中崎町を久々に歩きました。
中崎町は、姉の世代の街、というイメージがあります。
姉は、むかし、谷町四丁目にあった「屋台村」というところでバイトしていました。
そんな屋台村でバイトしていたような若者たちが、中崎町に流れていった。
ような気がします。
そうでもない気もします。
アメ村でバイトしていた人も、中崎町へ……。
行ったような気がします。
そうでない気もします。
アマントって知ってる? と姉に聞いたら、もちろん知ってました。
「アマント? ああ、あの人やろ?」
半笑いでした。
姉に、かっこいいものが通用したことがありませんでした。
アマント素敵~も何も通じません。もしそんなこと言ったら、「ああw」と諦められるような顔をされます。
EGO-WRAPPIN'の「くちばしにチェリー」を聴いていたら、「恐ろしください曲聴いてるけど大丈夫か。まさかエゴラッピンとか聴いてるんちゃうやろな……」とわざわざ弟の部屋の中まで心配して入ってきたこともありました。
DJ SARASAのファーストアルバムのヒップホップのアルバムを聴いていると、姉がやってきて冒頭の曲をゲラゲラ笑ってました。「はははは!めっちゃおもろいw」と。
「怖い」
と、思いました。
本当に、心の底から、子どもの冗談を笑うように笑うのです。
批評家でもなければ、自意識過剰でもない。アーティスト気取りでもない、ごくごく自然な「笑い」。なにこれ?w という笑いです。馬鹿男子を見ると笑うでしょう。あれと同じトーンです。
姉の世代(40代)というのはめちゃくちゃ音楽をよく聴いていた、もしくは文化を自分で作っていく世代で、その批評眼や価値観はとてもはっきりしています。自分の感覚に正直で、中庸ぶってどれも良いとは言わない。
少し下の私は、その40代が裸一貫で作ったおしゃれに、便乗する、あこがれる、素敵だという、手のひらで踊らされているような感じがするくらい、なさけないものです。姉の世代が作っているものから、一歩もその次にいけてません、むしろ悪化してないか、とも思ったり。これは言いすぎでしたね。やめときます。
朱夏というバーにいくと、姉と同じ年齢くらいの髪の長い女性がいて、ちょうど姪っ子と同じくらいの男の子がバーに帰ってくるところでした。バーのママの息子でしょうか、わかりません。
そこに、姉がもしいたら、半笑いでビール飲んでいて、「いまいちやな」と中崎町を酷評して、谷町のオシャレなところでわいわいやっているところでしょう。これも言いすぎですね。やめときます。
私は中崎町も、谷町も好きです。
はい、フォローは終了。
中崎町で、久々にサクラビルに行きました。むかいにはフレンチレストランがあったはずなのですが、なくなっていました。
サクラビルも、サイカロウという大正ロマン風バー&ギャラリーがありました。とてもお気に入りの場所で、しょっちゅう行ってました。夫婦で経営していて、旦那の方は正体不明の自衛官?で、廃墟サイトを運営して、おそらく死体とか見つけていました。ヒモ男のように見えましたが、よくわかりません。あのサイカロウの女主人は、いまも元気なのでしょうか。また会ってみたいです。
サクラビル内は、ほとんど古着屋になっていました。葉ね文庫だけが、かつてのブックスダンタリオンのようなおもかげでそこにありました。
しばらく歩くと、「アラビクまだやってたんや!」「うてな喫茶店もまだやってる!!」と懐かしくなりました。
途中、ジュース屋さんがありました。
かつて姉は、ジュース屋さんをやりたいと言ってました。みんな必死に止めたりしました。
ジュース屋さん、反対しなければよかったと今では思います。
それから、ニートだったころの私に、ある日、雨具のデザインというか画像加工の仕事を私にさせようとしてきました。
ニートの私に、すごく遠慮がちに、「いつでもいいよ」と言ってくれました。
結局できずに終わりました。
ああいう優しさも、もう今はないのだろうと思うと、時間が戻らないことに、本当に悔しさを感じます。
ひさびさにおとずれた中崎町で、私は見つけたそのジュース屋の外観の写真を撮りました。
いつか、小説内で、ジュース屋を経営する姉の姿を書く。
そこで、姪っ子が友達とジュースを飲んでいて……。私がその光景を写真に撮っていて。