)鼻から→端から
第04話)正し→但し
第08話)彼達→彼等
多いに→大いに
4位 ナイルの花嫁/山田花湖
廃植物園にひびく、中学生のまっ白なズック靴のひめやかな跫音――。三角屋根の温室の骨組みが錯綜し、ガラスなのかビニールか、ところどころに穴があいたり、破けた素材が垂れさがっていたりする。中央にでんとある噴水は涸れて、いかにも藻類がはびこって饐えたにおいがしてきそうだが、園の奥にある池の水は、「僕」の手入れの甲斐あって澄みわたっている。
廃れた園の密閉空間と、手塩にかけた睡蓮の美しい葩と、園丁であり且つ王である「僕」と、闖入してきたよその学生。ソトバにそっと触れられて睡蓮の白い花弁は紅潮する。「僕」にとっての睡蓮は、性的なアナロジーとして機能しているかのように敏感な存在である。丹精をぬきんでて育てた花をのっけからソトバに褒められて、内側から心を侵略されてしまう感覚は、密閉空間と繊弱な花弁という、道具立てからもよく伝わる。
ソトバの睡蓮への礼拝は、「僕」の、自分の外側に美しいものを生み出す才能への、礼拝とやがて同一視され、関心は才能の産物からやや逸脱し、産物をほめそやす側へと移る。自分の才能に関心を寄せる人に、やがて自らも関心を寄せはじめるという、心理的に微妙ないきさつが描かれている。ほめそやす側は、その産物をほめそやしているのであって、産物の出どころをほめそやしているわけではないのに、出どころはこれをわたくし事として受け止めざるを得ない。
王という役を過剰に意識しているその延長で、とっさに他人に発する言葉が、一言目から劇的なのも面白い。
「僕」は大切にしているものを数えてみる癖がある。異性愛者であるはずの「僕」の関心が、睡蓮からソトバに移って、かたわらに花ひらいているそれもそこのけに、ソトバの艶やかな髪の毛を、一本一本、爪繰ってかぞえている異常さ。しかしその異常さを、周到に用意された道具立ての、一つ一つにこめられた性的アナロジーがはずみをつけて、読者に無理だと感じさせないくらいに活躍し、結末へと導いている。
5位 レッスン/真花
ぎゅっと詰まった文章量で、主人公が置かれている状況と感情をいっきに読者に呑み込ませる筆致はお手の物か。対立軸が鮮明であり、主人公が相反する感情を抱いていて、折り合いをつけようとしている懸命な身振りがよく伝わる。しかし一方、主人公の感情にかまけて文章を揺らしすぎているきらいがあり、言葉に静けさがない。主観的な言葉のはげしい揺れによる疾走感で読者を拉し去ろうとする筆致以外に、静物的な時間の流れ、客観的に透徹した視線をもつ筆致をも、これに並行して手にしてゆけるかが課題ではないだろうか。
6位 君が代変想曲/野栗
小学生たちのはじけるような無邪気さの背後で、交わされる教職員たちの陰険な目配せ。厳しさをます教育現場を活写。国旗損壊を罪に問うかなど、現在くすぶっている社会問題に重なる。ただ少し、空白行の多用が気になる。
7位 O person/尾崎硝
“死が日常から遠く退けられたことによって、私たちは不死への渇望を失い、宗教は趣味と化してしまった。死の非日常化により、宗教は善行と現世利益の関係を説く、との誤解が広まった私たちの間では、その弊害として、おのれの優しさを否定するという病が蔓延している。” 重大な問題提起をしている。しかし、文章がやや急ぎ足でもったいない。
8位 バスを待つ/100chobori
工事現場の足場ほどに狭い砂浜をともなってのびる北陸の海岸線。海に肉薄したバス停の待合所にて、主人公は旅先の掛け構いのなさでほしいままな想像に耽る。孫をつれたおばあちゃんの体からする、箪笥の奥の樟脳のような懐かしい匂い、誰かが親切気で置いた座蒲団を、律儀に直してから去る北朝鮮工作員。誰しもの記憶の底によどんでいそうな、最大公約数的な表現が光る。だが、旅先のお気楽さを愉しんでいたはずの主人公が、想像の裡で、別れを切り出せない弓子のために、大介を運び去ってしまうバスが到着するのを阻止しようとした豹変ぶりは解せない。
9位 雪葬の兎/真朝 一
周到に計画された練炭自殺の手順、雪の降りしきる中、俊介の両手をバンのハンドルにガムテープでくくりつける場面などに、真に迫った息づかいを感じる。
ところで、音楽業界の人間でなければ共感しづらい、コミュニティ独特の陶酔とセンチメンタリズムが作品全体に瀰漫している。この詩的な悪酔いがまじっている主観的な語りには、読者として安心して身を委ねることのできない偏りと狭さがある。共感しづらいのは、題材のせいではなく、描き方のせいである。音楽業界独特の言い回しや世界観を、その外側にいる読者に取り次ぐための冷厳な客観性が、この作品には欠けている。客観性こそが、純文学に必須の生活を批評する目であるため、この作品は純文学的ではない。
ちなみに陶酔とセンチメンタリズムはどこから来るのかというと、対-世間という過度に意識的な構図からだろう。したがって作品自体が対-世間的な構図のなかに固定化している。時に世間と、自己とその周辺をもひっくるめて、鳥瞰する視座が純文学には必要であるが、この作品では社会通念をお手玉のように扱ってみて、やはり自分たちにはそぐわないことを確認してこれを投げ捨てることが、目的化されている観がある。世間と自己とその周辺をひっくるめて批評しようとすれば、おのずから社会通念では間に合わず、独特の文学的な言語が発達してくるものであるが、この作品にはそれがない。あくまで社会通念をお手玉のように扱っているところから、まるで社会通念に復讐することが目的なのではないか、とさえ思われてくる。
”大人っぽい”という表現がそもそも純文学的でない。主観的にすぎて、異化には遠く及ばない。
10位 『あたたかい無音』/rinna
自己目的的に女を纏っているのに、周囲はそれを異性に対する媚態だと釈る。メイクも、スカートを穿くことも、それ自体が目的であり楽しみであるのに、異性はそれを自分たちへのアピールだといけ図々しくも解釈し、女を纏えば纏うほど、彼らにとっての踏み込みやすさになることへの果てしのない苛立ち。同時に猶予されていて大切にかくまわれていた未だ見ぬ感情(恋愛や性愛)が、さいわいな邂逅を果たす前から、異性たち(あるいは異性を侍らせることを自明にしている同性たち)によって土足にかけられ汚されている。夢を奪われ、もっとも無染でやわらかい夢見がちな部分を、あまつさえ男たちのつまらない見栄や早熟な気負いによってあらかじめ嘲笑されたような悔しさ。
「同性のあの子」とのいきさつが、自慰をしているかと訊いて来た男子のエピソードに比べてやや不分明か。
「わたし」が永の年月を経て、たどりついた一つの確信があらわされている。
11位 一輪のはな/天音空
死に目に間に合わない長男、今わの際に力強く吐き出された母の吐息に、争われないリアリズムがある。とはいえ、看取りの介護士の言葉は訓詁的であり、表現にも重複が見られる。筆歴が浅いことを感じさせる。
★
12位 鉛/チヌ
葬儀屋の先輩と後輩。先輩は夙くに弟を亡くし、後輩は死者を見送る毎に心のなかに病巣のように育ってゆく重さを、鉛だと言う。後輩はこの重さは死という状態への憧れではないかと考え、先輩は先輩で、十年前に見送ったはずの弟へと引っ張られつづける心の動きを解き明かそうとする。葬儀屋のくさぐさ、死に化粧をたくみにほどこす納棺師の話や、葬儀から宗教色が漂白されてゆく業界の趨勢、葬儀屋ならではの麻痺する感覚などについて、該博な知見が得られる。が、やや詰め込みすぎ。そして決定的に問題なのは、文体。一人称小説ではなく傍白による小説であり、すべてが現在形で書かれ、脈絡の付け方が恣意的にすぎて、外部に働らくモメンタムが取っ払われてしまっている。この傍白による小説で特徴的なのは、否定語を重ねるスタイルであり、補集合を作りたがり、その余白のあいまいな領域に答えがあるかのように仄めかすが、決して指呼しない。
13位 紅蓮/鹽夜亮
すべてがおそらくはメタファ。教会に月が皓々と照っているかと思いきや、どす黒い赤いろに染まり、その傍を血の川が流れている。土曜の夜の主日の弥撒であろうか、参列する者とてないがらんどうの堂上にて、盲目の司祭が型のごとく式次第を司っていると、傍を流れている血の川が、これに応じておどろおどろしく脈動しはじめる…自身の身体の内部で起きている出来事の、擬人法的な再現か。
《許されない罪。下されない罰。》とあるように、生きることのもどかしさが吐露されているように思われる。《紅蓮の灰》、この、完全燃焼のあとにのこる物質がまだ赫々とおこっているという形容矛盾は、言葉が本来の意味から解放されて――言葉本来の意味を燃やし尽くしたあとにのこるところの、灰のような言葉から、また一から世界を樹ち上げようという意図を含んでいるようにも考えられる。
それゆえに、撞着語法がゆきすぎて、文意不通になっている感が否めない。所帯じみていないのはいいが、奇を衒いすぎている。
14位 鼻下の鼻水 美化で乾びる:美化の鼻水 鼻下で乾びる/アタオカしき
会話文に質感がある。ティッシュを口にする描写に、読者は少し怖気をふるうだろうが、それも文章の流れのよさのおかげでくどくはなく、まるで水洟のようにするりと流れ込んでくる。ごくん。そしてこの短い間にさりげなく世代が変わる。問題は色の描写であり、瞳が青かったり、赤かったりするわけはないが、青、赤と書かれていることだ。言葉が言葉どおりの意味を発揮できないというのは、通貨のような交換の速さという、言葉の美点を殺すことに結果的になるだろう。
15位 虫眼鏡さん/文鳥
高台の中腹にあって、自転車にしろ徒歩にしろ、便がわるさに不人気な、公園のなりそこない。詩的な情景がうちつづく。町一番の高台に立って、それを一望の下におさめる。なんて小さな町。そんな小さな町にいる「僕」の小ささに苦しめられているところへ、一握の石ころの中にさえある、黒雲母の耀きをおしえる女性――。ところで、降って湧いたようにあらわれた女性にすぐに心を開いてしまうというのは、物語の中でのみありうることであって、純文学的ではない。「運命の出会い」という便利な釈明で、この心の動きを説明してよいのは、物語の中だけに限られている。
16位 Golden Slumber -Die Stille des Goldes(黄金の静寂)-/Spica|言葉を編む
「黄金の均整」のために凡ゆるものを犠牲にする、誇り高い階級と、そこから転落し、余生を均整のほつれから砂金のようにしたたり落ちる美とともに送るレオポルト。描写が列柱のように整然と並んでいるが、端正にすぎる。美しく書こうとして却って硬直してしまったか。
均整の崩れにこそ美を見出す、というのは何となくわかるが、まずそこまでレオポルトをして固執せしめた「黄金の均整」とは具体的にどんなであるかが描けていない。多少の描写があるにしても、均整に添うてレオポルトの心の襞がはりついてゆこうとして、外界へとレオポルトの心象がはみだしてゆくいきさつは、少なくとも描かれていない。ために、均整の崩れの美へとレオポルトの関心が辷り出してゆくときの、反動の烈しさも、その反動がいかに従来の彼から遠いものであったかも、伝わってこない。
均整がどんな風に心に触れてきて、均整の崩れがどんな風に心に触れてくるのかが描かれていない。《計算されぬ自然》《計算から外れた配置》から《美しい》までのあいだに飛躍がある。ここに物足りなさを感じる。
17位 黄泉の夢/桐生甘太郎
赤土の荒野と聞いて、オーストラリアをイメージしてしまう。しかもその土がえぐられて岩盤が露わになっている道を行くと、漆の禿げた黒門がたちはだかり、抱えるに余りありそうな大蛇が横合いからのたくりあらわれる。酒をあたえてこれをやりすごすと、次にあらわれたのは、壁のない建築模型のような、戸外からは見通しの武家屋敷。七輪の上で魚を焼いている男がこちらを麾いている。黄泉の国にまで来て、焼き魚の香ばしい匂いに鼻腔をくすぐられるが、どうにか耐えて行きすぎる。黄泉戸喫(よもつへぐい)を忌避してか。
こう、おかしな時代・土地がきびすを接してやってくるのはいかにも夢らしい。死の切迫感よりも、おかしな呑気さが際立っている。
術後の寝床の上で、真っ先に思い浮かんだのが、自分の背中を追いかけてきたあの魚の脂身の焼ける匂いだったところに、生とはそんなものかも知れないと、へんに腑に落ちてくるものがある。
18位 黒猫さがし/飛騨群青
私小説の質感はあるが、自嘲にも自堕落さがにじんでいて、率直さだとは言いがたいものがある。また、自分というものを見る時の、あるいは他人というものを見る時の、切り出し方がステレオタイプであり、独創的でない。独創的な人生の見方ができているわけではないのが難点だ。私小説はステレオタイプの独白であってはならないだろう。
19位 摺鉢山プラネタリウム/乙島 倫
硫黄島のトーチカ内で、負傷した兵士が隙間洩る昼の光りを、夜の星明りに見立てて鑑賞するという倒錯した状況はおもしろい。しかし描写は活性を得ていず、その時代の空気を如実に伝えるには程遠く、着想の段階で止まっている感がある。表現ではなく、事実の羅列にとどまっている。
20位 なんでも修理屋の奇妙な一日/時津彼方
修理屋に持ち込まれたのが紙幣であるところが面白い。電子化がすすむ今、紙幣価値は無機質な数字へと還元されつつあるが、それでも人は退職金、保険金、親から相続したもの等、今や数字にすぎないものにも見出しをつけて、大切に棚に仕舞い、いざと言う時まで開封しようとしない風潮が残る。ただ、一人称が「俺」であることが難点。お話であっても純文学ではないだろう。
21位 海辺のコダマ/坂月タユタ
宿屋の主につれられて、ヒリゾ浜へ出向いてから、にわかに景色が色づきはじめる。が、そこへゆくまでの溜めが足りない。
22位 仔猫の事務所/オニキ ヨウ
猫の寿命を考えると、叔父が職を逐われてからの数年の間に、パソコンが普及していることや、パソコンと竈が同時に健在である社会とはどんな風なのか、といった疑問はあるが、いずれにしても、賢治が獅子の口をして言わしめた「そんなことで地理も歴史も要つたはなしでない」という言葉の意味を、敷衍するか、現代において問い直している風ではない。
23位 【ちょっぴり切ない文学短編集】ピアノと心象風景/蓮太郎
純文学ではない。第5話を読んで惟うに、大切なことは、答えを手短かに与えてもらうことではなくて、最後まで自力で考えぬくことだろう。誰かが答えを持っている筈はなく、その思索の手段の一つとして、執筆がある筈だ。にも拘わらず、考えぬく力がないばかりに、なから半可に思索に首をつっこんで、まもなくぐにゃりと向きを変えて、思索を詠嘆調に切替える癖がついているように思われる。
経験自体に色がついていて、経験自体を主張している。経験を詠嘆調に流すことが念頭にあるためか、思索に芯が感じられない。
24位 山寺の読経/本歌取安
私刑の免状を得て、江戸へ仇討ちに向う大次郎が、日の暮れかかる山の中、読経の声を聞きつけてとある山寺の主に一宿一飯を請う。主の了念は自分の若い頃に引きくらべて、大次郎の逸る忠孝を思いとどまらせようとする。
とはいえ、大次郎については《真実とは、なにか。仇とは、誰か。》と独白しており、ここが文学のとば口に思われるが、この問いが発せられたときには話は終わってしまっている。
また了念については《……それが、拙僧の罪であり、悟りでございます》とあり、便宜的に罪-読経-悟達が即座に結び付けられてしまっている。文学的な関心は、むしろ罪から読経、読経から悟達にいたるまでの中間規定をえがくことにあるのではないか。
25位 旬のものがたり/ほとけのざ
26位 爪を切る/八沢りゅう
27位 最低/ぐうたら者
28位 初雪/吉江和樹
描写性が稀薄。人物像に立体感がない。人物を記号として動かしている感が強い。
――
淑子-翔子、松坂-松崎 の表記揺れ
29位 忘れもの/Benedetto
転校生の相川の物言いがヒロイックで、少し浮いている。抵抗せよ、という教訓で終っており、間然するところのない解決を見ているため、純文学の領域ではないと考える。
30位 白昼夢/宵
純文学ではない。漫画やアニメに由来するあの「平凡な日常」「平均的な能力」からの世界の見方に毒されすぎている。しかしそんなものは存在しない。存在しない概念をなぞっている時点で、生活自体を批評できていない。たとい日常が平凡であり、生活が美しくなかろうと、それを「平均的感受性」でもって描いてはならないのが、純文学の掟だ。経験の質量や特異性を揮発させたような、匿名の、試供品のような人生が羅列されている。感情の機微が、上から鑢をかけられたようにすり減っていて稀薄である。
読んでいて引っかかる――そこに注意を促すような言葉がない。黐のような違和感でもって読者を釘付けにする言葉こそ、異化の基点となりうるが、それが皆目見当たらない。
31位 酒仙郷 - 濃尾/濃尾
山中で濁酒を得てから、男を追うて、やがて孤絶した集落に辿りつくまでの足取りの長さと、集落の者に接見して逐い出されるまでの短さのアンバランス。縄目の辱めを与えたことを詫びた年長者がまもなく先島を再び縛めた点にも違和感がある。尻すぼみな感じがしてもったいない。
32位 君によく似た幻影/Wildvogel