・ああでもないこうでもない、とさんざんに思い悩みながらレビューを書く。わたしは何のためにレビューを書くのだろうか。レビューをもらって嬉しくない人はいないという論を目にするが、なおやはり疑わずにはおれない。誰もお前のレビューを待っていないという声が聞こえるようである。
鈍くさいわたしのことだから、見当違いなことのひとつやふたつはだいたいいつも言っていることだろう。それは排するに越したことはないと思うが、それを言い出すと誰もレビューなどを書けなくなり、書かなくなりはしないか。わたしがレビューを書いて、わたし以外のひとがレビューなどを書きやすくなれば良い。そう信じたい。
しかし、である。わたしも他者のレビューを見たとき、その作品をじゅうぶんに読まないことが多い(とりわけ長編の場合は)。自分と他者の感性のちがいが身にしみて、つらくてくるしい。
ある長編の作品を読みつづけるかどうかは、その作品の紹介ページを見て数千文字も読めばだいたい決まる。語弊を恐れずに言えば損切りである。比較的時間に恵まれているわたしがこんななのだから、他者においては推して知るべしである。
口上を連ねたが、デジタルタトゥーをむやみに恐れず、発言に気をつけながら活動したい。わたしは掲示板を見たりエゴサ(死語じゃないよね)をしたりする習慣がないので、そこらで鈍感力を発揮したい(「鈍感力」の誤用の気もするが)。
・愛用していたヘッドホンを充電するのに必要な道具をなくした。『ヒカルの碁』(『ヒカ碁』)というアニメ(原作は漫画)の某オープニング主題歌をヘビーローテーションしようと思っていたのだが。
『ヒカ碁』が放送された当初は、ジャンプでもこのような題材の作品を連載するのだと思った記憶がある。それを見てプロ棋士になった人もあろうから、その影響力はやはり侮れない。『ボーボボ』を見て鼻毛真拳の使い手になろうと思ったひとは少なかろうが。
・どうすれば人に話しを聴いてもらえるのかが分からない。わたしは自分で思っているほど誠実ではないのかもしれない。「至誠天に通ず」とは言わないが、誠実であればめったに他者から拒絶されないと考えていた。
嘘(事実でないことを言うこと、心にないことを言うこと)をつかないのもほどほどが良いのか、覚えず嘘をついているのか。後者だとすれば、改めるのがたいへんそうである。