私は表現することに対して枠を決められるのが好きではなくて、直ぐにはみ出してしまいがちです。
今回、執筆するものとして、邪道と呼ばれる手法に手を出しましたが、小説家は文章で表現すべき、基本はそう思います。
それを踏まえた上で、色々と試してみたのですが、なかなか楽しかったのは間違いないですね。
しかし、ヨムとなった時に弊害もありまして、レイアウトに拘らなければ作れない。
また、本等にした場合一枚の紙に収まらないので、どう足掻いてもWeb限定となります。
即ち、本来は執筆を超えた表現はするべきではないのでしょうね。
しかし、挿絵と言う文化が、何故か受け入れられている事を考えれば、作本にした場合も考えて一つの新しい作品が生まれる可能性も考えられます。
例えば、エフェクト入りの本なんてと思うかも知れませんが、ヨムに当たり、想像力が乏しい人も大勢おられます。 私などは無駄に創造まで膨らませてしまいがちですが、そう言った雰囲気を文章以外で伝える文化もそのうち出てくるのではないか、とか思っております。
ヨムも近年は声優さんや俳優さんが読むことで、一層雰囲気を表現する文化が生まれつつあります。そのうち効果音等も入ってくるかも知れません。
これからAIという技術はあらゆる可能性を広げて行き、シンギュラリティなんて事が本当に起こるのではないかとも思っております。
私はAIの創造の限界を超えてやろうと思っております(嘘)
話が大きく広がってしまいましたが、この拙い数話を楽しんでくださった方もおられて、少し安堵しているのも事実。
作るって仕事の楽しさを知っている私は、やはり職人からは逃れられない性格なのだと、改めて思いましたとさ。チャンチャン。